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コトノハの木の下で  作者: 氷河期のやもめ
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月のひかり

 都会の湿った風みたいに、どこか重たい気分のまま、僕はここに来ていた。今さら後悔しても仕方ない。仕事に私情は挟まない。それが僕の流儀だった。

「おう、織付。相変わらず陰気な顔してんなあ。ほれ」

 先輩がビンビールを差し出してくる。

「あ、いただきます。いえ、もうそのくらいで」

「おいおい、てめぇ一人しらふでいるつもりかぁ?」

 乾杯してまだ十分も経っていないのに、もう出来上がっている。こういうのを絡み酒というのだろう。

 高層ビルの十五階。街の喧騒から少し離れた、落ち着いた雰囲気の店だった。料理長のつてで借りたらしい。

「雨さえ降らなきゃな。テラス席でやれたんだけど」

 そう言い残して、先輩は呼ばれて向こうへ行った。

 外はまだ雨が降っている。ふと、真唯子は傘を持っていただろうかと思った。気づけば僕は、部屋を抜けてテラスへ出ていた。

 私情は挟まない――そう言いながら、ただ一人になりたかった。軒の下で、滲んだ夜景を眺める。

「こんなところで何してるのかしら」

 振り返ると、秋吉さんが立っていた。

「主役がこんなとこに来るのも、どうかと思いますけど」

「そうね」

 彼女は軽く笑った。

 僕の横顔をじっと見つめて、それからふっと吹き出す。

「笑い上戸なんですね」

「私? 違うわよ。お酒、あまり飲まないし。ただ……面白かっただけ」

「僕の顔が、ですか」

「怒った?」

 そういう顔をしていたのだと思う。

「違うの。最初に会ったときから、織付君って変わらないなって思って」

 褒められているのかは分からない。

「まあ、辛気臭いのはいつものことですから」

 そう返すと、彼女はそれ以上何も言わなかった。

「再婚、おめでとうございます」

 思い出したように僕は言った。

「めでたいことなのかしら。でも、ありがとう」

「嬉しくないんですか?」

「そんなことないわよ。嬉しいわ。またウェディングドレスが着られるし」

 柔らかく笑った顔で、本音ともつかない言葉を口にする。

「風、冷たいね」

 彼女は髪をかき上げる。揺れる髪が、やけに印象に残った。

「秋吉さんは……」

 僕は言いかけて、少しためらった。

「どうして再婚したのか、でしょ」

 先に言われた。

「そうです」

 頷くと、彼女は少し照れたように笑った。

「その人のそばに、いたかったから」

 ありきたりな答えだった。

「納得できない?」

「……結婚とか離婚って、そんな簡単に決められるものなんですか」

 一瞬だけ、彼女の表情が止まる。けれどすぐに、元の穏やかな顔に戻った。

「もちろん、悩んだわ。本当にこの人でいいのかって、何度も」

「それは最初のときも?」

「ええ」

「それでも、別れたんですよね」

 彼女はすぐに答えなかった。そして、ふいに涙がこぼれた。

「あの、すみません」

「いいのよ。ちょっと思い出しただけ」

 そう言って、彼女は話し始めた。

「前の人とはね、死に別れたの。進行の早い癌で……分かったときには、もう」

 言葉が続かない。

「もう四年になるかな。闘病生活は大変だった。でもね、苦しむ姿は見たくなくて……」

 再婚相手は、そのときの主治医だと教えてくれた。

 夫の命を一年延ばしてくれたこと。最後の時間を穏やかに過ごせたこと。

「だから、感謝してるの」

「それが、結婚の理由ですか」

「それもあるけど……」

 少しだけ、優しく笑う。

「大切な人を幸せにしてくれた人だから。私のことも、きっと幸せにしてくれるって思えたの」

 その言葉を聞きながら、僕はどこかで羨ましいと思っていた。

 苦しまずに死ねることが。

 最期まで一緒にいられることが。

「そうですか。……よかったですね。前の旦那さんのことも、綺麗に忘れられる」

「それは違うわ」

 表情を翻し、彼女ははっきりと否定した。

「忘れられるわけないじゃない。大切な人、だったんだから」

 静かに、でも強く言う。

「確かに、辛いことよ。けど、その人との思い出があるから、今の幸せを大切にできる。それがあるから、私はまた生きていけるの」

 その言葉が、胸の奥に染み込んできた。

「最期まで私の幸せを願ってくれた、その人の命の意味を、なくしたくないじゃない」

 雨が弱くなっていた。空には、薄く月が浮かんでいる。

「ユウ」

「え?」

 思わず、名前が出た。

「いえ……僕も少し、昔のことを思い出しただけです」

 気づけば僕は、全部話していた。

 ユウのこと。真唯子のこと。物語のこと。

「そう……そんなことがあったのね」

 彼女はただ静かに、それだけ言った。

「自分を責めすぎるのは、よくないわ。間違いに気づけたなら、それで十分よ」

 その言葉を聞いたとき、胸の奥に張りついていたものが、わずかに緩んだ気がした。

 ユウを救えなかったことも、何もできなかったことも、ずっと自分の中で抱え込んできた。それを手放してはいけないものだと思っていたし、そうしていることが、せめてもの償いだと信じていた。


 けれど――それだけがすべてじゃないのかもしれない。


 そう思えたのは、初めてだった。

「……僕、行きます」

「うん、行ってあげて。きっと待ってるわ」

「ありがとうございました。お元気で、お幸せに」

 扉に手をかける。

「織付君」

 不意に呼び止められた。

「今までは、ただ優しい人だと思ってた。でも今は……ちゃんと向き合える人だと思う」

 少しだけ、照れくさくなる。

「そんなこと言われたの、初めてです」

 振り返らずに、僕は笑った。

「お幸せに」

 その言葉に、今度は精一杯の笑顔で応えた。

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