信じられるひと
昔、大きな戦争があった。
いや、戦争なら今でも起きている。かつて、その大きな戦争に勝った国は、広大な領土と強大な軍事力を背景に、今では正義を名乗っている。そして、己の理想の世界を作り上げるために、彼らは戦いを続ける。世界がそれを望んでいるのかも分からないまま、自らの首を絞め続けるように。
人は、どうして争い続けるのだろう。どうすれば、分かり合えるのか。そんなことを、世界中の誰かがずっと考え続けているはずなのに、答えはまだ出ていない。だから、僕一人が考えたところで、この問題をどうにかできるはずもなかった。
「いいのよ、アナタはそれで」
彼女の声が聞こえた。気づけば今夜もまた、柔らかな思い出の中に引き戻されていく。
その年の初めに外国で起こった戦争を、僕らはテレビを通して知った。夜間空爆のニュース映像は、まだ小学生だった僕に大きな衝撃を与えた。市街に降りそそぐ爆弾やミサイルの雨。暗視カメラの独特な緑色の映像が、恐ろしさを一層際立たせていた。
戦争は、一ヵ月続いた。そして戦いは、その国の勝利で終わった。「正義の国家」が、隣国を不法に占拠した独裁国家を、徹底的に打ちのめしたのだ。
平和が訪れたように見えた。けれど、それが見せかけの平和なのではと思ったのは、終結から数ヵ月経ったある日のことだった。
「やっぱり戦争なんかしないほうがよかったんだよ」
そばにいた二人に向かって、僕は言った。
「何急にマジメになってんのさ」
真唯子が不思議そうな顔で返した。ユウだけは一人黙って、お墓の手入れを続けていた。
いつからか、真唯子もその場所に来るようになっていた。と言っても、ただ駄弁りに来るだけで、ちっとも作業を手伝ってくれたことがなかったが。
「昨日、テレビのニュースで見たんだけど、爆撃された街の子供たちが酷い目にあってるんだよ」
「たとえば?」
「親を亡くしたり、家を失ったり。瓦礫の下敷きになって、足を切断した子もいた。これじゃあ、悪い国をやっつけに行ったほうが悪者みたいだ」
そう真剣に話そうとする僕を、真唯子は一笑に付した。
「アンタさあ、ホント単純だね。じゃあもしそのまま放っておいたらどうなるよ? それこそ、もっと罪のない人たちが殺されたかもしれないじゃんか」
「だとしてもさ、もっといい解決方法がなかったのかな」
「だからー、それがないから戦争に踏み切ったんだってば。少なくとも、ちょっかいかけられてもやり返せないアンタよりかは賢いんじゃない」
真唯子のその言い方は、少しきつかった。内向的な僕が教室でいつも、誰かにいじめられているのを知っていて言っているのが、余計にこたえた。
僕は、それまでまともに喧嘩をしたことがなかった。争うのが苦手だった。いや、ただ怖かっただけかもしれない。相手の言動に反発したくても、何もできなかったのだ。だから、真唯子からそう言われたときも、何も言い返せず、ただ飲み込むしかなかった。
「またそうやって黙るんだから」
呆れた風に、真唯子が言った。僕は戦争についてまだ言いたいことはあった。けれどもこれ以上話していると、黙々と作業を続けるユウに対して申し訳ないと思って遠慮した。
「ユウはどう思う?」
僕の気も知らずに、真唯子はユウに話を振った。そうは言っても、ユウがなんと言うのかは気になった。僕はすぐユウのほうを向いた。
「やっぱり戦争反対派? それともやるときゃやるって感じ?」
ユウのそばに来てしゃがんだ真唯子は、替えようとしている枯れた供花を先に取り上げた。無理矢理というほどではなかったけれど、いつも冷静なユウを、自分のペースに引き込もうとしているようだった。
ユウは手に持っていた新しい花を差し替え立ち上がった。立ち上がり、ひと呼吸置いて、
「あまり感心できないわね」
と、静かに言った。
「戦争をするのが?」
待っていたように僕がそう反問すると、彼女は顔をこちらに転じた。
「アナタのことよ。人に意見を求めて安心を得るのは、あまり感心しないって言っているの」
まったく予期しない答えだった。
「でもユウは年上だから、あたしたちが知らないことでも知ってるでしょ。だから、別にユウの考えを聞いたっていいじゃん」
さっきとは打って変わって、僕の肩を持つ真唯子。何にでも反発したがる年頃の、彼女らしい言い方だったが、ユウは特に困った様子もない。
「私の考えは私のものでしかない。たとえそれがアナタたちにとって都合のいいものでも、それが正しいなんて誰も決めることはできやしないのよ」
「……そんなこと言ったら、誰も正しいことなんて言えないよ」
僕は困ったような口調で言った。
「いいのよ、アナタはそれで。実直に受け入れるでもなく、闇雲にはねつけるでもなく。どんなときも自然体でいることを心がけたほうがいいわ。それができないから人間は戦争をするのだけれど。理屈で分かっていても、感情で動いてしまうから、人は過ちを犯すの」
彼女の言葉は、迷いなく繋がっていた。けれど僕には、その意味がうまく掴めなかった。まだ理解できなかった。ユウは、それを分かっていたのかもしれない。
「超能力者じゃあるまいし、その時どうすべきだったかなんてすぐには分からないわ。答えが出るのは、そうね、五年後か十年後か……もしかしたら私の命が尽きた後なのかもしれないわね」
そう言うとユウは、新葉と花弁に彩られたハナミズキを見上げた。いつもの無表情。その奥に、わずかに揺れるものを、僕は確かに感じていた。
