ほつれた絆
ユウは言っていた。
人間は、命というものをこの世に形として現すための、ただの理屈に過ぎない。生まれることも死ぬことも、どちらも尊い事象で、大した違いはない。
命はただ、繋がって、やがて消えていくもの――それだけなのだと。
「ねえ、私が死んだらどうする?」
彼女の声が聞こえた。
中学の卒業式の前日だったと思う。
サツマイモ畑の片隅、いつもの場所で、僕たちは向き合っていた。
「……答えて。アナタはどうするの?」
「どうしてそんな……」
僕は語尾を濁した。その意味が、うまく掴めなかった。
ユウはいつも、こういう言い方をする。最初から、どこか別の場所に立っているように。
「明日、卒業式でしょう。私はアナタを残して卒業しなければならない」
「卒業と死別とじゃ、全然重みが違うよ」
「卒業も死別も、『別れ』には変わりないわ」
彼女は当たり前のように言った。
「違うのは、それが来るのが早いか遅いかだけ。私の卒業は明日。でも、死はいつ来るか分からない」
その言葉は、まるで明日にでも死んでしまいそうな響きを帯びていた。
そう、いつもそうだった。逃げ場のない話を、息を吐くように口にする。だからこそ――僕は離れられなかった。
「ついてくさ。ユウの行くところなら、どこへでも。ずっとそばにいる。そういう約束だろ」
嫌な予感を振り払うように、僕は強く言った。
ユウは、ただ優しく微笑んだ。
僕たちは、ただの恋愛とは少し違うところで繋がっていた気がする。僕は、彼女のそばにいられるだけでよかった。それだけで、満たされていた。きっと彼女も同じだと、そう思っていた。
けれど、それは本当に、彼女にとってもそうだったのだろうか。
あのとき僕が口にした言葉は、彼女を繋ぎ止めるものではなく、どこか遠くへ送り出してしまうものだったのかもしれない。そんなことにすら気づけなかった僕は、ただ無邪気に、同じ場所に立ち続けていた。
その表情を見たとき――ふと、胸の奥に残っていた記憶が浮かび上がった。
あれは、僕が「供養係」になって三ヶ月ほど経った頃のことだ。
夏休みを目前に控えたある日、ユウが突然、転校することになった。そのことを、彼女は前から知っていたらしい。けれど僕や真唯子には、最後まで何も言わなかった。
最後の登校日、僕はユウと二人、ハナミズキの下にいた。真唯子は、来なかった。
僕は、ずっと泣いていた。どうしてこんなに泣いているのか、自分でもよく分からなかった。ただ――胸の奥が、どうしようもなく苦しかった。
そんな僕を見て、ユウは静かに言った。
「私がここに来られなくなっても、私のやってきたことはここに遺る。それに、私は自分の心を言葉に代えて、アナタに渡してきたつもり。だから私という人間は、すべてアナタの中に残っているわ。私が動物たちを感じるように、アナタも私を感じることができるはず。感じてくれるなら、それは――そばにいることと同じよ」
相変わらず、難しいことを言う。それでも、その言葉の奥にあるものだけは、ちゃんと分かった気がした。僕は、そっと彼女に身を預けた。自分から触れたのは、そのときが初めてだった。その温もりを、離したくなかった。
「また会えるよね」
思わず口にしていた。ユウは、穏やかな表情で答えた。
「幸せは魂をこの世界に繋ぎ留め、やがて容を紡ぎ、甦らせる。命とはそういうもの。だから――いつかまた私が戻ってこられるように、この場所を守っていて。約束よ」
僕は、泣くのをこらえて頷いた。何があっても、この場所を守る。そう、心に決めた。
ふと足元を見ると、
いつの間にか、僕たちのまわりに動物たちが集まっていた。身を寄せ合うように、静かに。それが本当にそこにあったのかどうか、分からない。
ただ、そこには確かに、あたたかさがあった。
二年後――
引っ越した先で、ユウは両親を事故で亡くした。
それからのことは、断片的にしか知らない。親戚の家に預けられ、また別の家へ移され、気づけば施設にいたと聞いた。どこにも、長くはいられなかったらしい。そして最後に、僕の住む町の、ある家に引き取られた。
僕は、再会を心から喜んだ。そして、あの頃と同じように彼女のそばにいようとした。
けれど、どこかが違っていた。
うまく言葉にはできない。ただ、以前のユウとは、何かが決定的に変わってしまっていた。それでも僕は、気づかないふりをした。一緒にいれば、元の彼女に戻ると信じていた。
だから、もっと近づこうとした。もっと、繋がろうとした。そして――一年も経たないうちに、彼女はいなくなった。自分で、自分の命を終わらせた。
