第43話 六大神獣、百年前の「卒業条件」を今さら受け直すらしい
百年前の俺が未来の自分へ残していた手紙は、ひとまず棚の中へしまうことになった。
六体が成長したら王立神獣育成所を辞めること。
普通の魔獣を世話する仕事を探すこと。
小さな家で暮らすこと。
そして、成長した六体がそれでも自分から会いに来てくれたなら、その時はもう飼育員と神獣ではなく、家族みたいなものなのだろう――。
百年前の自分がそんなことを考えていたと知った翌朝。
俺はいつも通り朝食を終え、そろそろ《もふもふ魔獣店ポッケ》へ行く支度を始めようとしていた。
ところが、居間の机を六人が囲んでいる。
「……何してるの?」
俺が聞くと、ルビィが振り返った。
「調べてる!」
「何を?」
「私たちが、いつ大人になったのか!」
「百年前じゃない?」
「そういう意味じゃないの!」
よく分からない。
机の上には、昨日整理した育児日誌が数冊開かれていた。
勝手に読むなとは言わない。本人たちの記録でもあるし、百年前の俺より内容を覚えている奴までいる。
ただし、一冊のページへ六人全員が頭を寄せている光景は珍しかった。
ミコが俺へ向けて冊子を回す。
「こちらをご覧ください」
「どれ?」
開かれていたのは、六体がまだかなり幼かった頃の日誌だった。
餌の量や睡眠時間を書いた記録ではない。
ページの上には、俺の字で大きく、
《成体育成・最終目標》
と書いてある。
「ああ、これか」
「覚えていらっしゃいますか?」
「……いや」
正直に答えた。
百年前のことでも覚えているものは多いが、仕事で毎日のように書いていた記録全部までは無理だ。
読んでみる。
《一、自分で食べるものを選び、必要な量を食べられる》
《二、安全な場所を自分で判断し、休息を取れる》
《三、嫌なことを嫌だと示せる》
《四、興奮や恐怖を自分なりに落ち着かせられる》
《五、他個体と必要な距離を取れる》
《六、自分だけでは困った時、誰かへ助けを求められる》
その下には小さく、
《全部できる必要はない。できないことを本人と周囲が把握できていればよい》
と追記されていた。
「なるほど」
今なら、当時の自分が何を考えて書いたのか分かる。
神獣として強くなることなど、一つも書いていない。
炎をどれくらい吐けるか。
雷をどれほど操れるか。
魔力量がどこまで増えたか。
そういう項目は別の記録にはあるが、このページにはない。
ここに書いたのは、六体が俺なしで生活するために必要だと思っていたことばかりだった。
「これがどうした?」
「受ける!」
ルビィが胸を張った。
「何を?」
「これ!」
「百年前の成長確認を?」
「うん!」
「何で?」
ルビィは答えようとして、少し詰まった。
代わりにフェニアが口を開く。
「昨日の手紙に、六体が十分に成長したあと、レオンは担当を終えるつもりだったとございましたでしょう?」
「そうだったな」
「ですが、実際にはその前に育成所襲撃が起きました」
「ああ」
俺が緊急保存結界へ入ったことで、育成は突然終わった。
卒業も何もない。
朝までいつものように世話をしていた飼育員が、その日の途中でいなくなったのだ。
「そのため私たちは、レオンから『もう大丈夫です』と言われたことがございません」
フェニアは穏やかに話していた。
けれど、その言葉を聞いて意味が分かった。
「……それが気になってたの?」
「少々」
「百年間?」
「ずっとではございません」
フェニアは小さく笑った。
「ですが昨日のお手紙を読んで、思い出しました」
ライカも腕を組んだまま頷く。
「私たちは成長した。少なくとも身体と力については、疑う者はいないだろう」
「そりゃそうだろ」
六大神獣だぞ。
これ以上どこを育てるんだ。
「だが、レオンが何をもって私たちを『育て終えた』とするつもりだったのかは知らなかった」
