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コトノハの木の下で  作者: 氷河期のやもめ
6/12

やさしい夜

 六月も終わりだ。この時期になると、嫌でも思い出す。七月七日、七夕。今年で十周忌になるその日は、僕とあの人にとって約束の日でもある。



 私はアナタを残して逝きます。

 ついて来る必要はありません。

 私の苦しみや痛みを知るために

 アナタの命はある訳ではないのだから。

 私がいなくなっても、

 この先一緒に歩むことができなくても、

 どうか立ち止まらず、生を全うしてほしい。

 私が好きだったアナタのままで、

 生きて誰かを愛せるようになってほしい。

 もしまだ私の幸せを願ってくれるのなら、

 アナタはアナタの幸せを探し続け、

 そしてそれをつかんでください。

 それが、最後の約束です。

 守り続けている限り

 私はずっと、アナタのそばにいます。

 アナタと、アナタの大切な人たちが

 ずっと幸せであることを願っています。

 今まで本当にありがとう。



 その手紙を、僕は何度も読み返してきた。そのたびに僕はこう呟くのだ。

「僕の幸せは、君を幸せにすることだ」

 けれど、そんな日々ももうすぐ終わる。

 僕はユウから、いろんなことを教わった。命のこと、優しさのこと、人を幸せにすること。それを忘れたくなくて、僕は真唯子と共にユウのことを書き綴ることにした。

 けれども、僕たちのことをそのまま書いてしまえば、行き着く先は結局悲しい結末で、それでなくとも、大切な人を失ったという気持ちが、どうしても筆を鈍らせた。最初に書いたものを途中でやめてしまったのも、そのせいだった。


「よし、できた。なんとか間に合ったな。後は帰って真唯子に送るだけだ」

 帰宅途中の電車の中、預金をくずして買ったモバイルパソコンで、僕は物語をようやく書き上げた。命日の前には間に合わせると決めていたから、そのせいか、思わず表情が緩んだ。そんな僕を、向かいに座っていたオバさんが怪訝(けげん)な顔でこちらを見ていた。たぶん、いかがわしいものでも見ていると思われたのだろう。けれど今の僕には、そんなことどうでもよかった。

 浮かれた気持ちは、家に帰って、玄関を開け、靴を脱ぎ、部屋のドアを開けるまで続いていた。

「よっ、おかえり!」

 甲高い声で出迎えたのは、いつもはパソコンの向こう側にいるはずの真唯子だった。状況が飲み込めず、僕は一瞬固まった。

「せめてツッこむかなんかしてもいいんじゃない? ここは紛れもなく、アンタの家のアンタの部屋なんだからさ」

 ソファーベッドの上でくつろぐ彼女が、呆れたように言い放った。僕は相変わらず突っ立ったままだった。

「お前」

「チョイ待ち! 『何しに来た』なんて野暮なことは聞くなよ。あたしとアンタの仲だ。そうだろ?」

 そう言って、彼女は人差し指を僕に向けた。久しぶりに聞いた真唯子節は、物心ついたころから聞き慣れているはずなのに、不思議と新鮮に感じられた。そのせいかは分からないが、僕は少しずついつもの調子を取り戻していた。

「そう、だよな。そうだった。えっと、織付弓作一等兵、ただいま帰還致しましたっ」

「うむ、ご苦労であった」

 おどけて敬礼をすると、イタズラな笑顔で返してくる。そのときに覗く八重歯が、妙な緊張をすっとほどいてくれた。

 僕はさっき書き終えたばかりの原稿を、すぐに真唯子に見せた。彼女は「お〜」と声を上げ、拍手した。

「じゃ、風呂入ってくるから。後は任せた」

「おう、任された」

 そうして彼女は、そのまま鋭い目つきで読みはじめた。このときの表情だけは、プロの作家にも負けていない。いつもそう思う。


 小高い山の中腹を削って作られたニュータウン。両親がこの家を購入したのは二年ほど前だ。風呂には珍しく大きな窓があり、そこから覗けば、眼下に町の光、遠くには都会の夜景が広がっている。その景色を眺めながら、僕は毎日物語のネタを考えていた。

「なんかこう、身のない風呂も久しぶりだな」

 もう物語は書き終えたから、考える必要もない。思わずそんな独り言がこぼれた。

 ふと頭に浮かんできたのは、真唯子のことだった。

「あいつ、ホント何しに来たんだろ」

 彼女は基本、座って考えるタイプで、悪く言えば出不精だ。よほどのことがない限り、自分から動こうとはしない。だから家を出て、遠くの大学で下宿すると聞いたときは、正直かなり驚いた。

 理由は単純だった。ユウの墓が、そこにあるからだ。遺言で、そこに埋めてほしいと書かれていた。

 ユウは真唯子にとっても、かけがえのない親友だった。悲しみの大きさで言えば、きっと僕より彼女のほうが深い。だからこそ、立ち直ったあとの変化も大きかったのだと思う。少なくとも、僕にはそう見えた。

「何かあったのかな」

 ふと、一ヶ月前のメールのやり取りを思い出した。僕に彼女ができるのが先か、それとも真唯子がプロの作家になるのが先か。そんな他愛もない賭けのことを。

「おい、まさかアイツ本当に……」

 物語を書いていたせいか、ありえないような話でも妙に現実味を帯びて感じられた。急に落ち着かなくなって、僕はさっさと体を洗い流した。

 風呂から上がると、キッチンの冷蔵庫から缶ビールを二本取り出し、そのまま自分の部屋へ向かった。

 真唯子は相変わらず真剣な顔で、僕が戻ってきたことにも気づかず、パソコン画面を見つめていた。僕は隣に立ち、持ってきた缶ビールを彼女の頬にあてた。渋い顔でのけぞった彼女は、それを見るなり、ぱっと無邪気に笑った。

