第40話 百年前の育児日誌、俺より六人のほうが内容を覚えていた
王宮から返還された木箱の中には、《神獣幼体育成記録》と書かれた古い日誌が何十冊も詰まっていた。
最初の一冊を開いただけで、ルビィが俺の枕を持ち去って抱いたまま眠ったこと、シロが腹を撫でられると後脚を勝手に動かしていたこと、フェニアが風呂から逃げて捕まるまで四十二分もかかったことが判明している。
そして今、世界各地で神として崇められている六人は、揃って俺の周囲に集まりながら、これ以上ないほど嫌そうな顔で日誌を見つめていた。
「だからレオン、もう十分じゃない?」
ルビィが慎重に手を伸ばしてくる。
俺は日誌を胸元へ引き寄せた。
「何が十分なんだよ。一冊目の三ページくらいしか読んでないだろ」
「三ページも読んだ!」
「日誌って読むために残すものじゃないの?」
「百年経った日誌には静かに眠る権利があると思う!」
「日誌に権利を作るな」
ルビィの隣では、フェニアが珍しく彼女へ全面的に同意するように何度も頷いていた。普段なら行儀や言葉遣いについて注意する側なのに、今日に限っては共犯者のような顔をしている。
「レオン。保存状態の確認でしたら、外装を見るだけでも十分かと存じます。中身まで精査する必要はありません」
「さっき四十二分逃げたって読まれたからだろ」
「それは百年前の私です」
「今も風呂から逃げるじゃん」
「……そこは別の問題です」
まったく別ではない気がする。
俺がページをめくろうとすると、今度はミコがそっと手を重ねてきた。
「レオン。歴史資料というものは、適切な専門家の手で分類されてから閲覧すべきです」
「専門家って?」
「私が手配いたします」
「その前に都合の悪い冊子だけ消えそうなんだけど」
「まさか」
にこやかに否定しているが、九本の尻尾が落ち着きなく揺れている。
分かりやすすぎる。
ライカは少し離れた場所で腕を組み、俺たちを見ていた。六人の中では比較的冷静に見えたので助け船を期待したが、視線を向けるとわずかに顔を背けられた。
「ライカ」
「何だ」
「お前は読んでもいいよな?」
「資料の価値は認める」
「うん」
「だが、すべての記録が後世へ公開される必要はないとも考える」
「お前も何かあるんだな?」
「……ない」
間が長い。
絶対にある。
池の方からリヴィが顔を出し、気楽そうな声で言った。
『燃やすなら水かけるよー』
「消火する側なのか燃やす側なのか、どっちなんだよ」
『燃えなかったら沈めるー』
「証拠隠滅する気満々じゃん」
最後にシロを見る。
シロは俺の隣へ座ったまま、日誌から目を逸らしていた。
「シロ」
「記録、間違ってる」
「まだ腹撫での話してる?」
「うん」
「分かった。あとで確認するか」
「しなくていい」
即答だった。
銀色の耳がまだ少し赤い。
ここまで全員が嫌がると、逆に読みたくなるのが人間というものだ。
「よし。今日はこれを整理するか」
「レオン!」
六人の抗議が重なった。
◇
とはいえ、さすがに何十冊も全部読むつもりはなかった。
まずは年代順に並べようと居間の大きな机へ日誌を運び、表紙に書かれている日付を確認していく。
俺自身が書いたものなので、当然ながら筆跡には覚えがあった。ただ、不思議な感覚だった。
俺にとっては育成所で働いていた頃から、それほど長い時間が経った感覚はない。
眠って、目を覚ました。
それだけだ。
なのに、紙は茶色く変色し、革の表紙には細かなひびが入り、俺が昨日のことのように覚えている文字が百年前の資料として木箱へ収められている。
「……本当に百年経ったんだな」
何気なく呟くと、それまで日誌の処分方法を相談していたらしい六人が静かになった。
「レオン?」
「いや。紙を見てたら、ちょっと実感しただけ」
俺は一冊を持ち上げた。
端が擦れて丸くなっている。
昔は新品だったはずだ。仕事の記録だから雑に扱わないよう気をつけていた記憶もある。
俺の手から離れたあと、この本だけが百年を過ごした。
「俺だけ時間が止まってたんだよな」
誰かが返事をするまで、少し間があった。
やがてミコが、いつもの柔らかな声で言った。
「はい」
否定も慰めもしない返事だった。
