第41話 六大神獣の育児日誌を国宝にする前に、本人たちへ聞いてくれ
百年前の育児日誌が見つかった翌朝、俺は木箱を居間の隅へ移した。
別に隠したわけではない。
ただ、机の上へ置いたままだと、ルビィが通るたびに様子を窺い、フェニアが何気ない顔で布を被せ、ミコに至っては鍵付きの保管棚をどこからか用意し始めたからだ。
「だから勝手に設備を増やすなって」
「ですがレオン、この家には歴史的資料を適切に保管する設備が不足しております」
「普通の家だからな」
「でしたら地下へ専用保管庫を――」
「作らない」
即座に止めると、ミコは残念そうに微笑んだ。
その九本の尻尾の動きを見る限り、すでに設計図くらいは作っていそうだ。
俺は朝食を終えたあと、昨日途中までしか整理できなかった日誌を年代順に並べ直そうとしていた。何十冊もあるので一日で読み終える気はないし、そもそも六人の黒歴史を暴くことが目的でもない。
百年前の育成所で俺が何を記録していたのか。
それを確認したかった。
そんなところへ、玄関の呼び鈴が鳴った。
「俺が出るよ」
立ち上がろうとすると、六人が一斉にこちらを見た。
昨日は何もさせない日だったが、今日はもう終わっている。
「普通に客くらい出るからな?」
「昨日の疲れが残っている可能性があります」
ライカが真面目な顔で言う。
「一日休んで玄関まで歩けなくなるほど弱ってないよ」
「だが念のため――」
「念のためを積み重ねると、俺が何もできなくなるだろ」
俺が先に立ち上がると、さすがに止められなかった。
玄関を開ける。
そこにいたのは、王宮から来たらしい男性だった。
年齢は五十前後。濃紺の礼服を着ており、胸元には王立文書院の紋章がある。昨日の日誌を運んできた人とは別人だ。
男性は俺を見ると深く頭を下げた。
「レオン・ハルト殿。突然の訪問をお許しください。王立文書院副院長、エドガー・ベルムと申します」
「どうも。何か日誌に問題でもありました?」
「問題というより、お願いがございまして」
嫌な予感がした。
こういう丁寧すぎる訪問のあとに、普通のお願いが出てきた経験はあまりない。
居間へ案内すると、エドガーは六大神獣を見た瞬間に硬直した。
無理もない。
炎竜皇が果物を食べ、白銀神狼が日向の絨毯で丸まり、天鳳が茶を淹れ、海皇が水路から顔だけ出し、雷帝獅子が新聞を読み、冥界九尾が俺に却下された保管庫らしき図面を畳んでいる。
外で見る六大神獣とは、だいぶ違う。
エドガーは何とか平静を取り戻し、全員へ一礼した。
「六大神獣の皆様にも、ご挨拶を――」
「普通でいいぞ」
俺が言うと、男性の背筋がさらに伸びた。
「……努力いたします」
努力が必要なのか。
フェニアが茶を出してくれたところで、エドガーは本題へ入った。
「昨日お返しいたしました《神獣幼体育成記録》についてでございます」
ルビィの手が止まった。
シロの耳もぴくりと動く。
露骨だな。
「あの日誌がどうかしました?」
「王立文書院として、内容の複製許可をいただきたいのです」
「複製?」
「はい」
エドガーは持参した書類を机へ置いた。
「百年前の王立神獣育成所に関する一次資料は、ほとんど残っておりません。そのうえ、現存する六大神獣の幼少期を、日々直接観察した記録となれば、歴史的価値は計り知れません」
そこまでは分かる。
俺だって昔の記録が百年後まで残っていたこと自体には驚いている。
だが続く言葉で、六人の空気が変わった。
「将来的には王国指定国宝とし、一部を王立博物館で公開する案も――」
「待った」
俺は思わず止めた。
エドガーが口を閉じる。
「公開って、どこまで?」
「もちろん原本の保護を最優先とし、一般展示には複製を使用する予定です。内容につきましても――」
「そうじゃなくて」
俺は木箱を見る。
