第49話 海皇の聖域に百年間残る立入禁止の浮標、本人は「人を追い出すためじゃない」と言った
シロと丘で昼寝をした数日後、今度はリヴィが珍しく朝から俺を待っていた。
待っていた、と言っても居間の椅子に座っていたわけではない。家の中まで引かれた水路に仰向けで浮かび、俺が朝食を終えるまで、流れに任せて同じ場所をゆっくり往復していた。
『レオンー』
「何?」
『今日、泳がないー?』
危うく飲んでいた茶を吹き出すところだった。
「俺が?」
『うんー』
「お前と?」
『他に誰がいるのー?』
「いや、そうだけど。珍しいなと思って」
リヴィは俺を自分の水場へ呼ぶことはあっても、わざわざ一緒に泳ごうと言い出すことは少ない。基本的に、自分が水から出るより相手に来てもらう方を選ぶ奴だ。
『嫌ー?』
「嫌じゃないよ。今日は休みだし」
『やったー』
水路の中でくるりと一回転する。その程度には嬉しいらしい。
「どこで泳ぐんだ? ここの水路じゃないんだろ?」
『海ー』
「広すぎる」
『私のとこー』
「ああ、聖域か」
以前、各神殿から六人へ「自分自身は何を望むのか」と尋ねられた時、リヴィは自分の海についてこう答えていた。
祈るためだけに来なくていい。
海を汚さず、騒ぎすぎない人なら、普通に泳いだり遊んだりしてほしい。
その後、海皇聖域でも規則の見直しが始まったとは聞いていた。
「人、来るようになった?」
『来るよー』
「良かったじゃん」
『でも泳がないー』
「……何しに来てるの?」
『海見るー。お祈りするー。帰るー』
「前とあんまり変わってないな」
『だからレオン泳いでー』
「俺を見本にする気?」
『うんー』
即答だった。
そこまで素直に言われると断りづらい。
◇
リヴィの聖域へ行くことを伝えると、他の五人は意外にもついて来ようとしなかった。
「私は留守番する!」
ルビィは元気よく言ったが、その視線は俺ではなく昼食の皿へ向いていた。
「海に行くの嫌なの?」
「嫌じゃないけど、リヴィに付き合うと長いんだもん」
『帰るの面倒になるからねー』
「自覚あるんだな」
フェニアは今日は神殿から届いた古い羽根の整理結果に目を通す予定があり、ライカにも仕事がある。ミコは「今回はリヴィがレオンを誘ったのですから」と妙に理解のある態度で辞退した。
最後にシロを見ると、日向で丸まったまま片目だけ開いた。
「海、濡れる」
「泳ぐ場所だからな」
「留守番」
「うん」
こうして俺は、リヴィと二人で海皇聖域へ向かうことになった。
聖域は王都からかなり離れているが、リヴィが使う水路網と転移水門のおかげで移動そのものには大して時間がかからない。
問題は到着したあとだった。
「……広いな」
『海だからねー』
「それは知ってる」
目の前いっぱいに青い海が広がっていた。
砂浜は白く、波は穏やかだ。入り江になっているため沖の荒い波も直接は入ってこず、泳ぐにはかなり良さそうな場所だった。
海岸沿いには木陰や休憩所も整備され、以前より人を受け入れる準備が進んでいるのが分かる。
実際、人もいる。
家族連れ。
旅人。
若い男女。
老人までいる。
ただし。
「本当に誰も泳いでないな」
『でしょー?』
全員、砂浜にいる。
靴を脱いで足だけ水につけている人は何人かいるものの、その先へ進もうとする者はいない。
「水が危ないとか?」
『今日、すっごく安全ー』
「リヴィがいるから?」
『私いなくてもここは安全な日多いよー』
「じゃあ何で?」
リヴィが沖を指さした。
海面に青い浮標が並んでいる。
岸からそれほど遠くない。入り江を横切るように、一定の間隔を空けて何十個も浮かんでいた。
「あれ?」
『あれー』
「立入禁止の線?」
『今はそう思われてるー』
「今は?」
引っかかる言い方だった。
俺が詳しく聞こうとしたところで、こちらに気づいた神官たちが駆けてきた。
「海皇様! レオン・ハルト様!」