「だから今さら確認したいって?」
「そういうことだ」
俺は六人の顔を見る。
シロは真剣だ。
ミコも冗談を言っている様子ではない。
水路から参加しているリヴィまで、今日は珍しく眠そうではなかった。
「別に試験じゃないぞ、これ」
「でも確認するんでしょ?」
「当時はな」
「じゃあやる!」
ルビィは譲りそうにない。
俺は時計を見る。
出勤まで少し余裕はある。
「分かった。ただし、五分くらいで終わると思うぞ」
「そんなに簡単?」
「だってお前ら、百年生きてるだろ」
百年前の仔に向けた確認事項を、今の六大神獣にやらせるのだ。
落ちる方がおかしい。
◇
「一、自分で食べるものを選び、必要な量を食べられる」
俺が読み上げた瞬間、全員の視線がルビィへ向いた。
「何で私見るの!?」
「必要な量」
シロがぼそりと言う。
「食べられるよ!」
「食べすぎる」
「シロだって肉ならいっぱい食べるじゃん!」
「止められる」
「私も止められるよ!」
「果物置いたら?」
「…………」
ルビィが黙った。
「おい。一番から怪しくなるなよ」
「食べられるもん!」
「食べられるかじゃなくて止められるかの話になってるぞ」
結局、健康状態に問題がなく、本人も食べすぎた時は自覚しているということで合格にした。
百年前の俺も「全部完璧にできる必要はない」と書いている。
二番。
「安全な場所を自分で判断し、休息を取れる」
今度は全員がライカを見る。
「なぜ私を見る」
「休まないから」
俺が言うと、ライカが露骨に視線を逸らした。
「最近は休んでいる」
「俺が休めって言ったからだろ」
「以前より自主的に休息を取るよう努力している」
「休暇中に仕事持ってこないでって部下にお願いしたばっかりじゃん」
ルビィが追撃する。
ライカの耳が少し伏せられた。
「改善途上だ」
「じゃあ合格でいいよ」
「いいのか?」
「できないことを把握できてればいいって書いてあるだろ」
日誌を指す。
「自分は休むのが苦手だって分かってるなら、周りに止めてもらえばいい」
「……なるほど」
ライカは妙に真面目な顔で頷いた。
三番。
「嫌なことを嫌だと示せる」
「お風呂!」
ルビィが言った。
「私は合格ですね」
フェニアが即答した。
「そこだけは満点だな」
「褒められている気がいたしません」
「褒めてないからな」
ただ、考えてみれば今の六人は以前よりずっと自分の希望を言うようになっている。
神殿から「何を望んでいますか」と聞かれた時には戸惑っていたが、それでも最後には全員が自分の言葉で答えた。
嫌なことだけではない。
したいことも、少しずつ言えるようになっている。
「ここも全員いいだろ」
四番。
「興奮や恐怖を自分なりに落ち着かせられる」
今度はルビィがライカを見る。
ライカがルビィを見る。
「何だ」
「雷」
「言うと思った」
「怖い時どうするの?」
「……レオンのところへ行く」
「それ、自分で落ち着かせてる?」
「方法を自分で選択している」
「ものすごい解釈だな」
俺が笑うと、ライカは不満そうだった。
でも、これも不合格にする理由はない。
「誰かにそばにいてもらうのも、自分を落ち着かせる方法だろ」
むしろ仔の頃は、怖がっていること自体を隠そうとしていた。
今は少なくとも俺のところへ来る。
それでいい。
「合格」
俺が言うと、ライカの尻尾が少しだけ動いた。
五番。
「他個体と必要な距離を取れる」
俺は六人を見る。
六人も俺を見る。
「…………」
「…………」
寝床の取り合い。
ブラッシングの順番争い。
俺の隣の席。
以前には寝室への侵入まであった。
「これは保留かな」
「待って!」
「異議があります」
「理由を聞こう」
ミコが代表して口を開いた。
「必要な距離というのは、本人同士が快適だと感じる距離であって、物理的な遠さを意味するものではないはずです」
