第53話 百年前の俺、六体の神獣を別々に引き渡す計画に反対していたらしい
百年前の俺の署名に、誰かがよく似た文字を書いた可能性がある。
そのことが判明してから、俺は少し妙なことを始めていた。
「レオン、さっきから何してるの?」
朝食を終えたルビィが、俺の手元を覗き込んでくる。
「署名の練習」
「何で?」
「昨日の書類が本当に俺の字じゃないのか、ちょっと気になってさ」
机の上には、何枚かの紙が並んでいた。
一枚目には普段通りの署名。二枚目には、できるだけ丁寧に書いた署名。三枚目は、百年前の作業完了報告に残っていた文字を意識して書いたものだ。
比べてみると、少し困ったことが分かった。
「……俺でも、丁寧に書こうと思えば書けるんだな」
「当たり前じゃない?」
「いや、そうなんだけど」
百年前の作業完了報告には、正式な役職名ではなく《飼育員》という略称が使われていた。
しかも、署名の最後が普段の俺よりずっと丁寧だった。
昨日はそれを不自然だと思ったが、こうして実際に書いてみると、それだけで偽物と決めつけるのは無理がありそうだ。
「ほら、見て」
ルビィに紙を並べて見せる。
「どれが本物?」
「全部レオンが書いたんでしょ?」
「そうだけど、知らなかったら?」
ルビィはしばらく考え、二枚目を指さした。
「これ!」
「何で?」
「一番綺麗だから!」
「理由になってないぞ」
「レオンだって綺麗に書く時あるでしょ?」
その通りだった。
俺が苦笑していると、隣からミコが紙を一枚手に取った。
「これは興味深いですね」
「何が?」
「昨日の書類について、私たちは偽造の可能性を考えました。ですが、本人であるレオンが意識して書くだけでも、普段とは異なる署名になることが確認できました」
「うん。だからまだ分からない」
「そうですね」
ミコは紙を机へ戻した。
「疑うことは簡単ですが、疑いを証明することは別ですもの」
いつものミコなら、この時点で百年前の筆跡鑑定技術から当時の書類作成者まで調べ始めていただろう。
ただ、今日は何も手配しようとしなかった。
「何もしないの?」
「レオンと約束いたしましたので」
「昨日からずいぶん素直だな」
「私は以前から素直ですよ?」
「土地買った時も?」
「……その件はいつまで言われるのでしょう」
九本の尻尾が不満そうに動く。
そこへフェニアが一通の封筒を持ってきた。
「ちょうど良いところへ、王立文書院から連絡が届いております」
「エドガーさん?」
「はい。昨日の資料について、追加で確認していただきたいことがあるそうです」
手紙には、レオン・ハルトという人物が百年前の王立神獣育成所でどのような職務を担当していたのか、当時の人事記録や施設管理資料と照合したいと書かれていた。
さらに、育成所側の意見書が一部見つかったらしい。
「意見書?」
「何か心当たりはございますか?」
「仕事で色々書いたからなあ」
飼育環境の改善申請。
餌の変更。
寝床の修理。
医療担当者への相談。
備品が足りない時には予算の申請までした。
俺は一介の飼育員だったが、六体の健康状態については担当者として責任を持っていた。必要があれば上司に意見を出したし、飼育上問題があると思えば遠慮せず報告した。
「どんな意見書かは書いてないの?」
「直接お見せしたいとのことです」
「じゃあ行ってみるか」
俺がそう言った瞬間、ルビィが手を挙げた。
「私も!」
「全員で行ったら文書院が大騒ぎになるだろ」
「静かにする!」
「前にも聞いた台詞だな」
「今回は本当!」
少し考えてから、俺は今回はミコとフェニアについてきてもらうことにした。
ミコは古い制度や書類に詳しいし、フェニアは百年前の育成所について俺が忘れていることを覚えているかもしれない。
ルビィは不満そうだったが、留守番しているシロと一緒に果物を買いに行く約束をすると、意外なほどあっさり引き下がった。