一番前にいた中年の神官は、以前までなら地面に膝をついていたのかもしれない。だが今日は深く頭を下げるだけで止めた。
少しずつ変えているらしい。
「本日はお越しいただき、ありがとうございます」
『泳ぎに来たー』
「もちろんでございます。すでに遊泳区域は整えておりますので――」
『青いの、まだあるねー』
神官が言葉に詰まった。
俺は青い浮標を見る。
「何か問題なの?」
「その……海皇様より、撤去をご希望されております」
「なら外せばいいんじゃ?」
「それが、あちらは《海皇境界》として百年近く維持されてきたものでございまして」
「海皇境界?」
「浮標より沖側は海皇様の領域。人が踏み入れてはならない神域であると伝えられております」
『違うよー』
リヴィの返事はいつもの間延びしたものだった。
でも、珍しく少しだけ早かった。
「違う?」
『あれ、私が置いたけどー』
「リヴィが?」
『うんー。人が沖に流されないようにー』
神官が固まった。
「……はい?」
『昔、この辺、流れ強かったからー』
リヴィは何でもないことのように続ける。
『ここから先は子供とか泳ぐと危ないよーって置いたのー』
俺は青い浮標を見る。
神聖な境界。
百年近く人間が越えなかった線。
それが。
「遊泳区域を示す目印だったの?」
『そうー』
「立入禁止は合ってるけど、意味が全然違うじゃん」
『うんー』
神官の顔色が変わっていく。
「海皇様。大変申し上げにくいのですが、神殿の最古の記録には《青き境界より先へ人は進むべからず》と……」
『それ私言ったー』
「やっぱり合ってる?」
『その先、危なかったからー』
「神聖だからじゃなくて?」
『危ないからー』
「そこ大事だろ」
リヴィが首を傾げた。
『同じじゃないのー?』
「全然違うよ」
百年の間に、一番大事な理由だけ抜け落ちたらしい。
◇
神官たちと一緒に古い記録を確認すると、さらに話が分かってきた。
およそ九十年前。
この入り江は今ほど穏やかではなかった。
沖合の海底地形が違い、潮の向きによっては岸から沖へ強く引っ張られる流れが発生していたらしい。
当時は漁村の子供たちも普通にここで泳いでいた。
そして、何度か流される事故が起きた。
「リヴィが助けたの?」
『うんー』
「何人くらい?」
『覚えてないー』
「たくさん?」
『何回かー』
本人にとっては大した話ではないらしい。
だが古い記録には、海皇が沖へ流された子供たちを救出したこと、その後自ら海上へ青い目印を設置したことが書かれていた。
さらに海皇は漁村の住民へ、
《青き境界より先へ人は進むべからず》
と告げた。
ここまでは神殿に伝わっている内容と同じだった。
ただし。
その次の一文が、ずいぶん古い漁師の日誌から見つかった。
《海皇様曰く、内側なら遊んでよい》
「残ってるじゃん」
俺が言うと、神官が額を押さえた。
「神殿側の正典にはございません……」
『言ったよー』
「どちらを重要と考えるかで、後世の残り方が変わったんだな」
危険な線を越えるな。
海皇がそう命じた。
長い年月の間に、その部分だけが強くなった。
海皇が定めた境界なのだから神聖だ。
ならば境界へ近づくことすら慎むべきだ。
最終的には、海そのものが祈りの場所になり、人が泳ぐ場所ではなくなった。
「リヴィは途中で何も言わなかったの?」
『言ったよー』
「いつ?」
『何回かー』
「何て?」
『泳げばいいのにーって』
「それじゃ伝わらなかったんだろ」
『えー』
本気で不思議そうだった。
「お前もうちょっと説明しろよ」
『面倒だったー』
「そこだよ!」
九十年近い誤解の理由が、海皇の説明不足という可能性が出てきた。
神官も何とも言えない顔をしている。
『でもー』
リヴィが海を見る。
『途中から、誰も来なくなったー』
声の調子は変わらない。
それでも俺には少しだけ寂しく聞こえた。
