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コトノハの木の下で  作者: 氷河期のやもめ
11/12

そしてぼくらは生きていく

 会場を後にした僕は、タクシーを拾うとすぐに真唯子の実家へ向かわせた。アパートを引き払った以上、彼女の居場所はそこしかないはずだった。

 だが、問題が一つある。彼女の両親に、僕はよく思われていない。顔を合わせれば、門前払いは目に見えている。

 それでも――構わなかった。会わせてもらえるまで、引き下がるつもりはない。

「馬鹿なこと考えんなよ」

 心の中で、自分に言い聞かせる。

 十年前のことが、ふとよぎった。嫌な想像を振り払うように、僕は目を閉じた。何より彼女の無事が、気がかりだった。

 車を降りると、そのまま走った。マンションの二階。エレベーターを待つより、階段のほうが早い。息を切らしながら呼び鈴を押す。二度目に指をかけたところで、扉がわずかに開いた。

 チェーン越しに、母親が顔を覗かせる。

「夜分、すみません。真唯子、いますか」

 うまく声が出ない。けれど必死さだけは伝わったのか、無視はされなかった。

「家にはいないわよ」

「あの、どこに……」

「知らないわ。帰ってちょうだい」

 扉が閉まりかけるのを、僕は咄嗟に手で押さえた。

「あのっ、本当にいないんですか!」

「さっき出て行ったばかりよ! しつこいと警察呼ぶわよ!」

 その言葉に、思わず手を離してしまう。

 重い音を立てて、扉が閉まった。

「くそっ……どこ行ったんだよ」

 本当にいないのか――半信半疑のまま、その場を離れる。これ以上粘っても仕方がない。父親が出てきていたら、話す余地すらなかっただろう。

 携帯は電源を切っているのか、ずっと繋がらない。とりあえず家に戻り、卒業名簿を引っ張り出した。仲の良かった友人に片っ端から電話をかける。

 ――だが、手がかりはなかった。

 僕は外へ飛び出し、スクーターにまたがった。雨は弱まっていた。中央公園、駅前――思いつく場所を順に回るしかない。

 大通りまで出た、そのときだった。

「アイツの行きそうな場所……」

 ふと、ひらめいた。

「……もしかして」

 いや、間違いない。真唯子は、いつもユウの背中を追っていた。そして今日は、命日だ。

 あの場所しかない。

「反対方向か、ったく」

 ハンドルを切り、来た道を引き返す。団地の間を抜ければ最短だ。

 その途中、暗がりの中に、赤い光が見えた。

「なんだ、あれ……」

 幼稚園の片隅。

 火事ではない。小さな炎――焚き火のようなものだった。そしてぼんやりと人影も。


 スクーターを乗り捨てるように降り、塀をよじ登る。中を覗き込むと、ハナミズキのそばで何かが燃えていた。そして、その前にひとりの影も。

 傘で顔は隠れている。けれど、分かる。幼い頃から、ずっと見ていたんだ。間違えるはずはない。

 音を立てないように近づき、僕は声をかけた。

「イモは上手く焼けたか?」

 彼女が振り向く。見慣れた顔に、ほんの少しだけ驚きが混じっていた。

「何しに来たの」

 そっけない声だった。

「野暮なこと聞くなよ。俺とお前の仲だろ」

 以前彼女に言われた言葉を、そのまま返す。

「……いいかげん傘とじろよ。雨、やんでるぞ」

 言われて初めて気づいたように、彼女は空を見上げた。傘をたたみ、しずくを払う。

「アンタこそ、ずぶ濡れじゃん。風邪ひいても知らないよ」

「どうでもいい。それより、何燃やしてんだよ」

 火に近づいて、僕は言葉を失った。

 そこにあったのは、数冊のノート。いや――ただのノートじゃない。これは学生時代の……

「お前――」

「けじめだよ」

 真唯子が隣にしゃがみ込む。

「ユウとアンタに対する」

 炎を見つめるその目は、静かだった。

「ずっと持ってた。未練たらたらでさ。だから、あたしの書くものって全部、コンプレックスの塊だったんだと思う」

