第45話 冥界九尾が「分からない」と答えたら、神殿から感謝された
仕事から帰ったあと、俺は雲綿兎について六人から話を聞いた。
正確には、五人からだった。
リヴィは「ふわふわしてる」「水に浮かべたらどうなるかなー」という情報しか出さなかったので、途中から数に入れるのをやめた。
ルビィは雲綿兎が好む果物を知っていたし、ライカは北方地域での飼育例を見たことがあった。フェニアは毛にまとった水分を乾燥させすぎてはいけないことを教えてくれ、シロは群れで休む時の習性を実際に観察した経験があるらしい。
百年前は、俺が六体へ教える側だった。
今は、俺が知らないことを六人から教えてもらえる。
昨日まではその変化を面白く感じていたのだが。
翌朝。
「レオン」
珍しくミコから呼び止められた。
「どうした?」
朝食を終えたばかりだった。
今日は俺も仕事が休みなので急ぐ必要はない。
ミコはいつものように整った服装で、いつものように穏やかな笑みを浮かべている。
ただし、九本の尻尾だけが妙だった。
一本は左へ。
二本は右へ。
残りは落ち着かない様子で床を撫でている。
「ちょっと相談したいことがございます」
「いいよ」
「ありがとうございます」
それだけなら珍しくない。
問題は、そのあとだった。
「それで……」
「うん」
「先に申し上げておきますが、私にも正しい答えが分かりません」
俺は思わずミコを見た。
「何です、その顔は」
「いや」
「私が分からないと言うことが、それほど珍しいでしょうか?」
「珍しいだろ」
「レオンまで」
少し不満そうだ。
でも事実だ。
ミコは六人の中でも特に頭が回る。
金。
土地。
商売。
法律。
国同士の関係。
誰に何を頼めば最短で物事が進むのかまで知っている。
以前、家を増築する時など、俺が何か言う前から第二案、第三案まで用意していた。
そのミコが自分から「分からない」と言った。
「だから相談なんだろ?」
「はい」
「じゃあ座ろう」
俺は居間の椅子を引いた。
ミコが向かいに座る。
しばらくすると、何か面白いことを察知したルビィが寄ってきたが、ミコが一度視線を向けただけで引き返していった。
珍しい。
あいつが空気を読んだ。
たぶんあとで盗み聞きはするだろうが。
「それで?」
俺が尋ねると、ミコは一通の手紙を机へ置いた。
「私を祀る神殿から届きました」
「また願い事?」
「ある意味では」
封筒から数枚の紙が出てくる。
俺は読ませてもらった。
内容は思ったより普通だった。
ある町に古い市場がある。
数百年続いた市場らしいが、近年は人が減り、建物も古くなっている。
町では新しい場所に大きな商業地区を作る計画があり、古い市場を残すか、新しい地区へまとめて移すかで意見が割れている。
古い市場の商人は残したい。
若い商人には移転したい者も多い。
住民の中でも意見は分かれている。
「これをミコに決めてほしいって?」
「以前なら、そうでした」
「以前なら?」
ミコはもう一枚の紙を俺へ渡した。
そこには最初の手紙とは違う文章が書かれている。
《九尾様に結論をいただくためではございません》
《私たち自身で決めたいと考えております》
《ただ、私たちが見落としていることがないか、一緒に考えていただけないでしょうか》
俺は二度読んだ。
「第38話……じゃなくて、前にミコが言ったこと、ちゃんと届いてるんだな」
神として正解を求めないでほしい。
一緒に考える相手として相談してほしい。
ミコが自分で望んだことだ。
「はい」
ミコは嬉しそうだった。
少なくとも最初は。
「ですので、最初は非常に喜びました」
「最初は?」
「考えれば考えるほど、本当に分からなくなりまして」
なるほど。
俺はもう一度資料を見る。
「どっちにも良いところあるもんな」
「ございます」
ミコが指を一本立てる。
「現在地を維持すれば、歴史ある町並みと昔からの人の流れを残せます。一方で建物の補修費が大きく、道幅も狭いため、今後さらに物流量が増えた際の対応が難しい」
二本目。
「新地区へ移転すれば物流効率は上がります。防災設備も整えられ、新規出店もしやすいでしょう。しかし古い市場周辺の店や住民が取り残される可能性がございます」
三本目。
「一部だけ残す方法もございますが、どちらも中途半端になる危険があります」
「結論出てるじゃん」
「出ておりません」
「選択肢全部の問題が分かってる」
「問題点が分かることと、正解が分かることは別です」
「まあ、それもそうか」
俺は椅子へ深く座った。