『昔は子供いっぱい泳いでたよー。漁師も昼に入ってきたしー。魚取りながら遊んだりー』
「リヴィも一緒に?」
『たまにー』
「何して遊んだの?」
『潜って石拾うー』
「普通だな」
『魚と競争するー』
「人間側勝てないだろ」
『だから私が魚遅くするー』
「それ反則じゃない?」
『楽しかったよー』
リヴィが水へ入る。
足元から海水に溶けるように身体を沈め、少し沖まで進んでから振り返った。
『でも、みんな来なくなったー』
神として崇められるようになったから。
海皇がいる海へ入ることが恐れ多いと考えられたから。
本人はずっと水の中にいたのに。
周囲から人間だけがいなくなった。
「それで前に、普通に遊びに来てほしいって言ったの?」
『うんー』
なるほど。
リヴィは六人の中でも、人と距離を取りたがるように見える。
水から出たがらない。
面倒なことは嫌がる。
一人で水に浮かんでいるだけで満足していそうだ。
でも。
一人が好きなことと。
誰も来ない方がいいことは、同じではなかったらしい。
◇
「じゃあ泳ぐか」
俺は上着を脱いだ。
神官が驚く。
「レオン様?」
「今日はそのために来たので」
海へ入る。
冷たすぎず、ちょうどいい。
足元には細かな砂があり、少し進むと腰ほどの深さになる。
リヴィが嬉しそうに寄ってきた。
『泳げるー?』
「普通には」
『溺れたら助けるよー』
「そこは海皇として頼りにしてる」
『任せてー』
さらに進む。
青い浮標のかなり手前で十分な深さになった。
「本当に泳ぎやすいな」
『今日はねー』
リヴィは俺の周りをくるくる泳ぐ。
普段の面倒くさがりが嘘みたいだ。
「お前、水の中だと元気だな」
『陸が面倒なだけー』
「知ってる」
俺たちが泳ぎ始めても、浜辺の人々はまだ見ているだけだった。
「誰も来ないな」
『レオンだけでもいいよー』
「いいの?」
『うんー』
そう言ったものの、視線は浜辺へ向いていた。
分かりやすい。
ルビィほど表情には出ないが、百年付き合えば俺にもそれくらい分かる。
「本当は来てほしいんだろ」
『無理にはいいよー』
「それは分かってる」
俺たちが呼んだからという理由だけで、怖い人を無理やり泳がせても意味はない。
しばらく二人で泳いだ。
何度か潜ってみる。
水が透き通っているので、底までよく見えた。
小さな魚の群れが横切る。
『レオンー』
「ん?」
『あれ取れるー?』
リヴィが海底にある白い石を指さした。
「何で?」
『昔、遊びで取ってたー』
「どっちが多く拾えるか?」
『うんー』
「お前がやったら勝負にならないだろ」
『私は十個で一個ー』
「ハンデ大きすぎない?」
『海皇だからー』
「そこだけ自覚的に使うなよ」
それでもやってみる。
息を吸って潜る。
石を一つ拾って上がる。
『一個ー』
「思ったより深い」
『もう一個ー』
「休ませろよ」
そんなことを繰り返していたら。
浜辺から声が聞こえた。
「私もやりたい!」
子供だった。
十歳くらいの少年が水際に立っている。
母親らしき女性が慌てて肩を掴んだ。
「駄目よ。海皇様がおられるのよ」
その言葉を聞いたリヴィが止まった。
俺を見る。
「自分で言いな」
『うんー』
リヴィは浜辺へ少し近づいた。
『遊んでいいよー』
母親が硬直する。
「し、しかし、この海は海皇様の――」
『みんなの海だよー』
短い言葉だった。
リヴィらしい。
でも、今度はそれだけで終わらなかった。
『青いのより向こうは危ないから行かないでねー。こっちは大丈夫ー。ゴミは持って帰ってー。魚いじめないでー。騒ぎすぎると私寝られないからほどほどにー』
俺は思わず笑った。
「ちゃんと説明できるじゃん」
『今日は頑張ったー』
本人的にはかなり喋ったらしい。
少年が母親を見る。
「入っていい?」
母親は迷った。
それから、恐る恐る靴を脱いだ。
「浅いところだけよ」
「うん!」