「じゃあおいしいの買ってくる!」
「食べすぎるなよ」
「レオンも食べる分!」
「ならいいけど」
隣にいたシロが、小さく首を振った。
「ルビィ、自分の分を先に食べる」
「シロ!」
「昨日も」
「昨日の話はしなくていい!」
いつもの騒がしさに少し安心しながら、俺たちは家を出た。
◇
王立文書院は、王宮から少し離れた場所に建つ古い石造りの建物だった。
以前エドガーが持ってきた日誌や書類は、この建物の奥にある保管庫で見つかったらしい。
玄関ではエドガー本人が待っていた。
「レオン殿。本日はわざわざお越しいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ。何度も家まで来てもらってるので」
「とんでもございません。百年前の当事者から直接お話を伺えるなど、研究者としては大変貴重な機会です」
そこまで言って、エドガーはミコとフェニアに気づいた。
一瞬で背筋が伸びる。
「冥界九尾様、天鳳様まで……!」
「本日はレオンのお手伝いとして参りました」
フェニアが穏やかに説明する。
「私どもへの特別な対応は不要ですので、どうぞ普段通りに」
「承知いたしました」
エドガーはそう答えたものの、歩き出すまでに少し時間がかかった。
まだ慣れていないようだ。
案内された部屋には、大きな机がいくつも並んでいた。
壁一面に書架があり、古い帳簿が分類されている。床には保存魔法が施されているらしく、外の廊下より少し空気が乾燥していた。
「こちらです」
エドガーが机に置いたのは、かなり厚い帳簿だった。
表紙には、
《王立神獣育成所 職員配置及び飼育管理記録》
と書かれている。
「懐かしいな」
「ご存じですか?」
「この表紙、見覚えがある」
昔、事務室の奥に同じような帳簿が積まれていた。
俺が直接記入することは少なかったが、月末の報告や担当変更の時には何度か見せてもらった覚えがある。
エドガーが慎重にページを開いた。
「まず、レオン殿の正式な役職について確認いたしました」
指で示された欄には、確かに俺の名前があった。
《第二幼体育成室 飼育管理官 レオン・ハルト》
「これだ」
「昨日の作業完了報告では、単に飼育員と記載されておりましたね」
「そうですね」
「ただし、当時の他施設の書類を調べた結果、現場立会人については略称を使うこともあったようです」
「じゃあ、その部分だけではおかしいと断定できない?」
「はい」
エドガーは頷いた。
「むしろ重要なのは、レオン殿がどのような立場にあったかという点かもしれません」
「普通の飼育員ですよ?」
「そう仰るだろうと思っておりました」
なぜか微笑まれた。
嫌な予感がする。
「レオン殿は、当時の育成所で六体すべての幼体について、日常管理記録を提出する権限を持っておられました」
「担当だったからですね」
「はい。ですが、異なる六種の神獣幼体を同時期に保護し、互いに関わらせながら育成する体制は、当時でも極めて珍しかったようです」
「そうだったかな」
俺は少し考えた。
確かに六体は種類が違った。
炎竜と神狼。
天鳳と海獣。
雷獣と狐型の神獣。
生態も食べるものも、適切な環境も違う。
普通なら飼育区画を分け、それぞれ専門の担当者を配置するのが自然だろう。
実際、育成所でも寝床や健康管理は個体ごとに行っていた。
ただ、それと六体を完全に離して育てるかどうかは別の話だった。
「……ああ、思い出した」
昔、似たような話をしたことがある。
「最初の頃、六体をできるだけ別々に管理した方がいいって言われたんですよ」
「その記録が残っております」
エドガーが別の書類を取り出した。
そこには、俺が忘れかけていた出来事が書かれていた。
◇
書類の表題は、
《神獣幼体六体に関する分離管理検討報告》
だった。
作成されたのは、育成所襲撃のおよそ一か月前。