「そうだな」
「でしたら問題ございません」
「俺との距離は?」
「問題ございません」
「俺にも決めさせて?」
「もちろんです」
「じゃあもう少し離れて」
「却下いたします」
「俺の意思どこ行ったんだよ」
さっきの三番を返してほしい。
◇
そんな調子で進み、本当に五分程度で終わると思っていた。
最後の項目までは。
「六、自分だけでは困った時、誰かへ助けを求められる」
俺が読み上げる。
六人が静かになった。
さっきまでの騒がしさが嘘みたいだった。
「これは簡単だろ」
俺は深く考えずに言った。
「お前ら、俺には頼ってくるじゃん」
リヴィなど魚が欲しいだけでも俺を呼ぶ。
シロは撫でてほしい時に寄ってくるし、ライカは雷雨の日には俺のところへ来る。
ミコだって第38話で、「正解を求めるのではなく一緒に考えてほしい」と言った。
それで十分だと思った。
ところが誰も返事をしない。
「どうした?」
最初に口を開いたのはフェニアだった。
「レオンが戻る前は、どうだったのでしょう」
「え?」
「この項目は、レオンへ頼れるかどうかを確認するものではありませんよね?」
言われて、俺は日誌を見直した。
確かにそうだ。
百年前の俺は、最終的に六体が俺の手を離れることを想定している。
ならば「誰かへ助けを求める」の誰かが、俺だけのはずはない。
「百年間、お前らはどうしてた?」
俺が尋ねる。
また沈黙が落ちた。
世界中から頼られる六大神獣。
人間の王が助けを求める。
神殿が祈る。
国家が縋る。
そんな六人が、自分から誰かへ助けを求めたことがあったのか。
「ある」
意外にも、最初に答えたのはシロだった。
「誰に?」
シロがルビィを見る。
ルビィが驚いた顔をした。
「私?」
「うん」
「いつ?」
「レオンがいなくなったあと」
シロは言葉を探すように少し間を置いた。
「眠れなかった時」
俺は何も言えなくなった。
ルビィの表情も変わる。
「あ……」
「覚えてる?」
「覚えてる」
ルビィは小さく頷いた。
「あの頃、シロ、全然寝なかった」
「ルビィも」
「私は寝てたよ」
「寝たふり」
「……知ってたの?」
「うん」
二人の間で、百年前の記憶が静かにつながっていく。
俺がいなくなった直後。
六体だけになった頃。
そこに俺はいなかった。
「フェニアは?」
聞くと、フェニアは少し困ったように笑った。
「私はミコに頼りました」
「何を?」
「レオンが戻らない可能性を、最初に口に出せたのがミコだったのです」
ミコが目を伏せた。
「私は逆に、フェニアへ頼りました」
「ミコが?」
「はい。考えることはできても、それを皆へ伝えることができませんでしたので」
六人の中で一番頭の回るミコが。
答えを求められ続けた九尾が。
百年前には、誰かに言葉を借りた。
「ライカは?」
俺が尋ねると、ライカは少し迷ってからルビィを見た。
「私は……ルビィに頼った」
「私、人気じゃん」
「調子に乗るな」
「何してあげたっけ?」
「覚えていないのか?」
「いっぱいあるから」
ライカは呆れたように息を吐いたあと、少し笑った。
「私が初めて雷雨の夜を一人で過ごさなければならなくなった時、お前が一晩中喋っていただろう」
ルビィの表情が止まる。
「あれ、助けになってたの?」
「うるさくて雷が聞こえなかった」
「それ褒めてる?」
「助かったと言っている」
「じゃあ褒めてる!」
ルビィは嬉しそうだった。
残るリヴィを見る。
『私はみんなー』
「全員?」
『うん』
リヴィが水路の縁へ顎を乗せる。
『海にいると、みんな離れてるからー。たまに誰か来てって呼んだー』
「来たの?」
『来たよー』
「誰が?」
『みんなー』
六人が互いを見る。
俺の知らない百年。
ずっと別々に生きていたわけではなかった。
国を持ち。
神殿を持ち。
