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コトノハの木の下で  作者: 氷河期のやもめ
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それは誰でもできること

 新しい部署に来て半月。忙しい日々の中で、僕は思いがけず、秋吉さんと差し向かって話すことになった。六月初旬。湿った空気が肌にまとわりつく、梅雨の始まりだった。

 ラウンジカフェでは、月末から夏期限定メニューに切り替わることになっていた。それに合わせて、料理長は何人かのスタッフに新メニューの試作を任せていた。僕もその一人だった。

「ダメだな。もう一度やり直してこい」

 手にしていた皿を調理台に放り出し、料理長は顔色一つ変えず言った。弾んだ銀器の音が、耳に残った。

「味付けですか? それともスパイスの量が……」

 戸惑いながら、僕は思い当たる点を口にした。料理長は口髭をわずかに歪め、皿をじっと見つめた。そして、僕に視線を向けた。

「ただ作るだけなら、お前らに作らせる必要はないんだ。そこのところをよく考え直してくるんだな」

 料理長はそれだけ言うと、すれ違いざま僕の肩を軽く叩き、キッチンを出て行った。一人取り残された僕は、一口だけ手をつけられた試作料理を見つめた。任された仕事に応えられない自分が、ひどく情けなかった。

 新メニューとはいえ、材料も料理の方向性も決められていた。あとは、それぞれの技量とセンスで形にするだけだった。それほど難しいことではない。そのはずだった。安易な考えは、容赦ない駄目出しの一言で吹き飛んだ。

 それから三日。合格をもらえていないのは、とうとう僕一人だけになっていた。期限は一週間。焦らずにはいられなかった。僕は休日を返上し、一日をホテルのキッチンで過ごす覚悟を決めた。

織付(おりつき)君?」

 駅を出てホテルへ向かう途中、交差点で信号待ちをしていると、後ろから声をかけられた。振り向くと、一人の女性が立っていた。

「やっぱり織付君じゃない。おはよう」

「……あ、秋吉さん? おはようございます」

 見慣れない私服姿に気づくのが遅れ、僕は間の抜けた返事をしてしまった。

「え、今出勤? もしかして遅刻?」

 目を見開いて、彼女が言った。時刻はすでにいつもの出勤時間を過ぎていた。事情を話すと、秋吉さんは、

「そう、大変ね。で、今日は上手くいきそうなの?」

 と尋ねた。僕は首を横に振った。

「どこが悪いのかも分かんなくって。でも、とにかく作るしかないんです」

「そう考えれば、それまでだけど……」

 彼女はそこで言葉を切った。僕も思わず、溜息をついた。

 すると秋吉さんが、ふいに話題を変えた。

「そうだ。ねえ、晩御飯の買い物に行く途中なんだけど、付き合ってくれる?」

「え、な、なんで」

「いいから、いいから。どうせ今のまま作ったって、上手くいく保証はないんでしょう」

「ええ、まあ確かに」

「こういうときこそ、気分転換は必要よ。それとも、私がデートの相手じゃ不足かしら」

 秋吉さんは冗談めかして笑った。

「まさか、僕にはもったいないくらいです。でも、今日試作に行くって料理長に言ってあるんで」

「そうなの。いいわ、私に任せて」

 そう言うと、彼女はバッグから携帯電話を取り出し、そのままどこかへかけ始めた。何をするつもりなのか分からず、僕は黙ってその様子を見ていた。

「瀧本さん? おはようございます。秋吉です。突然なんですけれど、今日、織付君をお借りしますね」

 瀧本というのは料理長の苗字だ。どうして直通の番号を知っているのか。どうしてあんな口ぶりで話せるのか。僕はただ、呆気に取られたまま彼女を見ていた。

「これで問題ないわよね? さ、行きましょう」

振り向きざま笑顔を見せて、彼女は軽い足取りで横断歩道へ踏み出した。揺れる後ろ髪に引かれるように、僕は後を追った。仕事中は帽子で隠れていたその髪が、ユウに負けないほど美しいことに、そのとき初めて気づいた。

 買い物の間も、僕はどこか現実味のない気分でいた。秋吉さんのことばかり気になって、何を買っていたのかさえ覚えていない。

 彼女の部屋は、職場のすぐ近くの高層マンションにあった。そこまで送って帰るつもりでいた僕に、彼女はいつになく力強い声で言った。

「何言ってるの。今日はとことん付き合ってもらうわよ」

 何が起きたのか分からないまま、僕は彼女の部屋へと引き込まれていた。

「さてと。じゃあ早速始めましょう」

 通されたのは、七畳ほどのキッチンだった。まず目に入ったのは、家庭では見かけないような食材が並んだキャビネット。そして、無駄なく整えられた調理器具。一歩踏み込んだ瞬間、仕事場と同じ空気を感じた。そこは、もはやキッチンというより厨房だった。