俺は思わず眉を寄せる。
「こんな直前だったのか」
「覚えていらっしゃいますか?」
「全部じゃないですけど」
六体の力は、仔の頃から普通ではなかった。
ルビィが機嫌を損ねれば、周囲の温度が上がる。
シロが興奮すれば、本人に悪気がなくても強い魔力が漏れる。
フェニアの羽根には幼い頃から特有の力があり、リヴィは水場の環境を自分に合わせて変えてしまうことがあった。
ライカとミコも同様だ。
だから安全管理は必要だった。
俺だって何も考えずに六体を一緒に遊ばせていたわけではない。
「分離管理そのものが悪いわけじゃないんです」
俺は資料を読みながら言った。
「食事も違うし、休む場所も違う。体調が悪い時は個別に見た方がいいこともあります。ただ、ずっと別々にしたら余計に具合を悪くする仔もいたんですよ」
「その点について、レオン殿はかなり詳しい報告を提出されています」
エドガーが一枚の紙を差し出した。
そこには見慣れた俺の字があった。
《六体は異なる生態を持つが、互いの存在を認識することで落ち着く傾向が確認される》
《生活環境は個別に整える必要がある一方、交流そのものを禁止することは推奨しない》
《分離によって食欲や睡眠状態に悪影響が出る場合、段階的な対応が必要》
「……俺、ちゃんと書いてるじゃん」
「レオンは昔から、こういうことだけは細かかったですものね」
フェニアが笑った。
「こういうことだけって何だよ」
「日常の書類整理は、あまり得意ではありませんでしたでしょう?」
「必要なものは整理してたぞ」
「必要でないと判断したものは?」
「……後回しにしてたかも」
「でしょう?」
百年前のことを妙に覚えている。
でも、そのおかげで少しずつ当時の感覚が戻ってきた。
「そうだ。六体とも、別々の場所で休むのは平気な時もあったんだけど、他の仔がどこにいるか分からない状態になると落ち着かなくなることがあって」
特に体調の悪い仔がいる時だった。
誰かが別室へ運ばれると、残った仔たちが妙に騒ぐ。
無理に一緒にする必要はない。
ただ、様子を見に行けるようにしておくと落ち着くことが多かった。
「……あれ」
俺はフェニアを見た。
「覚えてる?」
「何をでしょう」
「お前が体調崩した時、ルビィとシロが寝床から動かなくなったこと」
フェニアの表情が変わった。
「……覚えております」
「やっぱり」
あの時、フェニアはしばらく安静にする必要があった。
俺は静かに休ませたかったのだが、ルビィとシロが離れた場所で落ち着かなくなってしまった。
仕方なく、声が届く程度の距離に寝床を移した。
すると、三体ともよく眠った。
「そんなこともございましたね」
フェニアが懐かしそうに呟く。
「私は、自分が寝ている間に二人が近くへ来ていたことしか覚えておりませんでした」
「お前の世話で手が足りなかったから、あいつらまで具合悪くなったら困ると思ってさ」
「……そういう理由だったのですね」
「他に何があるんだよ」
フェニアは答えなかった。
ただ、少し嬉しそうに笑っていた。
その横で、ミコが書類へ視線を落としている。
「レオン」
「何?」
「こちらも拝見してよろしいでしょうか」
別の報告書だった。
俺の意見書に対して、育成所の管理側が出した回答らしい。
そこには、
《六体の健康状態に関する現場意見を尊重し、当面は現在の管理体制を維持する》
と書かれていた。
「ちゃんと聞いてくれてるじゃん」
「はい」
ミコは頷く。
「少なくとも、この時点では」
その言い方が気になった。
「どういうこと?」
「こちらをご覧ください」
次の書類へ進む。
俺の知らない表題があった。
《六体の神獣幼体に関する王立施設間移管検討案》
「……移管?」
今度は聞き覚えがなかった。
◇
移管。
つまり、六体を別の施設へ引き渡すということだ。
「飼育方法を変える話じゃないの?」
「違うようです」