彼女が見ていたその先を、あのときの僕はまだ知らなかった。
それから何日かして、ユウがこんなことを尋ねた。
「食物連鎖って知っているかしら」
それは六年生で習うものだった。だから四年生の僕が知るはずもなく、ただ聞き返すしかなかった。彼女はそれを一通り話したあと、こう言った。
「この世界にいる生き物たちは、すべて食べるものと食べられるものという関係に分けられるの。仮にそのバランスが崩れて、ある種の生物だけが急激に増えたとしたら、どうなると思う?」
僕は単純に、その生物しかいない世界になると答えた。でもそれは違った。一種類の動物が増えると、その種の一匹が捕食できる動物の数が減る。つまり食べるものが足りなくなる。やがて飢え始め、あるいは共食いをして、最後には滅びてしまう。
「知恵のある人間が動物みたいに争うなんて馬鹿げてると言うけれど、人間もまた連鎖の中の一つに変わりはない。戦争は繁栄と栄華を極めた人間の、ある意味共食い行為と言えるわね」
そんなことを、ユウは何気なく言った。それはどこか、ぞっとするような話だった。
ユウは人間が嫌いなのだろうか。でも、それなら自分のことも否定することになるんじゃないか。それとも、自分だけは違うと思っていたのだろうか。僕には、そうとも思えなかった。
「命というのは、この世界を巡るエネルギーの形のひとつでしかない。それを尊いと思えるのは、人がその中にいるから。そしてその理を知っていることが、人間が生き続けている理由なのかもしれない。私が人間でいられる理由も、きっとそこにあるのよ」
そう言って、自分が人間であることを肯定するように見えた彼女に、軽蔑の色はなかった。僕の目に映るユウは、種を越えて慈しみ合える人間という存在を、信じている人だった。
けれど同時に、同じ人間同士で憎しみ合い、失ってはじめて大切なものに気づくような存在を、どこか信じきれていないようにも見えた。
それが、ユウという人だった。
人がこの世界の循環の中にいるかぎり、争いは避けられないのかもしれない。けれど――戦争という形で命を踏みにじるのは、やっぱり違うと思った。ありきたりな考えだったけれど、その時の僕にはそれで十分だった。
「まるで蠱毒だね」
そう言ったのは真唯子だった。三人で下校した、いつもの帰り道。ユウだけが途中で別の道に逸れた、そのあとだった。言葉の意味が分からず、僕は彼女に聞き返した。
「そういう呪いがあってさぁ。小さな入れ物にヘビとか、クモとか、トカゲとか、いろんな肉食の生き物を入れて共食いさせるの。で、最後に生き残った一匹を、呪殺の道具として使うんだよ」
その頃は、霊とか呪いとかオカルト的な話題が学校で流行っていて、真唯子にしてもどこからか変な知識を拾ってるたびに、よく僕に話して聞かせていた。
「この世界は蠱毒の入れ物みたいだって、そう思った」
彼女は何食わぬ顔で言っていたが、言われてみればそうかもしれない。最後に生き残ったものは、呪いの道具として使われるだけだ。得るものもなく、ただ他を不幸にするためだけに、生き残ることになる。
だとしたら、多くの戦争で勝ち続けてきた国が最後に手にするものは、一体何なのだろうか。
「ユウがやってることもさぁ、何か蠱毒に似てるよね」
そう言った真唯子の声に、悪気は感じられなかった。けれど、その言葉を悪く受け取った僕は、声を荒らげた。
「ユウが呪いなんてするわけないだろ! ずっと死んだ動物たちの幸せを願ってきたんだから!」
珍しく感情を露わにした僕を見て、真唯子は少し驚いたような顔をした。
「それはあたしも分かってるよ。でも、あの場所で幽霊を見たって噂もあるし、それにユウだって死んだ動物が見えてるみたいじゃんか。だからさぁ、呪いじゃないにしろ、ユウがあそこでやってることが何かのまじないに思えてもおかしくないって」
彼女のその反論に、僕はうまく言い返すことができなかった。ただ感情だけが先に立って、言葉はどんどんずれていった。
そうしているうちに、分かれ道のところまで来てしまった。それ以上、何も言わなかった。
言い合っても、どうにもならないことは分かっていた。けれど、もし真唯子の言うように、ユウのやっていることが何かの呪いに近いものだとしたら――ユウは、そこで何をしようとしているんだろう。
死んでいったものの幸せを願うだけなら、きっと誰にでもできる。けれどユウは、それだけじゃない何かをしようとしているように思えた。それが何なのかは、まだ分からないままだった。
「幸せってなんだろう」
その疑問は、しばらく頭から離れなかった。
僕にも幸せだと感じることはある。でも、それは僕だけのもので、誰かにとっても同じとは限らない。死んだ動物の幸せなんて、なおさら分からなかった。それでもきっと、僕は自分に舞い込んだ幸運を喜んでしまう。
そう考えているうちに、自分が戦争をする人間と同じ愚か者のような気がしてきた。ユウの信頼に応えられない自分が、少し嫌になった。
もし僕にも、死んだものの魂が見えたとしても、できることはきっと変わらない。だからせめて、本気で誰かの幸せを願っているユウ自身の幸せを、僕が叶えてあげられたらと思った。そう願うことしか、僕にはできなかった。
遠く過ぎ去る彼の日の景色と、ユウの眼差しを――僕はその夜、夢の中で見ていた。




