第44話 六大神獣を卒業させた翌日、普通の魔獣の飼い主に「離れた方がいいですか」と聞かれた
六大神獣に百年遅れの「卒業」を言い渡したその日も、俺の仕事はいつも通りだった。
《もふもふ魔獣店ポッケ》へ着けば、まず飼育室を回って体調を確認する。水を替え、餌の残り方を見て、寝床が汚れていれば交換する。
世界最強の神獣を六体育てたからといって、普通の魔獣の世話が全部分かるわけではない。
むしろ百年後には、俺が知らない種類の方が増えていた。
「レオンさん、ちょっといいですか?」
朝の作業が一段落したところで、店長に呼ばれた。
「相談のお客さん?」
「ええ。ただ今回は、病気かどうかもよく分からないそうで」
「なら先に診療所じゃないの?」
「一度診てもらっているそうです。身体には異常なし。それでも食欲が安定しないらしくて」
それなら、俺たち飼育員が見る意味もある。
店の相談スペースへ向かうと、そこには三十代くらいの女性と、十歳前後の女の子が座っていた。
女の子の膝には、小さな魔獣がいる。
丸い身体。
長い耳。
薄い灰色の毛は綿みたいに柔らかく、その周囲にごく薄い霧がまとわりついていた。
「……初めて見るな」
思わず口にすると、女の子が不安そうにこちらを見る。
しまった。
「ごめん。悪い意味じゃないよ。俺が百年前の種類しか知らないだけだから」
「百年前……?」
「ああ、この人ちょっと特殊なんです」
店長が説明を諦めたような顔で補足した。
最近、この扱いにも慣れてきたな。
「雲綿兎です」
女性が教えてくれる。
「三か月前に娘と一緒に迎えました。この子はポポといいます」
「雲綿兎……」
名前だけは研修資料で読んだ。
百年前には確認されていなかった種類だ。
高地に生息する小型草食魔獣で、毛の周囲へ薄い水分の膜を作り、乾燥から身体を守る。家庭で飼いやすいため、ここ数十年で伴侶魔獣としてかなり広まったらしい。
俺はしゃがんで、ポポと呼ばれた雲綿兎を見る。
「触っても?」
「はい」
女の子が頷いた。
すぐには手を出さない。
まず指先を少し近づけて、向こうの反応を見る。
鼻が動いた。
耳は伏せていない。
逃げもしない。
そのまま待っていると、ポポの方から指先へ鼻を寄せてきた。
「人は嫌いじゃなさそうだな」
「すごく懐いてるんです」
母親が困ったように笑う。
「懐きすぎているというか……」
「どういうことです?」
「娘がいないと、ほとんど餌を食べないんです」
なるほど。
俺は女の子を見る。
「ずっと一緒にいるの?」
「学校から帰ったら、ずっと」
「寝る時も?」
「一緒です」
「学校に行ってる間は?」
女の子の顔が曇った。
「お母さんが見てくれてる。でも、ご飯あんまり食べないって」
母親が頷く。
「娘が帰宅すると急に食べ始めます。休日は普通なんです。獣医師にも診てもらいましたが、身体は健康だと言われました」
「それで、離した方がいいんじゃないかって?」
俺が尋ねると、女性は少し迷ってから頷いた。
「はい。あまり娘に依存させてはいけないのかと思って」
女の子がポポを抱く腕に力を入れた。
「別々に寝た方がいいって、お母さんが……」
「まだ決めてないでしょう?」
「でも……」
ポポの周囲に漂っていた薄い霧が、わずかに濃くなった。
面白い。
「その霧って、感情でも変わるんですか?」
「はい」
店長が答える。
「雲綿兎は緊張すると毛の表面の水分量が増えます。あまり強いストレスが続くと、周囲に霧が出ることもあるそうです」
「なるほど」
百年前にはいなかった。
だから俺は知らない。
知らないなら、決めつける前に見るしかない。
「普段使っている餌、あります?」
「持ってきています」
母親が小さな袋を出した。
乾燥させた葉と、小さな穀物の粒が混ざっている。
俺は店に同じような浅い器を用意し、そこへ少しだけ入れた。
「ちょっと床に下ろしてもらっていい?」
女の子がポポを降ろす。
ポポはすぐ彼女の足元へ寄った。
器を少し離れた場所へ置く。
ポポは餌を見た。
鼻も動く。
食べ物だとは認識している。
けれど動かない。
「もう少しだけ離れてみて」
俺が頼むと、女の子は一歩下がった。
ポポも一歩ついていった。
さらに一歩。
またついていく。
「なるほどなあ」
「やっぱり依存してますよね?」
母親が心配そうに言った。
「まだ分からないですよ」
俺はポポの寝床について尋ねた。
「普段、この子だけで使う場所はあります?」
「ケージはあります。でも、あまり入りたがらなくて」
「中には何を?」
「寝床と、水と、餌を」
「娘さんが普段使ってるものは入ってる?」
二人とも首を振った。
「じゃあちょっと試してみようか」
俺は女の子に、持ってきている物の中で、普段よく使うものがないか聞いた。