エドガーが説明する。
「育成所内部での分離管理とは別に、当時の王国では六体をそれぞれ別の管理施設へ移すことも検討されていたようです」
「何で?」
「理由はいくつか記されております」
俺は続きを読んだ。
六種の神獣幼体を一施設で管理することによる危険の集中。
育成費用の増大。
各種族に適した環境を持つ専門施設への移管。
将来的な保護体制の分散。
どれも、書類上はもっともらしい。
「……まあ、分からなくはないけど」
俺は正直に言った。
六体を育てるのは簡単な仕事ではなかった。
専門的な設備も必要だったし、もし施設全体で大きな事故が起きれば全員が危険にさらされる。
危険を分散したいという考え自体は理解できる。
「でも、だからって急に別々の施設へ移すのはどうなんだ?」
「レオンも同じご意見だったようです」
「俺が?」
エドガーが次の紙を渡した。
見覚えのある筆跡。
俺の意見書だった。
《移管の是非については、各個体の健康状態と環境適応能力を確認した上で判断すべきと考える》
《管理上の都合のみを理由として、六体を同時に別々の施設へ移すことには反対する》
思わず笑ってしまった。
「……俺、結構はっきり言ってるな」
「はい。さらに続きがございます」
読む。
《現段階で六体を離した場合、食欲低下、睡眠障害、魔力反応の不安定化などが起きる可能性がある》
《仮に将来、各個体が異なる場所で暮らすことになっても、それは十分に成長し、移動先を理解し、適応できる状態になってから検討すべきである》
そして最後。
《六体は王国の管理資産である以前に、生きている神獣幼体である》
俺はそこで手を止めた。
「……これ、書いた覚えあるかも」
正確な会議の内容までは思い出せない。
でも、この言葉には覚えがあった。
六体をいつか別の場所へ移すこと自体に反対していたわけではない。
むしろ、成長したら自分で暮らす場所を選べるようになってほしいと思っていた。
ただ。
仔のうちに管理上の都合だけで引き離すことには、納得できなかった。
「そりゃ俺、反対するよな」
「はい」
ミコの声は静かだった。
「レオンなら、きっとそうされたでしょう」
「でも大げさだよ。飼育員として普通の意見を書いただけだから」
「レオン」
「何?」
「百年前も、私たちへそのように仰っていたのでしょうね」
ミコは少しだけ目を伏せた。
「特別なことは何もしていない、と」
その表情を見て、俺は何も言えなくなった。
「私たちは当時、何も知りませんでした」
九本の尻尾が静かに動く。
「レオンが私たちの食事を考え、身体を洗い、眠るまでそばにいてくださったことは覚えています。でも、私たちが知らない場所で、こうして何を考え、何を守ろうとしていたのかまでは」
「仕事だからな」
「はい」
ミコが微笑む。
「その仕事を、私たちは百年経ってから知るのですね」
少し照れくさくなった。
「……別に、すごいことじゃないよ」
「そうでしょうか」
「だって、仔を世話するなら当然だろ」
その答えに、ミコはそれ以上何も言わなかった。
ただ、机の上にある百年前の意見書を、もう一度丁寧に見つめていた。
◇
「しかし」
しばらくして、エドガーが別の資料を取り出した。
「一つ気になることがございます」
「何ですか?」
「この移管検討案は、レオン殿の反対意見と育成所側の回答によって、当初は保留となっております」
「じゃあ実際には何もなかった?」
「少なくとも、その時点では」
また同じ言い方だ。
俺は紙を見る。
《現場意見を踏まえ、六体の分離移管は当面保留とする》
確かにそう書かれていた。
「だったら問題ないんじゃ?」
「ところが、その後の記録が一部だけ残っておりまして」
エドガーが新しい紙を並べる。
日付は、育成所襲撃の五日前。
「近いな」
「はい」
ミコがすぐに読み始めた。
「《六体の神獣幼体に関する移管計画再審査》……」