 僕とて男だ。家に連れ込まれたとき、下心がなかったと言えば嘘になる。だが、通された場所がそれでは、誰だって引くだろう。

 秋吉さんは買ってきた材料を袋から取り出していた。甘エビ、アメリカンソースの缶詰め、レモン、そして各種葉野菜。それを見た瞬間、僕は気づいた。

「これは……」

 甘エビのサラダ、レモン風味のアメリカンドレッシング。ここ数日、僕を悩ませているメニューだ。なぜここで作らせるのか、その意図は分からない。だが、この環境がただの趣味の域を超えていることだけは分かった。彼女が只者ではないことも。

 目の前にいるのは、もう秋吉さんではなかった。このキッチンのシェフだった。

「ボサッと立ってないで。時間がないんでしょう。私が力になってあげるから。さあ、まずは下ごしらえよ」

 手渡された包丁のような、鋭い声だった。

考えるのは後だ。今は言われた通りにやるしかない。そう腹を括ると、自然と身体が動き出した。


「あなたがこれまでに試作してきた中で、その部分を使ったことがあったかしら?」

 甘エビの頭をもいでいるとき、秋吉さんが尋ねてきた。

「飾りとしてならあります」

 手を休めず、僕はそう答えた。

「じゃあ、ホテルでも既製品のアメリカンソースを使っているのは何故だと思う?」

 アメリカンソースは、甲殻類の殻から旨味を引き出したソースだ。ただ、仕込むには手間もコストもかかる。それをメインにしたコース料理じゃなければ、正直割に合わない。

「サラダ一品のためだけにアメリカンソースを仕込む必要はないって、そう料理長に聞いたことがあります。原価を抑えるには、うちだって安価な市販品に頼るしかないんじゃないですか」

「確かに、それは事実よ。既製品でもそれなりの物はできるし。でもね、それなりのものは、それなりにしかならないの。あなたが今捨てようとしているエビの頭、そこにどれだけ大切なものがつまっているか、あなたになら分かるはずだけど」

 射抜くような眼差しに、僕は一瞬で理解した。

 その瞬間――何かが弾けた。

 もう言葉はいらなかった。浮かんだイメージを、そのまま形にするだけだった。

 熱した手鍋に海老の頭を放り込む。スパテラで豪快に砕き、水分を飛ばす。ブランデーを注いだ瞬間、火柱が立ち上がる。アルコールが飛んだところで、缶詰のソースを加えた。

「すごい。全然違う」

 ひとさじ口に含んだ瞬間、思わずうなった。横から秋吉さんが小指でしゃくって味見をする。その横顔を見つめていると、

「手を休めないで。まだ料理は完成してないんだから」

と、少しだけ和らいだ声で言った。それ以上は何も言わなかったが、確かな手応えはあった。さっきまでの重苦しさは、もうなかった。

 それから同じものを何度も作った。作るたびに、秋吉さんの反応は良くなっていった。最後の一品を作り終えた頃には、すでに日が傾いていた。

「オーケー。これなら合格ね」

「ありがとうございます!」

「じゃあ、今からホテルへ行ってらっしゃい」

「あ、で、でも……」

「後片付けは私がやっておくから。ほら、今の感覚を忘れないうちに、ね」

 促されるまま、僕は玄関を飛び出した。来たときとはまるで違う気持ちで、僕は仕事場へ急いだ。

「ただ料理を作るだけなら誰でもできるの。でもね、あなたは料理人よ。一つの料理に関わったもの全部に、ちゃんと向き合いなさい。そうすれば、捨てられるものなんてないって分かるはずよ。料理は愛情って言うけど――その意味、ちゃんと考えてみなさい」

 あのときの言葉が、頭から離れなかった。それは、ユウの言葉にどこか似ていた。

 ユウのように、僕には「命」というものを目にすることはできない。けれど、関わった人や生き物の幸せを願い、それを表現することはできるはずだ。それが、僕のやるべきことなんだと思った。

 ユウに少しでも近づけた気がした。それが、ただ嬉しかった。


 再び差し出した試作品を、料理長は口にすることもなく言った。

「秋吉が美味いと言ったのか? だったら俺が確かめるまでもないな。ま、これからも頼んだぞ」

 料理長は豪快に笑い、僕の肩を強く叩いた。その背中を、僕は心の中で感謝しながら見送った。

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