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コトノハの木の下で  作者: 氷河期のやもめ
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夢みるこころ

 5月半ば、不意の人事異動で、僕は現実に引き戻された。

 僕は新しくカフェラウンジの厨房へ回された。今までいた宴会部門の調理場とは違い、バイオーダーでひっきりなしに注文が入る。マイペースな僕には、かなりきつい環境だった。

 そんなある日。ランチタイムのピークが過ぎて、一息ついた後のこと。仕込みの準備でもしようとウォークイン冷蔵庫に入ると、調理スタッフの一人が、困惑した表情で棚の上を見上げていた。その視線の先に大きなステンレスの容器があり、とっさに僕は感づいた。

「あの、手伝いましょうか」

「あ、お願いしてもいいかな?」

 高くてか細い声。そこで初めて、その人が女性であることに気づいた。

 平均よりは低いとはいえ、彼女より少しだけ背の高い僕は、棚の上の容器をなんとか下ろすのに成功した。中には調味料に漬け込んだ豚ロースの肉塊が五本。彼女一人で持てなくはない重さだったが、面倒ついでに外まで持っていくことにした。

「あの、片側持ちますよ?」

 一人で担いでいこうとした僕に、彼女が申し出た。

「いえ、大丈夫っす」

 僕は力みながら断った。実際結構な重量であったが、プライドと親切心の助けを借りて、調理台まで持っていった。

「ありがとう。今日、私しかいないから大変なの」

 笑って謝辞をする彼女に曖昧な返事をして、僕はまた自分の仕事に戻った。

 新しい部署に来てまだ日の浅い僕は、仕事を覚えるのに精一杯だった。まだ同僚の顔と名前が一致しない。勿論、手を貸してあげた彼女に関してもだ。だから合間を見て、先輩にその素性を尋ねてみた。

「ああ、秋吉さんのことか。パートの人さ。四年くらい前からいるらしいよ」

「パートさんですか」

 なるほど、さっきの私しかいないっていうのは、パートの人がという意味だったのか。

「でもあの若さじゃ、パートっていうよりアルバイトですね」

 すると先輩は

「お前、あの人が何歳に見える?」

 と返してきた。その質問を不思議に思いつつ、僕は真面目に考えた。四年前からいるということは、自分とそれほど離れていないはず。見た目から判断すると……まあ二十五、六と予想した。

「三十四歳だよ」

先輩は鼻で笑うように言った。

「ええ! まさかの三十代」

「ついでに言うとバツイチ」

「マジっすか?」

 開いた口が塞がらないというものを、僕は久しぶりに経験した。三十四歳。自分より干支一廻り年上で、しかも離婚歴まであるとは。

「俺も最初知ったときは、お前とおんなじ反応したよ」

「人間分かんないもんですね。いや、それにしても三十過ぎにはとても見えないっすよ」

「何、お前。ストライクゾーン入っちゃったりしてる?」

「いえ、そんなんじゃ……。でも見た目、普通にかわいいですよね。離婚した旦那は、何が気に入らなかったんだろう」

 そんなふうにして、秋吉さんについて知り始めた僕は、家に帰ると早速、真唯子にそのことを報告した。

「へえ、そうなんだ。いわゆるロリ顔ってやつか。たぶん前のダンナは、熟女好きだったんだろうね。まあ、結婚なんて妥協が前提だし、夢みるだけ損さね」

 なんとも彼女らしい返事が返ってくる。

「そういうお前だって、卒業してから働きもしないで、夢ばっかり追いかけてるくせに」

 口に出した言葉を、そのまま文にして僕はまた送った。

「何を言うか! あたしは自己実現に向かって、日々努力しておるのだよ。そのためには、働いてる暇なんてないの」

「でもさあ、親のスネばっかかじってちゃまずいだろ。いつかは仕送り止められるぞ。そしたらどうするよ?」

「そんときゃ結婚を考えるさね」

「はあ? あてがあるわけでもなしに」

「アンタがいるじゃん」

 よどみなく進んでいた会話の流れが、ここで少し止まった。真唯子の唐突な一言にどう返せばいいのか、僕は眉をしかめて悩んでいた。彼女のその台詞が本気なのか、あるいはいつもの冗談なのか。その文字だけでは判然としない。

 学生の頃なら「アホぬかせっ」と一蹴していたはずだ。けれど今は、笑い飛ばすには少し現実的すぎた。

 十分後、しびれを切らしたメールが飛んできた。

「って無視かよ! まさか、本気で悩んでたんじゃ……」

「そんなんじゃないよ」

 返事はただ一言だけにしておいた。しばらくして再び真唯子から返信が来た。

「冗談に決まってんじゃん。まだ忘れられないんだろ。長い付き合いなんだからさ、そんくらい分かってるってば。でもさぁ、あたしが言うのもなんだけど、いいかげん普通に人と付き合ってみなよ」

 やっぱり冗談だよな。まったく何を悩んでんだか、と自分を嘲笑した。

「余計なお世話だって。まあ、努力はするけどさ。じゃあ、お前がプロの作家になるのが早いか、俺に彼女できるのが先か競争ってことで」

「なんじゃそら。でもいい勝負かも。あ、話変わるけど、4章もうすぐ書き上がるから、期待して待っておれよ」

「さすがは未来の大文豪。仕事が早いね! こっちもガンバってネタ搾りだします。では、明日早いんで、ここらでおやすみさせて頂きます」

 それを送信し終えると、僕はお茶を入れ直した。

「おう、明日もお仕事がんばりなすって。おやすみんさい」

 就寝前の一服の安らぎに浸りながら、僕はその一文をじっと見つめたまま思案に耽っていた。

 メールは便利だと思う。けれど感情が乗らない分、解釈に困ることもある。

「アンタがいるじゃん」

「普通に人と付き合ってみなよ」

 そんなセリフは、人に干渉したり、安易に頼ったりすることを嫌う彼女からは、まず出てこないはずだった。何か心境の変化があったのか、それともメールだからこそなのか。判断はつかないが、最近真唯子のことが少しずつ分からなくなってきているのは確かだ。

 今の彼女と接していると、いなくなる前のあの人を思い出す。近づくほどに、どこか遠くへ行ってしまうようだったあの人を。

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