「再審査?」
「一度保留された移管計画について、改めて検討する手続きです」
俺は首を傾げた。
「そんな話、聞いた覚えないんだけど」
「レオン殿が知らされていなかった可能性もございます」
エドガーが答えた。
「これは育成所の日常業務記録ではなく、当時の王宮側で作成された審査資料の控えです。すべての現場職員へ共有されていたとは限りません」
「なるほど」
ミコが別の部分を指さした。
「再審査の理由が、以前の書類と少々異なりますね」
「どこ?」
「最初の移管案では、管理費用や専門環境の確保が中心でした。ですがこちらでは、施設の安全確保が主な理由となっております」
確かに。
文面が違う。
《現施設における複数神獣幼体の集中管理について、安全上の再評価を要する》
《緊急時の施設機能喪失に備え、分散移管計画の実施可能性を再検討する》
「……緊急時?」
俺が呟く。
ライカなら、すぐに何かを疑い始めるかもしれない。
ルビィなら、誰が書いたのか探しに行こうとするだろう。
でも今ここにいるのは、俺とミコとフェニアだけだ。
「エドガーさん。こういう書き方って普通にあるんですか?」
「ございます」
答えは意外にもあっさりしていた。
「王国の重要施設では、事故や災害を想定した見直しが定期的に行われます。この文面だけで、当時の誰かが襲撃を予期していたと判断することはできません」
「ですよね」
少し安心した。
少なくとも、まだ決めつける段階ではない。
ただ、日付が引っかかる。
襲撃の五日前。
そして外部解除鍵が交換されたのが、その翌日だった。
「……これ、関係あるのかな」
「調べる価値はございます」
ミコが答えた。
「ですが、今はまだ二つの記録が近い時期に作成されたことしか分かりません」
「うん」
「それでも、これまでより調査対象は絞れそうです」
その言葉には俺も頷いた。
百年前の育成所襲撃。
七日で解除されるはずだった保存結界。
規格外の補助鍵。
俺の名前が書かれた作業完了報告。
そして、六体を別々の施設へ移そうとしていた計画。
全部が同じ事件につながっているとは限らない。
でも、無関係だと決めつけることもできない。
「この資料、写しをもらえます?」
「もちろんです」
エドガーが頷く。
「ただし一部については王国の機密指定が解除されていないため、正式な手続きが必要になります」
「じゃあ、そこはお願いします」
「承知いたしました」
ミコが横から口を開いた。
「費用につきましては私が――」
「普通に必要な分だけでいいからな」
「まだ何も申し上げておりません」
「その顔は何か大きいことする顔だろ」
「私への信頼が足りませんね」
「実績がありすぎるんだよ」
フェニアが小さく笑った。
文書院の中で、少しだけ空気が柔らかくなる。
◇
家へ帰ると、ルビィがものすごい勢いで走ってきた。
「レオン! どうだった!?」
「ただいまが先じゃない?」
「おかえり! どうだった!?」
「早いな」
居間には残りの四人がいた。
シロは日向から身体を起こし、ライカは本を閉じる。リヴィは水路に浮かんだままだったが、こちらへ顔だけ向けた。
俺は持ち帰った資料を机へ置いた。
「百年前、俺がお前らを別々の施設へ移す計画に反対してたらしい」
ルビィの動きが止まった。
「……別々?」
「うん」
「誰が?」
「王国側でそういう案が出てたんだって」
ルビィはしばらく黙り込んだ。
その隣でシロの耳が伏せられる。
「嫌」
「今の話じゃないぞ」
「昔も嫌」
「そうだろうな」
シロは俺の隣へ来ると、服の裾を軽く掴んだ。
「レオンも?」
「俺も、急に離すのは良くないと思ったみたいだよ」
「うん」
それだけで少し安心したらしい。
ライカは資料を読み、難しい顔をしていた。
「当時の王国なら、危険の分散を検討した理由は理解できる」
「そうだろ?」