死の少し前、ユウが、身体の繋がりを求めてきたことがあった。あのとき、彼女が何を考えていたのか、今でも分からない。ただ、どこか壊れているように見えた。
葬儀の日、ユウの遺体を前にしても、僕は涙が出なかった。ただ、何も感じられないまま、そこに立っていた。
仏前で呆然としていると、ユウの養母が、静かに話しかけてきた。彼女のこれまでのことを、少しづつ聞かされた。親戚の家で、虐待を受けていたこと。その傷が、最後まで消えなかったこと。それだけだった。
僕は何も言えなかった。
どうして気づけなかったのか。あのとき、彼女が「別れ」を口にした意味に。どうして、何もしてやれなかったのか。
……あのとき、僕は。
「ユウは、まだ死なないよ」
そう言えたはずだった。
「ずっとそばで生きてく。そういう約束だろ」
それだけで、よかったのに。
彼女は、ただ誰かに愛してほしかったのだと思う。そして僕は、そのすぐそばにいながら、何もできなかった。
「悲しみに彩られた魂でも、幸せになる権利があるのよ」
あのときの言葉が、ずっと残っている。彼女が願っていたものを、僕はまだ、うまく形にできない。
それでも、彼女の幸せを、探し続けたいと思う
それが、今の僕にできることだった。
白く流れ去る彼の日の景色とユウの笑顔を――僕はその夜、夢の中で見ていた。
目が覚めて辺りを見回すと、真唯子の姿はもうなかった。代わりに、机の上に書き置きが残されていた。
「おはよーさん。てか、アンタ結局あたしより先に寝たじゃん?まあ、仕事あるから許すケドさ。さておき、どうにかこうにか校了しけり。目通して、何かあったらまたメールしてくれたまえ。そりではあたしは始発で帰ります。朝帰り……ウフッ」
それきり、しばらく彼女から連絡は来なかった。
月が変わって、しばらくは何もない日が続いた。通勤電車の中でパソコンを開くこともなくなり、休みの日も、家でぼんやりしている時間が増えた。
書き終えたはずなのに、心のどこかに、ぽっかりと空いたままの場所があった。満たされた感じは、なかった。それどころか、何かを取り違えてしまったような、そんな感覚だけが残っていた。
「本当にこれでよかったのか。こんなことで、あの人を幸せにできたのか」
僕は、ユウの幸せを物語の中で描いた。けれど、それはただの物語でしかなかった。現実の僕は、何もできなかった。救えたはずなのに、何もできなかった。その事実だけが、胸の奥に残り続けていた。
「自分には、幸せになる資格なんてないのかもしれない」
どうしていいか分からないまま、約束の日だけが、近づいていた。
「織付。お前、次の火曜日休みだったな」
仕事中、先輩が声をかけてきた。
「はい、まあ」
その日は命日だった。とはいえ、特に何かをするわけでもなかった。
「じゃあ、来るんだな」
「何がっすか?」
「秋吉さんの送別会だろ。何、お前知らんかったのか」
「初耳です」
「なんちゅーやっちゃ。まだ出欠取ってるから、来るなら言えよ。あと、ちゃんとお祝いの挨拶もな」
「お祝い……」
「再婚するんだとさ」
秋吉さんとは、仕事中にそれほど話す機会はなかった。それでも、何気ない気遣いには、何度も助けられてきた。試作のときのことも、忘れられない。彼女のことは、あれから料理長に少しだけ聞いていた。
「俺はここのホテルに来る前、町場でレストランをやっててな。そこで働いてたのが秋吉と、あいつの前の旦那だ。二人とも店じゃ一、二を争う腕で、いいライバルだった。それがいつの間にか、な。結婚するって聞いたときは驚いたもんだ」
料理長は懐かしそうに笑った。
「ちょうどその頃、このホテルから声がかかっててな。あいつらに、店を任せるのも悪くないと思って、俺はこっちに来たんだ。それから……まあ、いろいろあってな。独り身になっちまった秋吉が不憫で、ここに呼んだってわけだ。なんでパートかって? 前に出したら、お前らの仕事がなくなっちまうからな」
そう言って、料理長はいつものように豪快に笑った。
どんなに忙しいときでも、笑顔を絶やさない。そんな彼女がいなくなるのは、少し寂しい。けれど、その表情を見ていると、再婚できてよかったのだと思えた。
あの笑顔は、きっと本物だ。
「君も、あんなふうに笑ってくれるだろうか」
この空の下、どこを探してもユウはもういない。その笑顔を見ることも、もうできない。
そして――自分がまだ笑えていないことも、はっきり分かっていた。