「今までならどうしてた?」
「決めておりました」
「どうやって?」
「その時点で最も損失が少なく、長期的利益が大きくなる案を選びます」
ミコらしい。
「外したことは?」
「ございます」
「あるんだ」
「ありますよ」
意外だった。
たぶん顔に出たのだろう。
ミコが呆れたように俺を見る。
「私は未来を見られるわけではございません」
「何となく全部当ててそうだった」
「レオンの中で私は何になっているのですか」
「木の実に利子つける仔狐」
「百年前まで戻りすぎです」
尻尾が一本、俺の腕を軽く叩いた。
少し空気が柔らかくなる。
「外した時はどうした?」
「次の手を考えました」
「怒られたりしなかった?」
そこで、ミコの動きが少し止まった。
「怒られる、ですか」
「国とか商人とかに」
「私へ直接そのようなことを言う者は、ほとんどおりませんでした」
「何で?」
「冥界九尾ですから」
「ああ……」
そうだった。
忘れがちだが、こいつは世界で神として崇められている。
「では、私の判断を採用した結果、損失が出た場合にどうなったと思われますか?」
「ミコのせいにする?」
「逆です」
ミコが苦笑した。
「自分たちの運用が悪かったのだと考えます」
「……それは困るな」
「はい」
「ミコが間違ってる可能性を誰も考えないのか」
「少なくとも、公然とは」
百年間。
答えを求められてきた。
そして答えた。
当たれば九尾の叡智。
外れれば、人間側が使いこなせなかった。
それではミコ自身が自分の答えを検証するのも難しい。
「だから正解を求めないでほしいって言ったの?」
「理由の一つではございます」
ミコは机の上の手紙を見た。
「ですが、実際に『一緒に考えてほしい』と求められると、今度は何を返せばよいのか分からなくなりました」
「正解を返さなくていいんだろ?」
「はい」
「じゃあ分からないって返せば?」
「……それだけで?」
「それだけじゃ駄目なら、分かってることも書けばいい」
俺は三枚の紙を並べる。
「残せばこうなるかもしれない。移せばこうなるかもしれない。一部だけならこういう問題がある。そこまでミコ分かってるんだろ?」
「はい」
「じゃあ、あとは町の人が何を大事にしたいかじゃない?」
俺には商売の難しいことは分からない。
でも。
「古い市場を残すことに多少金がかかっても、そこを残したい人はいるだろうし。逆に思い出より便利な場所で商売したい人もいるだろ」
「その通りです」
「ミコには、どっちの気持ちが上かなんて決められないじゃん」
ミコが黙った。
考えているらしい。
「数字で全部決まるなら簡単なのですが」
「そうなの?」
「私にとっては」
「さすがだな」
「ですが今回は、数字だけで決めてほしくないから手紙が届いたのでしょうね」
「たぶん」
ミコの尻尾が、さっきより少し落ち着いた。
「では」
一枚の白紙を取り出す。
「書いてみます」
「今?」
「今です」
「俺いる?」
「いてください」
即答だった。
「分かった」
何をするでもない。
俺は向かいに座っているだけだ。
ミコは筆を取り、しばらく考えたあと、最初の一文を書いた。
《私にも、どちらが正しいかは分かりません》
そこで止まる。
「……変ではありませんか?」
「全然」
「九尾からこのような回答が届けば、失望されないでしょうか」
「一緒に考えてほしいって頼んできたんだろ?」
「はい」
「だったら正解が届く方がおかしいじゃん」
「それは……確かに」
続きを書く。
古い市場を残す場合に考えられること。
移転する場合。
一部を残す場合。
だが今回は、どれが最善だとは書かない。
代わりに問いを書いた。
《市場を百年後まで残すことと、市場で商う人々の暮らしを百年後まで残すことは、同じでしょうか》
俺はその一文を読んだ。
「難しいこと書くなあ」
「難しすぎますか?」
「いや。考えるための手紙ならいいんじゃない?」
ミコがまた書く。
《場所を残したいのか》
《名前を残したいのか》
《商いを残したいのか》
《そこに集まる人々を残したいのか》
《まず皆様で、それぞれが何を失いたくないのかを話してみてはいかがでしょう》
最後。
また筆が止まる。
「何?」
「締めをどうするべきでしょう」
「俺に聞く?」
「一緒に考えてくださるのでしょう?」
「そうだった」
俺も考える。
「じゃあさ」
「はい」
「決まったら教えてください、でいいんじゃない?」
「私へ?」
「うん」
「助言ではなく?」
「ミコも結果知りたいだろ?」
「……知りたいです」
「ならそれ」
