尊きおしえ
風呂から上がり、真唯子とくだらない話をした後、僕は物語の続きを考えていた。こうしていると、いつの間にかうたた寝をしてしまう。仕事の疲れもあるのか、目が覚めるとキーボードに突っ伏していることがよくある。
あらすじのヒントになりそうな、何気ない日常の一瞬や経験は、強く印象に残っても、意識して思い出すのは難しい。だから思い出すには、うたた寝こそ有用じゃないかと感じている。決して言い訳じゃない。
そして、今日も僕はパソコンの前で頭を抱えつつ、うたた寝を始めた。
うたた寝をすると、時々見るのは彼女の夢だ。
「アナタ、寂しいのね」
――不意にそう言われた。
僕はその人を「ユウ」と呼んでいた。歳は僕の2つ上で家も近かったこともあり、幼稚園のころから真唯子ともども、お守りとして一緒に遊んでくれていた。
あれは、小学校の四年生に進級したばかりのころだ。その学年から、委員会活動が始まった。僕は生き物が好きだったこともあって、飼育委員になることにした。しかし、委員として僕に任された仕事は、生き物の世話ではなく、死んだ動物の後始末だった。
「供養係」
その役割を任されたのが僕とユウだった。
僕の通っていた小学校と幼稚園は、ほぼ隣接していた。敷地の間には、写真を撮ったあのサツマイモ畑がある。そこは幼稚園の所有地だったが、卒園生である僕らがそこに入ることを、園長先生は見逃してくれていた。
その一角にある大きなハナミズキ。そのたもとに、僕たちは死んでしまった動物たちを埋葬していた。動物と言っても、教室で飼えるようなメダカや昆虫などの、小さな生き物がほとんどだが。
自分たちの教育ために、小さな世界で生を終えた生き物たち。ユウ曰く、それらに感謝を表すことが私たちの仕事、なのだそうだ。
ハナミズキが持つ花言葉のひとつに、返礼というものがある。それも、この場所を埋葬場所にした理由だとも言っていた。
「アナタ、寂しいのね」
開きかけの蕾を携えた樹。それを囲むように並んだ小さな墓標の群の中で、彼女が囁くように言った。僕が初めて死んだ生き物を持って、その場所を訪れた日のことだった。
「別に、寂しくなんかないよ」
戸惑いながら、僕は答えた。
「じゃあ、どうしてここへ来たの?」
半身を向けた彼女は、視線だけを投げかける。
「それは……だって飼育委員の仕事だから」
はにかんで視線を逸らし、僕は建前を口に出した。
ユウと一緒にいたいから。少し前ならきっとそう言えたはずなのに、何故だか顔が熱くなって、口にするのをためらった。そのときの風になびく黒髪は、やけに印象に残っている。
うまく言い表せないが、ユウはどこか同級生とは違っていた。彼女が五年生のとき、中学生からラブレターのようなものをもらっていたのを見たことがある。けれど僕は、そのことを特別だとは思わなかった。物心ついたころから見慣れていたせいか、ただそこにいるのが当たり前で――むしろ、彼女の静かな振る舞いや、ふとした言葉の方に強く惹かれていた。
近所の優しいお姉さん、というだけだったはずの存在。それがいつの間にか少し違うものに変わっていたのは、たぶんそのころからだったと思う。
「それにしても、いっぱいあるよね」
話をすり替えるように、僕は言った。
整然と並んだその墓は、すべてユウの手で作られたものだった。石を積み上げただけ。けれど花を添えたり整えたりと、毎日手入れをしていた。
ユウのここに眠るものに対する感情は、同情や悲愴感とは全く違っていた。その日死んだばかりの蝶の幼虫を埋めながら、
「新しいお友達が来たから、みんな喜んでるみたい」
と、まるでこの地面の下にいる動物たちの魂が見えているようなことを言うのだ。いや、彼女にとっては現実として「いる」のかもしれない。誰かがそのセリフを聞いたら、きっと不気味に感じるか、頭がおかしいと思うだろう。けれど、僕は違った。ネガティブな感情どころか、彼女の内に秘めた優しさを感じることができて嬉しかった。
ユウの優しさは、僕に対しても、死んだ動物に対しても同じだった。僕はそれでもかまわないと思っていた。たとえ死んで、魂だけになっても、ユウの温もりに触れていられるならと。
「ここは寂しい者たちの集まるところ。人の温もりを忘れられずにいる命の集う場所。だから、ここに来るアナタもまた、寂しい人と言えるわ」
