そしてぼくらは生きていく
会場を後にした僕は、タクシーを拾うとすぐに真唯子の実家へ向かわせた。アパートを引き払った以上、彼女の居場所はそこしかないはずだった。
だが、問題が一つある。彼女の両親に、僕はよく思われていない。顔を合わせれば、門前払いは目に見えている。
それでも――構わなかった。会わせてもらえるまで、引き下がるつもりはない。
「馬鹿なこと考えんなよ」
心の中で、自分に言い聞かせる。
十年前のことが、ふとよぎった。嫌な想像を振り払うように、僕は目を閉じた。何より彼女の無事が、気がかりだった。
車を降りると、そのまま走った。マンションの二階。エレベーターを待つより、階段のほうが早い。息を切らしながら呼び鈴を押す。二度目に指をかけたところで、扉がわずかに開いた。
チェーン越しに、母親が顔を覗かせる。
「夜分、すみません。真唯子、いますか」
うまく声が出ない。けれど必死さだけは伝わったのか、無視はされなかった。
「家にはいないわよ」
「あの、どこに……」
「知らないわ。帰ってちょうだい」
扉が閉まりかけるのを、僕は咄嗟に手で押さえた。
「あのっ、本当にいないんですか!」
「さっき出て行ったばかりよ! しつこいと警察呼ぶわよ!」
その言葉に、思わず手を離してしまう。
重い音を立てて、扉が閉まった。
「くそっ……どこ行ったんだよ」
本当にいないのか――半信半疑のまま、その場を離れる。これ以上粘っても仕方がない。父親が出てきていたら、話す余地すらなかっただろう。
携帯は電源を切っているのか、ずっと繋がらない。とりあえず家に戻り、卒業名簿を引っ張り出した。仲の良かった友人に片っ端から電話をかける。
――だが、手がかりはなかった。
僕は外へ飛び出し、スクーターにまたがった。雨は弱まっていた。中央公園、駅前――思いつく場所を順に回るしかない。
大通りまで出た、そのときだった。
「アイツの行きそうな場所……」
ふと、ひらめいた。
「……もしかして」
いや、間違いない。真唯子は、いつもユウの背中を追っていた。そして今日は、命日だ。
あの場所しかない。
「反対方向か、ったく」
ハンドルを切り、来た道を引き返す。団地の間を抜ければ最短だ。
その途中、暗がりの中に、赤い光が見えた。
「なんだ、あれ……」
幼稚園の片隅。
火事ではない。小さな炎――焚き火のようなものだった。そしてぼんやりと人影も。
スクーターを乗り捨てるように降り、塀をよじ登る。中を覗き込むと、ハナミズキのそばで何かが燃えていた。そして、その前にひとりの影も。
傘で顔は隠れている。けれど、分かる。幼い頃から、ずっと見ていたんだ。間違えるはずはない。
音を立てないように近づき、僕は声をかけた。
「イモは上手く焼けたか?」
彼女が振り向く。見慣れた顔に、ほんの少しだけ驚きが混じっていた。
「何しに来たの」
そっけない声だった。
「野暮なこと聞くなよ。俺とお前の仲だろ」
以前彼女に言われた言葉を、そのまま返す。
「……いいかげん傘とじろよ。雨、やんでるぞ」
言われて初めて気づいたように、彼女は空を見上げた。傘をたたみ、しずくを払う。
「アンタこそ、ずぶ濡れじゃん。風邪ひいても知らないよ」
「どうでもいい。それより、何燃やしてんだよ」
火に近づいて、僕は言葉を失った。
そこにあったのは、数冊のノート。いや――ただのノートじゃない。これは学生時代の……
「お前――」
「けじめだよ」
真唯子が隣にしゃがみ込む。
「ユウとアンタに対する」
炎を見つめるその目は、静かだった。
「ずっと持ってた。未練たらたらでさ。だから、あたしの書くものって全部、コンプレックスの塊だったんだと思う」
火の中で、ページが黒く縮れていく。
「どんなに書いても、届かない。いいものなんて、できない」
少し置いて、彼女は続けた。
「でも、分かったんだよ。アンタの書いたやつ読んで」
僕を見る。
「大勢じゃなくていい。たった一人でも、誰かを幸せにできるもの。それがどれだけ強いか。あたしには……それがなかった」
視線はまた炎をとらえた。
「そんなことないだろ」
僕は思わず言った。
「お前だって――ユウのこと、あんなに慕ってたじゃないか」
ユウが話していたことを思い出す。
「お前と一緒にいると、妹がいるみたいだって。あのときのユウ、本当に嬉しそうだった」
真唯子は、小さく首を振った。
「……甘えてただけだよ」
炎が揺れる。
「分かってる。書くだけじゃダメなんだって。一歩進まなきゃいけない。でも――」
言葉が途切れ、声がかすれる。
「十年も経って、どんどん遠くなってく。ユウが……。だから……アンタに頼ってでも、書こうって、アタシ……」
その頬に、光るものが伝った。
「それで、俺に妥協したのか」
「……悪かったと思ってる」
彼女は立ち上がる。
「今日のことは忘れて。もう甘えない。アンタとも会わない」
そして、僕をまっすぐ見た。
「でも――これだけは言わせて」
手を取られる。
「好き」
はっきりとした声だった。
「証明なんてできないけど、本物だよ。だって――アンタは、ユウを幸せにしてくれた」
指に力がこもる。
「あのときのユウ、本当に幸せそうだった」
涙がにじむ。
「だから……もう誰も愛せないなんて、言わないで。アンタの優しさで、もっとたくさんの人を幸せにしてあげて」
その熱が、まっすぐ伝わってきた。自分なんかのために、大切な気持ちを犠牲にしないでと。
「……最後まで、泣き言ばっかでごめんね」
笑おうとしていた。けれど、うまくいっていなかった。
僕は、その手を引いた。
「ばかっ……引き止められたら、惨めになるじゃん……」
震えていた。
壊れそうなほど、強く抱きしめる。
「俺が同情でお前に接したことなんて、一度でもあるかよ」
言葉が自然に出た。
「ずっと見てきた。お前が頑張ってるのを。……だから、慰めで終わらせたくない」
大きく息を吸う。
「焦る必要なんてない。お前は、お前のやり方でいい。……その隣で、一緒に走るやつがいてもいいだろ」
真唯子が顔を上げる。
その目を、まっすぐ見た。
正直に言えば、まだ整理はついていない。
今でもユウのことが一番好きだ。けれどそれは、恋とは違う。
だからこそ――誰かを想うことも、誰かを幸せにしたいと願うことも、きっとできる。
言葉にしなければ、また同じことを繰り返す。
だから――もう逃げない。
「愛してる」
静かに、そう言った。
彼女の目が揺れる。
「……信じていいんだよね?」
「あたりまえだろ」
抱きしめたまま答える。
「また二人で、やり直していこう」
彼女は、小さく頷いた。
腕の中で、その温もりを確かめるように。
物語のように、人生は書き直せない。
けれど、人の繋がりは、命の連なりとして、この世界に残り続ける。
人も、動物も、虫も。 生と死のあいだで、途切れることなく。
出会いと別れを繰り返しながら、命はまた次へと渡っていく。
その先に、すべてが幸せでいられる世界があると、僕は信じている。
それが――僕らの幸せに繋がっているはずだから。
やがて、炎は静かに弱まり、燃え尽きた紙片が、火の粉になって夜に舞う。揺らぐ煙が、霧のように霞んだその向こうに――微笑むユウの姿を、見たような気がした。
まるで全てが幻のような、そんな一瞬のことだった。