「だが、健康状態に問題が出ると分かっていながら強行するのは別だ」
「その通り」
「……それでレオンは反対したのか」
ライカは一度資料から顔を上げた。
「私たちは知らなかった」
「わざわざ話すようなことでもなかったしな」
「そうかもしれん」
少し間を置いてから、ライカが続ける。
「だが、知れて良かった」
俺は何も答えなかった。
ライカはまた資料へ視線を戻す。
いつもの威厳ある雷帝の顔ではない。
昔の記録を読む、ただのライカだった。
「レオン」
ルビィが俺の横へ座った。
「昔さ」
「うん?」
「私たち、別々の場所に行くって言われたら、どうしたと思う?」
考える。
「大暴れしたんじゃない?」
「する!」
「即答かよ」
「だって嫌だもん!」
ルビィは真顔だった。
「シロもフェニアもリヴィもライカもミコも、みんな別々なんでしょ?」
「計画通りなら、そうなった可能性はあるな」
「レオンは?」
「俺は育成所に残ってたんじゃないかな」
その瞬間。
ルビィの表情が変わった。
「……絶対嫌」
さっきまでの勢いがなくなった。
「ルビィ?」
「だって、みんなと離れるだけじゃなくて、レオンとも離れるんでしょ?」
俺は言葉に詰まった。
そうか。
六体を別々の施設へ移すということは、俺が飼育員として担当を続けることも難しくなる。
百年前の俺がそこまで考えていたのかどうかは分からない。
ただ、反対した理由の一つにはなっていたかもしれない。
「まあ、結局そうならなかっただろ」
「でも!」
ルビィはまだ納得できない様子だった。
俺は頭へ手を置いた。
「今は全員ここにいるじゃん」
「……うん」
「百年前には別々の施設へ移されなかったし、百年後には勝手に俺の家へ住み着いた」
「勝手じゃないよ!」
「勝手だったろ」
「帰ってきただけ!」
その言い方に、少し笑ってしまった。
「そうだな」
確かに。
六人にとっては、帰ってきただけなのかもしれない。
「なら、もういいだろ」
「……うん!」
ようやくルビィが笑った。
シロも満足そうに尻尾を動かしている。
その様子を見ていたフェニアが、静かに言った。
「レオン。私たちは百年間、それぞれの場所で暮らしてまいりました」
「そうだな」
「ですが、それは自分で選んだ場所でした」
フェニアはルビィを見る。
「誰かに無理やり離されたわけではございません」
なるほど。
同じ離れて暮らすことでも、本人が選んだかどうかで意味は違う。
シロが昼寝する丘を選んだように。
リヴィが自分の海を選んだように。
ライカが守る国を持ち、ミコが自分の役割を見つけ、ルビィとフェニアもそれぞれの場所で百年を生きてきたように。
六人は自分の意思で生きた。
そして自分の意思で、またここへ集まった。
「……百年前の俺が知ったら喜ぶだろうな」
「何を?」
ルビィが聞く。
「お前らが、ちゃんと自分で行きたい場所を選べるようになったこと」
ルビィは少し考えたあと、俺の腕へ抱きついた。
「じゃあ今も選ぶ!」
「何を?」
「ここ!」
「もう住んでるじゃん」
「もう一回選ぶ!」
どうやら意味はないらしい。
でも本人は満足そうだった。
◇
その夜。
夕食が終わったあと、ミコが俺のところへ来た。
「レオン。少しだけよろしいでしょうか」
「何?」
「文書院から、追加の連絡がございました」
「もう?」
「はい。私たちが帰ったあと、エドガー様が資料の年代を改めて照合してくださったそうです」
封筒を受け取る。
中には、今日見せてもらった移管検討案についての補足が書かれていた。
「何か分かったの?」
「確認できたことが一つございます」
ミコの表情は落ち着いていた。
ただし、九本の尻尾は静かだった。
俺は手紙を読む。
移管計画は、一度保留された。
その後、襲撃の五日前に再審査された。
ここまでは今日聞いた通りだ。
そして。
その再審査資料には、実際に移管する場合を想定した日程案が添付されていたらしい。