そんな理屈で、ユウは僕を寂しい人間と見ていた。事実、僕は共働きの家庭で育った。夜中まで両親が帰ってこない日も少なくないし、実際寂しいと思うこともある。だから、彼女の意見を否定する気は起きなかった。
「私も、ひとりで寂しかった。でも今はアナタがいるわ。アナタが来てくれたおかげで、この子たちの喜ぶ姿を見られて、私も嬉しかった。だから……ねえ、約束して」
そう言うと、彼女は歩み寄ってきた。長身に似合った細長い腕が、首筋にまとわりつく。後ろから抱かれ、耳元で吐息のような声がした。
「ずっとそばにいて。私がどこにいても、どんなところへ行っても。いつか私の容がなくなる日が来たとき、私の魂がアナタの心に宿るように」
感情を直に触られたような気がした。
言葉の意味は分からなかった。けれど、なぜか拒む気持ちは起きなかった。僕はただ、頷いた。ユウの妖しさに満ちた目と、甘い匂いと、安らぎを覚える温もりの前で、僕はひとつの小さな生き物に過ぎなかった。
こうして、僕は毎日のようにサツマイモ畑に通い、ユウの手伝いをするようになった。その度に、僕はユウのことをますます好きになっていった。けれど、彼女の態度は「約束」の前もその後も、あまり変わることはなかった。もちろんその優しさが変わらないのは、嬉しいことに違いないのだけれど。
ユウは終始物静かで、感情を顔に出すことはなかった。僕の態度や発言に対して、一喜一憂することもない。ただ、彼女が口にする、ここに眠るものたちへの想いだけが、彼女の優しさを教えてくれた。それを一番感じたのは、ミズキの花が咲ききった、四月も終わりかけの、ある日のことだった。
いつものように、僕はユウを手伝ってお墓の手入れをしていた。その作業もだいぶ手馴れてきていた。すると欲が出たのかもしれない。僕はユウに対してこんな提案をした。
「もう少し手の込んだものにしようよ。先生とかに頼んでさ、ここにちゃんとした動物墓地みたいなものを作りたいんだ」
すると、彼女はこう返した。
「そんなことして、どうするの?」
その声は静かなその場所で、妙に響いた。強い言い方ではなかったのに、胸の奥にひっかかるものがあった。
僕は、当然賛成してくれるものだと思っていた。だから、否定されたことが少しだけ悔しかった。うまく言い返したくて、自分なりの考えを口にした。彼女は黙って聞いていたが、やがて、
「アナタには『命』というのがどういうものか分かっていない。だからそう言えるの」
と、静かに言った。
僕は胸の奥を掴まれたような苦しさを覚えた。ならユウは命を説明できるのか。そう問い返してみたかったが、それができない人じゃないことも、僕は分かっていた。だから、それ以上何も言えなくなって、消沈した面持ちで作業に戻った。
下校時刻が迫り、ユウが帰ろうと言った。けれども、心に何かつっかえていた僕は、どうしてもひとつだけ聞いておきたかった。
「ユウはどうしてお墓を作るの?」
背を向けたままの彼女はいつものように、静かな声で答えた。
「私はただ単にお墓を作っているばかりじゃない。ここに眠るすべての命あるものの幸せを、自分の手で紡ぎだしたいと望んでいるの。私がここにいる理由は、それだけで十分だと思う」
僕はその覚悟のような言葉に、一種の悲哀のようなものを感じた。
ユウの優しさは、命を全うしたもの全てに対して向けられたものだ。だからこそ、その大切さをなかなか理解できない僕に対して、時には厳しくもあった。それでも、僕が彼女に近づこうとしたのは、彼女が命あるもののひとつとして、僕のことを大切にしてくれたからだと思う。
「『幸せ』は、命をこの世界に繋ぎとめておくための、大切な紡ぎ糸。だから忘れないで。アナタが誰かの幸せを願うとき、私はずっとアナタのそばにいるわ」
その言葉が何よりも嬉しかった。そして僕もまた、ユウが永遠に幸せであることを願うのだった。
僕はあらゆる生命思想において、ユウから色々な影響を受けた。それは今でも自身のどこかに息づいている。
思えば、これが若干十二才の少女の口から出る言葉だろうかと、驚き呆れることもある。しかし、彼女は言い回しを変えて、同じような意味のことを何度も、僕に言い聞かせていた。だから、僕の中で記憶が前後して覚えているだけかもしれない。
いずれにせよ、彼女が持っていた命に対する想いは、決してまがい物ではない。僕はそう確信している。
おぼろに遷りゆく彼の日の景色とユウの温もりを――僕はその夜、夢の中で見ていた。