しばらく鞄を探して出てきたのは、小さな布製のハンカチだった。
「これ、昨日も使った?」
「うん」
「借りてもいい?」
頷いてくれたので、床へ置く。
その横に餌の器を置いた。
女の子には、今度は少し離れた椅子へ座ってもらった。
ポポは迷った。
女の子を見る。
ハンカチを見る。
また女の子を見る。
やがて慎重にハンカチへ近づき、鼻先を押しつけた。
その場に座る。
しばらくして。
餌を一口食べた。
「あっ」
女の子が声を上げる。
「動かないで」
俺が小声で言うと、慌てて口を押さえた。
ポポはもう一口食べる。
三口目。
そこで女の子のところへ戻った。
でも、さっきまでとは違う。
また自分から器へ行く。
「食べてる……」
母親が驚いていた。
「匂い?」
「たぶん、それだけじゃないと思います」
俺はポポを見る。
「この仔にとって、娘さんが安全な場所なんでしょうね」
「安全な場所……」
「知らない家に連れてこられて三か月ですよね?」
「はい」
「俺は雲綿兎を育てたことがないから、この種類として普通なのかまでは勉強しないと分かりません。でも少なくとも今見る限り、娘さんから離れた瞬間に何もできなくなるというより、安心できる場所をまだ娘さん一人にしか作れてない感じがします」
女の子がポポを見つめる。
「私がいないと怖いの?」
「たぶんな」
「じゃあ、ずっと一緒にいた方がいい?」
今度は俺が少し考えた。
「ずっと一緒にいられるなら、それでも困らないかもしれない。でも学校にも行くだろ?」
「うん」
「だったら、いない時間も大丈夫だって覚えてもらった方が、この仔は楽だと思う」
「やっぱり離すの?」
「急にじゃないよ」
ここは大事だ。
「いきなり今日から別々に寝る必要はない。いつも使う布を寝床へ入れてみたり、娘さんが家にいる時に短い時間だけ別の部屋で過ごしてもらったりする。離れても必ず戻ってくるって、この仔が覚えられるくらいから始めればいい」
母親が少し安心した顔をする。
「甘やかしているわけではないんでしょうか?」
「甘やかすって言葉は便利ですけど、何でもそこに入れない方がいいですよ」
百年前。
俺も六体を育てていた頃、何度も似たことを考えた。
抱き上げればすぐ静かになる仔を、毎回抱き上げていいのか。
怖がる仔のそばに、ずっといていいのか。
餌を自分で取れるようにするなら、助けない方がいいのか。
でも、結局。
「一人で何でもできることだけが、大人になることじゃないと思います」
昨日見つけた日誌に、百年前の俺自身が書いていた。
困った時には誰かへ助けを求められること。
できないことを、本人と周りが知っていること。
「誰かを頼れるのと、何もできないのは別ですよ」
ポポはまた器へ行った。
今度はハンカチの隣で座ったまま、落ち着いて餌を食べている。
女の子はそれを見ながら、しばらく黙っていた。
「ポポ、私がいなくても大丈夫になる?」
「なると思うよ」
「そしたら、私いらなくなる?」
その質問だけは、すぐに答えられた。
「それも別だよ」
「別?」
「一人で食べられるようになったからって、好きな相手がいらなくなるわけじゃない」
昨日の朝。
世界最強になった六人へ、俺は「卒業」と書いた。
自分で食べられる。
自分で休める。
自分の嫌なことを伝えられる。
怖い時には落ち着く方法を知っている。
誰かとの距離を選べる。
困ったら助けを求められる。
全部できるようになった。
それでも、あいつらは帰ってくる。
「大丈夫になって、それでも一緒にいたいなら」
俺は女の子へ笑った。
「それは依存じゃなくて、その仔が選んでるんじゃないかな」
女の子は何度か瞬きをしたあと、嬉しそうに頷いた。
◇
相談が終わったあと、俺は雲綿兎について店の資料を借りた。
知らない種類を感覚だけで扱うわけにはいかない。
店長が持ってきてくれた飼育書を休憩時間に読んでみると、やはり雲綿兎は群れへの帰属意識が比較的強く、幼体は特定の相手を安全の基準にしやすいらしい。
「大筋は合ってたみたいだな」
「レオンさん」
「ん?」
「知らない魔獣なのに、よくあそこまで分かりましたね」
店長が不思議そうにしている。
「分かってないよ」
「え?」
「だから色々聞いたんだろ」
種類ごとの生態は知らない。
なら、知っている人に聞く。
本人を見る。
反応を見る。
決めつけない。
「百年前と同じだよ。あいつらだって、一体ずつ全然違ったから」
神獣だからこう。
炎竜だからこう。
神狼だからこう。
それだけでは育てられなかった。
同じ種類でも性格は違う。
同じ行動でも理由は違う。
それを間違えると、世話をしているつもりで本人を困らせる。
「百年前の飼育方法って、もっと古いものだと思っていました」
「古いものもいっぱいあると思うぞ」
「そこは否定しないんですね」