「サンキュッ」

 僕の手から受け取るとすぐに、プシュッと炭酸の抜ける音がした。次の瞬間には、もう口元へ運んでいる。それを横目に、僕は少し離れてソファーベッドに腰を下ろした。

 もともと僕はあまり酒は飲まない。けれど好きだし、飲もうと思えば、いくらでも飲める体質だ。真唯子もそれほど強いわけではないが、もともと酔い潰すつもりはない。ただ少しだけアルコールの力を借りて、自分の中に居座る弱虫と、彼女の中に住む天邪鬼を追い払う。それだけだった。

 半分くらい飲んだところで、真唯子が口を開いた。

「うん、読んだ感じ、直すとこはそれほどなさそだね」

「マジで?」

「ま、今夜一晩あれば十分さね」

「って、ここでやってく気かよ」

「いまさら帰れなんて言わないよねぇ。まあ、晩飯は要らないから心配すんな。ところで扶美ちゃんと詠作はどうした?」

 扶美と詠作は、僕の両親の名前だ。人の親を名前で呼ぶのは、幼馴染みの特権みたいなものだろうか。今に始まったことではないし、親父たちも特に気にしていない。むしろ友達感覚で楽しんでいる節すらある。

「親父は出張中。お袋は夜勤。つーか、お前どっから家に入ったんだよ」

「ヒミツ。ふーん、そか。じゃあ、おあつらえ向きだ」

「何がだよ」

 僕が尋ねると、真唯子は膝下だけ器用に動かして、すぐそばまで寄ってきた。そして、艶かしい声で――

「だからさぁ、久しぶりに、ねぇ?」

 甘えた猫みたいに擦り寄ってくる。僕は反射的に顔をしかめた。

「ば、馬鹿言えっ。そんなつもりで酒飲ませたわけじゃねえぞ!」

「んだよー、弱虫。据膳食わぬは男の恥だぞお」

「缶ビール一本で酔ってんじゃねえよ。んなことより、さっさと校正始めろってば」

「ちぇ、つまんねぇやつ」

「俺は疲れてんだ。明日も早いし、もう寝るかんな」

「へいへい……って、何か今のセリフは倦怠期の旦那様って感じだあね」

 せっかくのほろ酔い作戦も、真唯子の酒癖の悪さで台無しだった。最初から分かっていたことでもあるけれど。もうどうでもよくなって、僕はそのまま布団に潜り込んだ。

 しばらくして、タイピングの音が聞こえてきた。とりあえず安心して、眠りについた。


 僕と真唯子は、一時期だけ関係を持っていた。

 最初の小説が挫折したあと、ある日彼女は僕を叱咤しに家へ来た。けれど彼女の無遠慮な言葉は、擦り切れた僕の神経を逆撫でした。

 そして、ある瞬間――何かが切れた。やりきれない思いを、彼女の身体にぶつけてしまった。

 我に返ったときには、ただ謝ることしかできなかった。申し訳なさに押し潰されて、泣きながら何度も。

「いいよ。アンタの思い、あたしが全部受け止めてあげるから」

 こんな形を望んでいたはずもないのに、彼女は涙ひとつ見せなかった。ただ、僕の歪んだ心を黙って受け止めてくれた。僕はユウを忘れたくて、逃げるように彼女にすがった。

 僕が傷ついたのは心だけだ。けれど真唯子は、心も身体も傷を負っている。そのほとんどが、自分のせいだ。今さらになって、そのことを思い知らされる。

 そしていつか、何かしらの形で向き合わなければならないと思っている。


 夜半過ぎ、僕はふと目を覚ました。真唯子はまだ、パソコンとにらめっこしていた。

「真唯子」

 声をかけると、彼女はハッとしたように顔を上げた。

「あ、どうしたん。起こしちゃった?」

 眠そうに目を擦りながら答える。

「大丈夫か? もう寝ろよ。今日中に終わらせなくてもいいんだから」

「ううん、まだいける。もう少しだから頑張るよ」

「……まあ、いいけどさ。ほどほどにしろよ」

「あたしのことは気にしなくていいよ。おやすみ」

 そんなわけにはいかないよな、と思った。布団の中で目を覚ましたまま、背中越しに彼女の様子を気にしていた。

 しばらくして、真唯子が再び話しかけてきた。

「ねえ、一つ聞いてもいい?」

「ん、何」

「今の自分のこと、幸せだと言える?」

 唐突な質問に、僕は少し戸惑った。

「うん、どうか分かんない。でも、もう少しでユウとの約束を果たせる。自分の願いも叶うし、そう思えば……幸せだって言ってもいいのかな」

「ふーん、そっか」

 その言い方が、少し引っかかった。

「お礼、言っとかなくちゃな。お前がいなかったら、書き始めることも、書き終えることもなかった。ありがとうだけじゃ足りないくらい、感謝してる」

「本当に?」

「ああ、もちろん」

「じゃ、証明してみせてよ」

 彼女は振り向いて、八重歯を覗かせて笑った。

 僕は苦笑して、起き上がった。

「お前が校了するまで起きてるよ」

「えー、それだけ?」

「後ろから抱きしめながら。それでいいか」

「よろしい。今日のところはね」

「今日……ったくわがままなやつだ」

「知ってるくせに」

「だな」

 後ろから彼女を抱きしめると、ふとユウのことを思い出した。あのときと同じ、甘い匂いと温もり。静かに意識が沈んでいく中で、僕はただそれに身を委ねていた。

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