ミコは少し笑った。
そして最後に書いた。
《皆様自身で選ばれた結論が出ましたら、ぜひ私にも教えてください》
筆を置く。
「できたな」
「はい」
しばらく手紙を見る。
「何か足りない?」
「いえ」
ミコは首を振った。
「少し不思議なだけです」
「何が?」
「私は百年間、数えきれないほどの問いへ答えてきました」
「うん」
「ですが、回答の最後に『その後どうなったか教えてほしい』と書いたのは、これが初めてかもしれません」
それは俺にも少し意外だった。
「今まで気にならなかった?」
「結果の報告は届きます。ですが、それは成功した、利益が出た、争いが収まったという報告ですから」
「今回は違う?」
「はい」
九本の尻尾が静かに広がる。
「今回は、皆様が何を考え、何を大切にして選んだのかを知りたいと思いました」
「いいんじゃない?」
「そうですね」
ミコは手紙を丁寧に畳んだ。
◇
それから十日ほど経った。
俺が仕事から帰ると、珍しく玄関までミコが迎えに来た。
「レオン」
「ただいま」
「お帰りなさいませ」
「何かあった?」
「返事が来ました」
一瞬、何の話か分からなかった。
嬉しそうな九本の尻尾を見て思い出す。
「市場?」
「はい」
居間へ行く。
ミコはすでに封筒を開けていた。
「どうなった?」
「まだ決まっておりません」
「決まってないの?」
「はい」
なのに嬉しそうだ。
手紙を見せてもらう。
そこには、町で話し合いを始めたことが書かれていた。
古い市場を残したいと思っていた人の中にも、「建物」ではなく「今の店同士のつながり」を残したかった人がいた。
移転を望んでいた若い商人の中にも、古い市場の名前や祭りは残したいという人がいた。
最初は二つに分かれていると思っていた意見が、話を聞いていくうちにいくつも違う形に分かれたらしい。
結論はまだ出ていない。
だからもう少し話し合う。
そう書かれている。
「良かったじゃん」
「はい」
「でもまだ解決してないぞ」
「それでいいのです」
ミコがそう答えたのは、俺が知る限り初めてだった。
「前なら?」
「早く決めるための方法を考えたと思います」
「今は?」
「必要なら、時間をかければよいのではないでしょうか」
「変わったな」
「そうでしょうか」
「昔なら一晩で計画書五個くらい作っただろ」
「七案程度は」
「増やすなよ」
ミコが笑う。
そこへルビィがやって来た。
「何の話?」
「ミコが分からないって答えた話」
「えっ!?」
声が大きい。
案の定、シロまで顔を出した。
フェニアも来る。
『何ー?』
水路からリヴィまで反応する。
ライカも書類を持ったままこちらを見た。
「ちょっと待って」
ミコが珍しく焦った。
「レオン、その説明では私が何も考えず『分かりません』とだけ返したように聞こえます」
「違うの?」
「まったく違います!」
「ミコが分からないことあるの!?」
ルビィがものすごく驚いている。
「あります!」
「何?」
「たくさんあります!」
「例えば?」
「今、この場であなたを納得させる方法です!」
「あ、それは難しいね」
「でしょう!?」
怒っている。
でも九本の尻尾は楽しそうだった。
俺はその様子を見ながら、ふと思う。
百年間。
ミコは答える側だった。
正しいと思われる側だった。
分からないと言うことすら、きっと難しかったのだろう。
「レオン」
「ん?」
騒ぎの中でミコが俺を見る。
「また分からないことがございましたら」
「うん」
「一緒に考えていただけますか?」
「そのために家族いるんじゃない?」
言ったあと。
ミコが止まった。
九本の尻尾も止まった。
「……ミコ?」
「今、もう一度お願いいたします」
「嫌だよ」
「なぜですか!?」
「昨日から、俺がちょっと恥ずかしいこと言うと全員もう一回言わせようとするだろ!」
「重要事項は記録が必要です」
「日誌に書く気か!」
「候補にはございます」
「やめろ!」
慌てて止める。
その後ろでは、ルビィが笑い、シロの尻尾まで楽しそうに揺れていた。
どうやら百年前の育児日誌が見つかってから、今度は俺の発言まで記録しようという流れができつつあるらしい。
それだけは阻止しないといけない。
百年後に誰かが読んだら大変だ。
もっとも。
その頃にもこいつらが生きていたら、たぶん俺より細かく覚えているのだろうけれど。
ミコは受け取った手紙を大切そうに畳んだ。
正解は、まだ出ていない。
それなのに。
俺には今日のミコが、百年間で一番いい答えをもらったように見えた。