「日程?」
「はい」
読む。
《神獣幼体六体 分散移管実施候補日》
日付が書かれている。
俺は少し考えた。
何かがおかしい。
「……ミコ」
「はい」
「この日付」
「私も確認いたしました」
手紙をもう一度見る。
見間違いではない。
その日付は。
王立神獣育成所が襲撃された日の、翌日だった。
「……偶然?」
「現時点では判断できません」
ミコが答えた。
「ですが、この日程案は実施が承認された記録ではございません。あくまで計画段階の資料です」
「うん」
「実際に移管の準備が進められていたかどうかも、まだ確認できておりません」
俺は頷いた。
急いで結論を出してはいけない。
そのことは分かっている。
ただ。
育成所襲撃の五日前に、六体の移管計画が再審査されていた。
四日前には、俺の署名らしきものを使った書類が作られ、保存結界の強制解除を止める試作品が取り付けられた。
そして。
襲撃の翌朝には、六体を別々の施設へ移すことが検討されていた。
「……何だろうな、これ」
俺は小さく呟いた。
百年前の俺は、そんな計画を知らなかった。
少なくとも、覚えていない。
あの日。
突然、育成所が襲われた。
俺は六体を逃がし、自分も生き延びるため保存結界へ入った。
それだけだと思っていた。
でも、もしあの時。
俺の知らないところで、六体の行き先まで決められようとしていたのなら。
「レオン」
ミコが呼んだ。
「ん?」
「顔が怖くなっております」
「……そう?」
「はい」
俺は自分の頬を軽く叩いた。
「駄目だな。まだ何も分かってないのに」
「それでも、気になることはございますよね」
「あるよ」
正直に答えた。
「何で俺の名前が使われたのか。何で保存結界の鍵が交換されたのか。何で六体を急に移そうとしてたのか」
どれも、今は分からない。
「でもさ」
「はい」
「一個ずつ調べればいいんだよな」
ミコが微笑んだ。
「ええ。一緒に考えましょう」
その言葉を聞いて、少し気持ちが軽くなった。
百年前の俺は、六体を守るために自分一人で判断した。
あの時には、それしか方法がなかった。
でも今は違う。
六人とも大きくなった。
俺よりずっと強く、賢くなった。
それでも俺の前では昔の仔みたいに甘えてくるけれど、必要な時には頼れる相手でもある。
「ミコ」
「はい」
「明日、みんなにも話そう」
「承知いたしました」
「ただし、勝手に国を動かすなって言っとかないとな」
「特にルビィとライカには必要かと」
「お前もだよ」
「……私は慎重ですよ?」
「土地の時もそう言ってただろ」
ミコの尻尾が一本、俺の腕を軽く叩いた。
俺は笑いながら、手紙を封筒へ戻した。
百年前。
六体を別々の施設へ移す計画があった。
その計画が実行されたかどうかは、もう確認する必要もない。
六体は育成所から逃げ、生き延び、百年後には世界最強の神獣になっていたのだから。
でも。
あの日の襲撃がなければ、六体は翌朝、どこへ連れていかれるはずだったのか。
そして、誰がそれを望んでいたのか。
そこにはまだ、百年前の俺が知らない話が残っているらしい。
廊下の向こうからルビィの声が聞こえた。
「レオン! 明日の果物、どれがいい!?」
「今選ぶ必要ある?」
「あるよ! シロが先に食べちゃう!」
「ルビィが先に食べるから」
シロの声もした。
続いて、フェニアが二人を注意する声が聞こえてくる。
いつもの家だ。
六人とも、ここにいる。
百年前に誰が何を考えていたとしても、今のこの生活だけは変わらない。
「レオン」
ミコが俺を見る。
「行きましょうか」
「うん」
俺は書類をしまい、立ち上がった。
百年前の謎を調べるのは、明日もできる。
でも、ルビィとシロが果物の取り合いを始めるのを止めるのは、今しかできない。
まったく。
百年経っても、俺の仕事は忙しいらしい。