少年が水へ入る。
最初は膝まで。
次に腰。
やがて嬉しそうに泳ぎ始めた。
その様子を見ていた別の家族も動いた。
一人。
二人。
少しずつ海へ人が入ってくる。
誰も大騒ぎはしない。
海皇へ触ろうと押しかける者もいない。
ただ泳ぐ。
水をかけ合う。
子供が潜る。
岸では老人が足だけ海につけている。
昔の景色を俺は知らない。
でも。
『こんな感じー』
隣でリヴィが言った。
「昔も?」
『うんー』
「戻ったな」
『うんー』
その一言は、少しだけ弾んでいた。
◇
午後になる頃には、海岸の空気は完全に変わっていた。
青い浮標そのものは撤去しないことになった。
危険な場所を示す目印として、今でも役に立つからだ。
ただし名前を変える。
《海皇境界》ではなく。
《安全遊泳境界》。
「普通だな」
「それがよろしいかと存じます」
神官も苦笑していた。
「神殿の記録も修正いたします。海皇様が人を遠ざけるため定めた境界ではなく、安全のため設けられたものだと」
『よろしくー』
「また百年後に変な意味になってたら?」
俺が聞くと、リヴィは考えた。
『その時また言うー』
「面倒がらずに?」
『……なるべくー』
「そこは約束しろよ」
完全には直らないらしい。
俺たちは少し離れた岩場で休んだ。
正確には、俺は岩の上。
リヴィは海面に浮かんでいる。
『レオンー』
「何?」
『今日楽しかったー?』
「楽しかったよ」
『本当ー?』
「何で疑うんだ」
『私の海だからー』
「だから?」
『嫌いだったら困るー』
珍しいことを言う。
「昔、六人育ててた時も、俺が好きな場所まで気にしてた?」
『気にしてないー』
「じゃあ何で今は?」
『百年あると変わるー』
「そういうもの?」
『うんー』
リヴィは水に浮かびながら空を見る。
『昔は、レオンのいるとこが家だったー』
不意に出た言葉だった。
俺は黙って続きを待つ。
『レオンいなくなってから、自分の場所作ったー。海いっぱい見たー。ここ好きになったー』
「うん」
『だから見せたかったー』
なるほど。
俺を泳ぎに誘った理由は、人間たちの見本にするためだけではなかったらしい。
「いい場所だな」
『でしょー?』
「昼寝にも良さそう」
『水の上、最高だよー』
「俺は沈むから無理」
『浮かせてあげるー』
「寝てる間ずっと?」
『途中で面倒になったら沈むかもー』
「絶対頼まない」
『助けるよー』
「沈めてから助けるな」
リヴィが笑った。
水面が小さく揺れる。
「百年の間に見つけた場所、他にもある?」
『いっぱいー』
「じゃあまた教えてよ」
『行くー?』
「全部水の中じゃなければ」
『だいたい水ー』
「少し選んでくれ」
『面倒ー』
「そこ頑張れよ」
また笑う。
岸の方から、子供たちの声が聞こえてきた。
一人が青い浮標へ近づこうとして、大人に止められている。
「そこから先は危ないよ!」
「はーい!」
祈りではない。
恐れでもない。
ただの注意だった。
リヴィはその声を聞きながら、目を細めている。
『ちゃんと伝わったねー』
「今度は理由までな」
『うんー』
「大事だぞ」
『分かったー』
たぶん半分くらいしか分かっていない。
でも今日、九十年近く続いた誤解は一つなくなった。
海皇が引いた青い線は、人間を自分の海から追い出すための境界ではなかった。
人間に、その内側で安心して遊んでほしかったから引いた線だった。
そして本人が百年間待っていたのも。
祈りではなく。
供物でもなく。
波の向こうから聞こえる、こんな普通の笑い声だったのだろう。
『レオンー』
「今度は何?」
『帰りたくないー』
「出たな」
『今日ここで寝るー』
「みんな家で待ってるぞ」
『連絡してー』
「自分でしろよ」
『面倒ー』
「帰るぞ」
『えー』
海皇の百年間を少し知ったところで。
面倒くさがりなところだけは、やっぱり一つも変わっていなかった。