「当たり前だろ。百年も経ってるんだから、今の方が分かってることだって多いよ」
だから俺も勉強する。
それだけだ。
六大神獣を育てたという理由で、百年後のすべての魔獣まで分かったふりをする方がおかしい。
飼育書のページをめくりながら、俺はふと思った。
卒業。
昨日は六人にその言葉を書いた。
でも俺の方には、どうやら卒業はないらしい。
知らない魔獣がいる。
知らない飼育方法がある。
百年前にはなかった考え方もある。
だったら覚えればいい。
飼育員という仕事は、思ったよりずっと終わりがなさそうだった。
◇
仕事が終わる頃には、雲綿兎の飼育書を半分ほど読み終えていた。
残りは店長に頼んで借りることにする。
家へ向かって歩きながら、俺は今日の相談を思い返した。
離れた方がいいですか。
一人でいられるようになったら、私はいらなくなりますか。
あの女の子の質問。
百年前の俺も、どこか似たようなことを考えていたのかもしれない。
六体が俺なしで生きられるようになれば、俺の役目は終わる。
俺がいなくても幸せなら、それでいい。
間違っていたとは思わない。
実際、あいつらは俺なしでも百年を生きた。
ただ。
俺なしで生きられることと。
俺と一緒にいたくないことは。
最初から別だったのだ。
「ただいま」
玄関を開ける。
「おかえり!」
最初にルビィの声が飛んできた。
居間から足音が近づく。
シロは声より先に姿を見せ、俺のところまで来ると、いつものように鼻先を服へ寄せた。
「おかえり」
「ただいま」
フェニアも奥から顔を出す。
「お帰りなさいませ、レオン。お疲れではございませんか?」
「普通だよ」
『レオンー。魚ー』
「ただいまより先に魚なの?」
『おかえりー。魚ー』
「順番の問題じゃないんだけどな」
ライカも書類から顔を上げ、ミコは読んでいた本を閉じた。
「今日は少々遅かったな」
「仕事で相談があってさ。あと、知らない魔獣の本借りてきた」
「レオンが知らない魔獣?」
ルビィが俺の鞄を覗き込もうとする。
「百年経ってるんだから普通にいるよ」
「どんな仔?」
「雲綿兎っていうらしい」
「知ってる!」
「私は何度か見たことがございます」
「北方でも飼育されているな」
次々に声が上がった。
俺は立ち止まる。
「お前ら知ってるの?」
「百年間いたからね」
ルビィが当たり前みたいに答えた。
それもそうか。
俺が知らなかった百年間を、こいつらは生きている。
「じゃあ後で教えてよ」
何気なく言った。
六人が静かになった。
「何?」
俺が聞くと、ミコが微笑んだ。
「いえ」
「何だよ」
「レオンから私たちへ『教えてほしい』と仰るのは、少し珍しいと思いまして」
「ああ……」
確かに。
昔は俺が教える側だった。
六体は何も知らない仔だった。
食べていいもの。
危険なもの。
人間との接し方。
眠る場所。
身体の手入れ。
俺が知っていることを、少しずつ教えた。
でも今は違う。
「お前らの方が百年先輩なんだから、現代のことは教えてもらうよ」
「任せて!」
ルビィが胸を張る。
「食べ物なら特に!」
「雲綿兎の話なんだけど」
「食べられる果物も大事だよ!」
「お前が食べたいだけだろ」
フェニアが呆れ、ライカが飼育書の表紙を確認し始め、ミコはすでに自分の書庫から関連資料を持ってくるつもりらしい。
シロも俺の横から本を覗き込んだ。
「私も知ってる」
「本当?」
「うん」
「じゃあ後で聞く」
銀色の尻尾が嬉しそうに揺れる。
リヴィだけは水路から考え込んでいた。
『雲綿兎って魚食べるー?』
「絶対お前には聞かない」
『なんでー?』
騒がしい。
でも。
百年前とは役割が少し変わった。
俺が一方的に育てるだけではない。
俺が知らないことを、六人が知っている。
俺が教えてもらうこともある。
困れば頼ることもある。
「レオン」
「ん?」
シロが俺の服を軽く引いた。
「今日も帰った」
何の話か一瞬分からなかった。
けれど、昼間の雲綿兎を思い出して気づく。
「そりゃ帰るよ。ここ家なんだから」
「うん」
それだけでシロは満足したらしい。
俺は借りてきた飼育書を抱え直し、みんなと一緒に居間へ向かった。
一人で生きられるようになること。
誰かを必要としなくなること。
誰かと一緒にいること。
たぶん全部、別の話なのだ。
六人はもう、俺が育てなくても生きられる。
俺だって、こいつらがいなくても一人で飯くらい作れる。
それでも帰れば「おかえり」があって、俺も「ただいま」と返す。
百年前の俺が言うところの卒業後とは、きっとこういうものなのだろう。
「レオン、先にご飯!」
「雲綿兎の本は食べながら読まないでくださいませ」
『私の魚もー』
「はいはい。順番な」
そして今日も。
卒業したはずの六人との生活は、何一つ終わる気配がなかった。