「昨日ちょっと読んだけど、あれ、餌とか体調だけじゃないぞ。寝相とか、苦手なものとか、怖がった時の様子とかまで書いてある」
「はい。それゆえに非常に貴重な――」
「本人たちの私生活だろ?」
エドガーが黙った。
俺には、そちらの方が先だった。
百年前は神獣幼体の飼育記録だった。
けれど今、その六体はここにいる。
歴史上の生き物でも、滅びた種でもない。
本人が全員生きている。
「ルビィが俺の枕持って寝てたとか、ライカが雷を怖がって俺の部屋まで来たとか、博物館に飾る必要ある?」
「レオン!」
ライカが新聞を取り落とした。
「あ」
「なぜ今それを外部の者へ伝えた!」
「例として分かりやすかったから」
「他にもあっただろう!」
顔を赤くするライカの横で、エドガーが目を見開いている。
まずい。
歴史資料として新しい情報を追加してしまった気がする。
「今のは記録しないでくださいね」
「も、もちろんです」
言いながら袖の中の手が少し動いた。
「書こうとした?」
「職業上の習慣でございます」
「駄目だからな」
「承知いたしました」
フェニアが咳払いする。
「ちなみに私の入浴に関する部分も公開不要です」
「当然だと思う」
「レオンは昨日かなり楽しそうに読んでおられましたが」
「家族で読むのと博物館に貼るのは違うだろ」
そう答えた瞬間、フェニアが少しだけ目を丸くした。
俺自身は深く考えていなかった。
でも、言われてみれば確かに違う。
家の中で昔の話を笑うことと、国が資料として誰にでも見せることは同じじゃない。
シロが俺の横まで来て、袖を軽く引いた。
「腹の話も駄目」
「うん」
「絶対」
「分かったって」
昨日からそこだけは一貫している。
エドガーは困ったように眉を下げた。
「もちろん、六大神獣の皆様のお気持ちは尊重すべきと考えております。ただ、これほどの歴史資料を完全に非公開とすることにも、後世への責任が――」
「全部隠せとは言ってないよ」
俺は書類を手に取った。
「本人に聞けばいいだろ」
「……本人に?」
「うん」
最近、似た話をしたばかりだ。
神殿が六大神獣へ初めて、「あなたは何を望みますか」と聞いた。
あれと同じだと思う。
「歴史的に大事な部分はあるんだろ? 育成方法とか、当時の魔獣医療とか、育成所でどういう環境を作ってたとか。そういうところは公開していいか本人たちと相談すればいい」
「なるほど……」
「でも、寝相とか好き嫌いとか怖いものとかは、歴史に必要か?」
エドガーは答えなかった。
代わりに、ミコが静かに口を開いた。
「レオン。私は、一部であれば公開しても構いません」
「そうなの?」
「はい」
ミコは木箱へ視線を向ける。
「私たちが最初から今の姿だったわけではないということを知ってもらう意味はあると思います」
九本の尻尾がゆっくり揺れた。
「百年間、人々は完成した姿の私たちしか知りません。失敗し、教えられ、叱られ、怖がり、誰かに頼って育った時期があった。その事実まで隠す必要はないでしょう」
その言葉に、エドガーが深く頷いた。
俺も分かる気がする。
今の六人は、あまりにも大きな存在になった。
生まれた瞬間から完璧だったように語られている部分もあるのかもしれない。
「でも全部は嫌でしょ?」
「当然です」
ミコの笑顔が少し深くなる。
「木の実の貸付記録など、歴史研究上まったく不要かと」
「そこ消したいだけじゃない?」
「不要です」
強い。
ルビィも手を挙げた。
「私も、レオンに育ててもらったことは隠さなくていいよ」
「枕の話は?」
「絶対駄目」
「シロは?」
「腹、駄目」
「そこ以外は?」
しばらく考えたあと、シロは小さく頷いた。
「レオンが書いたことなら、少しならいい」
フェニアも同じように考え込んでから、自分なりの線を引いた。