世界から神と呼ばれるようになっても。
時々、誰かが誰かのところへ行った。
「じゃあ、とっくにできてたんじゃん」
俺が言う。
六人がこちらを見る。
「最後の項目」
日誌を指で叩いた。
「自分だけじゃ困った時、ちゃんと誰かに助けを求めてたんだろ」
「でも」
ルビィが小さく言う。
「そのあと、だんだん言わなくなったよ」
「どうして?」
「みんな偉くなったから」
短い答えだった。
でも、それだけで分かった。
炎竜皇になった。
白銀神狼になった。
天鳳になった。
海皇になった。
雷帝獅子になった。
冥界九尾になった。
頼られる人間が増えるほど、自分から頼ることは減った。
「じゃあ百年前の方が上手だったな」
「うっ」
ルビィが痛いところを突かれた顔をする。
ライカも否定しない。
ミコだけが苦笑した。
「耳が痛いお言葉です」
「だったら今から戻せばいいだろ」
「戻す?」
「昔みたいに、お前ら同士でも頼ればいいじゃん」
六人が黙る。
「俺に言うのもいい。でも俺がいない時もある。仕事もあるし、ずっと全員の横にいるわけじゃない」
百年前の日誌にも書いてある。
誰かへ助けを求められる。
そこに俺とは書いていない。
「六人いるんだから」
俺は続けた。
「五人も頼れる相手がいるだろ」
ルビィが隣のシロを見る。
シロもルビィを見る。
フェニアとミコは何となく顔を見合わせ、ライカは少し離れた水路のリヴィへ視線を向けた。
百年間。
俺がいない間も、六人は完全に一人だったわけではない。
なら、今さらやり方を忘れる必要はない。
「じゃあ最後も合格」
「いいの?」
ルビィが聞く。
「いいよ」
「全部?」
「全部」
俺は日誌の余白へ手を伸ばした。
「レオン?」
「せっかくだから書いとく」
百年前の俺が残した《成体育成・最終目標》。
その一番下。
百年後の俺が一行だけ付け加える。
《六名とも確認済み。卒業》
そこまで書いて、手が止まった。
何となく、それだけでは足りない気がした。
「……いや」
もう一行。
《ただし、家族であることに卒業はなし》
「何それ!」
ルビィが笑った。
「昨日の手紙に家族みたいなものって書いてただろ」
「『みたいなもの』なくなってる!」
「あ」
言われて気づいた。
確かにそうだ。
消して書き直そうとしたら、シロが俺の手を押さえた。
「駄目」
「何で?」
「そのまま」
「いや、百年前の俺は『家族みたいなもの』って――」
「今のレオンが書いた」
銀色の瞳がまっすぐ俺を見る。
そう言われると直しづらい。
「……まあいいか」
「いい」
シロの尻尾が大きく揺れた。
ルビィはもう一度日誌を覗き込み、嬉しそうに何度もその一文を読んでいる。
フェニアも何も言わず微笑み、ライカは俺が書いた文字をずいぶん真剣に見ていた。
ミコだけは、いつもの笑顔で妙なことを言った。
「ではこちらの一冊は、最高級の保存処置を施して――」
「普通に本棚」
「ですがレオン」
「普通に本棚」
「せめて耐火、耐水、耐魔力、時間停止の四重保護を」
「普通の本棚!」
『水は大事だよー』
「お前は濡らす側だろ!」
結局、卒業確認が終わっても、朝の騒がしさは何も変わらなかった。
世界最強になった六人。
百年前の俺が考えていた条件なら、とっくに育て終わっている。
たぶん俺の飼育員としての仕事は、本当に終わったのだろう。
「レオン、仕事遅れるよ?」
「誰のせいだよ!」
慌てて時計を見る。
もう出ないとまずい。
鞄を掴み、玄関へ向かう俺の後ろから、六人の声が飛んでくる。
「いってらっしゃい!」
「いってらっしゃい」
「お気をつけて」
『魚ー』
「それは帰ってから!」
育てる仕事は終わった。
それでも帰れば、こいつらがいる。
百年前の俺が想像していた卒業後とは、ずいぶん違う。
でも。
たぶん、こっちの方がいい。