 火の中で、ページが黒く縮れていく。

「どんなに書いても、届かない。いいものなんて、できない」

 少し置いて、彼女は続けた。

「でも、分かったんだよ。アンタの書いたやつ読んで」

 僕を見る。

「大勢じゃなくていい。たった一人でも、誰かを幸せにできるもの。それがどれだけ強いか。あたしには……それがなかった」

 視線はまた炎をとらえた。

「そんなことないだろ」

 僕は思わず言った。

「お前だって――ユウのこと、あんなに慕ってたじゃないか」

 ユウが話していたことを思い出す。

「お前と一緒にいると、妹がいるみたいだって。あのときのユウ、本当に嬉しそうだった」

 真唯子は、小さく首を振った。

「……甘えてただけだよ」

 炎が揺れる。

「分かってる。書くだけじゃダメなんだって。一歩進まなきゃいけない。でも――」

 言葉が途切れ、声がかすれる。

「十年も経って、どんどん遠くなってく。ユウが……。だから……アンタに頼ってでも、書こうって、アタシ……」

 その頬に、光るものが伝った。

「それで、俺に妥協したのか」

「……悪かったと思ってる」

 彼女は立ち上がる。

「今日のことは忘れて。もう甘えない。アンタとも会わない」

 そして、僕をまっすぐ見た。

「でも――これだけは言わせて」

 手を取られる。

「好き」

 はっきりとした声だった。

「証明なんてできないけど、本物だよ。だって――アンタは、ユウを幸せにしてくれた」

 指に力がこもる。

「あのときのユウ、本当に幸せそうだった」

 涙がにじむ。

「だから……もう誰も愛せないなんて、言わないで。アンタの優しさで、もっとたくさんの人を幸せにしてあげて」

 その熱が、まっすぐ伝わってきた。自分なんかのために、大切な気持ちを犠牲にしないでと。

「……最後まで、泣き言ばっかでごめんね」

 笑おうとしていた。けれど、うまくいっていなかった。

 僕は、その手を引いた。

「ばかっ……引き止められたら、惨めになるじゃん……」

 震えていた。

 壊れそうなほど、強く抱きしめる。

「俺が同情でお前に接したことなんて、一度でもあるかよ」

 言葉が自然に出た。

「ずっと見てきた。お前が頑張ってるのを。……だから、慰めで終わらせたくない」

 大きく息を吸う。

「焦る必要なんてない。お前は、お前のやり方でいい。……その隣で、一緒に走るやつがいてもいいだろ」

 真唯子が顔を上げる。

 その目を、まっすぐ見た。


 正直に言えば、まだ整理はついていない。

 今でもユウのことが一番好きだ。けれどそれは、恋とは違う。


 だからこそ――誰かを想うことも、誰かを幸せにしたいと願うことも、きっとできる。

 言葉にしなければ、また同じことを繰り返す。


 だから――もう逃げない。


「愛してる」

 静かに、そう言った。

 彼女の目が揺れる。

「……信じていいんだよね?」

「あたりまえだろ」

 抱きしめたまま答える。

「また二人で、やり直していこう」

 彼女は、小さく頷いた。

 腕の中で、その温もりを確かめるように。



 物語のように、人生は書き直せない。

けれど、人の繋がりは、命の連なりとして、この世界に残り続ける。

 人も、動物も、虫も。 生と死のあいだで、途切れることなく。

 出会いと別れを繰り返しながら、命はまた次へと渡っていく。

 その先に、すべてが幸せでいられる世界があると、僕は信じている。

 それが――僕らの幸せに繋がっているはずだから。



 やがて、炎は静かに弱まり、燃え尽きた紙片が、火の粉になって夜に舞う。揺らぐ煙が、霧のように霞んだその向こうに――微笑むユウの姿を、見たような気がした。

 まるで全てが幻のような、そんな一瞬のことだった。

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