「当時の飼育方法や、私たちが健康に成長するためレオンが行った工夫については公開して構いません。ただし、入浴から逃げた時間を分単位で記録している箇所は削除してください」
「四十二分」
「レオン」
「ごめん」
ライカは腕を組んだまま、かなり長く黙っていた。
やがて大きく息を吐く。
「私は、雷についても……完全に隠す必要はない」
予想外だった。
「いいの?」
「良くはない」
即答された。
「だが、怖いものがあること自体を恥とする必要はないと、今なら分かる」
以前なら絶対に言わなかっただろう。
百年間、雷帝として弱みを見せられなかったライカが、自分からそう言えるようになった。
「ただし、服を噛んだという記述は消せ」
「そこ重要?」
「最重要だ」
「分かった」
リヴィにも聞く。
「リヴィは?」
『魚くれた記録はいいよー』
「それだけ?」
『魚もらえなかった日は消してー』
「歴史改変するな」
『じゃあ全部いいー』
一番適当だった。
六人の希望を聞いていたエドガーは、いつの間にか持参した書類ではなく、別の白紙へ丁寧に書き留めていた。
「これは……私どもの考え方が古かったようです」
「古い?」
「資料である以上、保存し、研究し、後世へ伝える。そればかり考えておりました」
エドガーは六人を見る。
「ですが今回は、資料に記録された当事者が全員ご健在です。ならば最初に、ご本人方の意思を確認するべきでした」
ミコが柔らかく笑った。
「そのようにしていただけるなら、私たちも協力いたします」
「ありがとうございます」
男は深く頭を下げた。
これで話はまとまったらしい。
俺はほっとして茶を飲もうとした。
だが、エドガーはそこで別の紙を出した。
「それでは、もう一点だけ」
「まだあるんですか?」
「はい。実はこちらの資料群の中に、日誌とは別のものが一つ混ざっておりまして」
そう言って差し出されたのは、古びた封筒だった。
木箱に入っていたものとは違う。
王立文書院で保管されていたらしい。
表面には、見覚えのある字がある。
俺の字だった。
「……俺が書いた?」
「筆跡鑑定では、その可能性が極めて高いと判断されております」
封筒には封蝋が残っている。
そして宛名を読んだ瞬間、俺は動けなくなった。
《六体が十分に成長したあと、担当飼育員へ返却すること》
担当飼育員。
つまり俺だ。
「何だこれ」
記憶にない。
俺が自分宛てに残した手紙?
そんなものを書いた覚えはなかった。
ルビィたちも集まってくる。
「開けないの?」
「いや……開けるけど」
封蝋へ指をかけたところで、エドガーが慌てた。
「お待ちください!」
「え?」
「こちらは百年前の未開封資料でございますので、保存上、専門員立ち会いのもとで――」
「俺の手紙だろ?」
「その通りではございますが、歴史的には非常に重要な――」
「じゃあ俺が開ける」
「レオン殿!」
止められる前に封蝋を割った。
六人が息を呑み、エドガーはこの世の終わりみたいな顔をした。
「百年前も今も、俺が書いた手紙を俺が読むだけだろ」
「正論ですが、保存担当者としては心臓に悪うございます……」
中には、一枚の紙が入っていた。
まだ読む前なのに、妙に胸がざわつく。
百年前の俺が、六体が十分に成長した未来の自分へ向けて残したもの。
俺はゆっくり紙を開いた。
最初の一文を読む。
そして、止まった。
「……何?」
ルビィが俺の顔を覗き込む。
紙には、こう書かれていた。
《六体が成体になった時、もし俺がまだ育成所にいるなら、この記録を読んでほしい》
その次。
《六体を育て終えたら、俺は王立神獣育成所を辞めるつもりだ》
「え?」
ルビィの声が漏れた。
六人の表情が一斉に変わる。
そして俺自身も、百年前の自分が何を考えていたのか、まったく思い出せなかった。