「私たちは百年を過ごしました。ですがレオンにとっては、そうではありませんものね」
「頭では分かってたけどな」
俺は日誌を机へ戻した。
すると、ルビィがさっきまでとは違う慎重さで俺の袖を摘んだ。
「嫌だった?」
「何が?」
「これ、見るの」
黒歴史を読まれることばかり気にしていたルビィが、今度は俺の顔を覗き込んでいる。
「嫌じゃないよ。むしろ懐かしい」
「ならいい」
ほっとした顔をしたあと、ルビィは机に並んだ日誌を見て、少しだけ口元を引きつらせた。
「でも全部読む必要はないと思う」
「そこには戻るんだな」
「それとこれは別!」
どうしても黒歴史は守りたいらしい。
笑いながら、俺は年代の古そうな一冊を開いた。
今度は誰か一人の記録ではなく、六体をまとめて観察し始めた頃の日誌だった。
《本日の給餌。六体とも完食。ただし炎竜幼体が白銀神狼の皿へ顔を入れたため喧嘩。双方怪我なし》
「あったな、これ」
「覚えてない!」
ルビィが早い。
シロは少し考えてから、ぽつりと言った。
「覚えてる」
「シロ!?」
「私の肉、取った」
「百年前だよ!?」
「食べ物の恨みは長いなあ」
ページの余白には、昔の俺が小さく追記していた。
《明日から皿の間隔を広げること》
さらに次。
《天鳳幼体、苦手な薬草だけ器の外へ出して食べる。細かく刻んで好物へ混ぜたところ完食。本人は気づいていない様子》
「レオン」
フェニアの声が一段低くなった。
「はい」
「当時、薬草が入っていないと仰っていませんでしたか?」
「仔に薬飲ませるためならそれくらい言うだろ」
「百年間、信じておりました」
「そこを百年覚えてたの?」
フェニアが静かに目を閉じた。
どうやら今、百年越しに騙されていたことを知ったらしい。
次の記録には、リヴィのことが書かれていた。
《海獣幼体、本日も水槽から出る訓練を拒否。魚を見せたところ三歩だけ進む。四歩目で魚を要求。交渉能力が高い》
『私、賢いー』
「そこ褒めてないと思うぞ」
『魚もらった?』
「たぶん」
『じゃあ成功ー』
百年前から何も変わっていない。
笑いながらページをめくる。
《雷獣幼体、夜間の雷雨で寝床から脱走。飼育員室の扉前で発見》
俺の手が止まった。
ライカも固まった。
「……あ」
「読む必要はない」
「もう読んだ」
「詳細までは必要ない」
そう言われると詳細を見たくなる。
《室内へ入れると平静を装う。雷鳴のたびに飼育員の服を噛んで離さず。本人の名誉のため他担当者には報告せず》
俺は顔を上げた。
ライカが両手で顔を覆っていた。
「俺、ちゃんと黙ってたんだな」
「何故、日誌には書いた……」
「健康状態の変化は記録しないと駄目だから」
「百年後に本人へ読み上げることまで想定していないだろう!」
「それは俺も想定してなかった」
さすがに可哀想になり、そこから先は読まずにページをめくった。
今度はミコだ。
《狐型幼体、本日、餌の木の実を他五体へ貸し出し。返却時に一個追加するよう要求していたため注意》
俺はゆっくりミコを見る。
「……お前、昔からだったんだな」
「何のことでしょう」
「利子取ろうとしてるじゃん」
「一個です」
「数の問題じゃない」
「五体へ貸して一個ですから、むしろ良心的では?」
「仔狐が良心的な利率を主張するな」
ルビィが吹き出した。
フェニアまで口元を押さえている。
ミコは少しだけ不満そうだったが、その九本の尻尾のうち一本がルビィの背中をぺしりと叩いた。
「痛っ。尻尾で攻撃した!」
「偶然です」
「絶対嘘!」
騒がしくなってきた六人を眺めながら、俺はふと思った。
この頃から、みんな今と同じだった。
もちろん身体も力も違う。世界での立場なんて比べものにならない。
それでも、根っこのところは変わっていない。
食べ物に一直線なルビィ。
食べたものを忘れないシロ。
妙なところで真面目なフェニア。
楽をするためなら頭を使うリヴィ。
怖くても平気なふりをするライカ。
仔狐の頃から先のことを考えていたミコ。
「何だよ」
「どうされました?」
「いや」
俺は笑った。
「お前ら、思ったより変わってないなって」
一瞬、六人が黙った。
最初に笑ったのはルビィだった。
「レオンも変わってないよ」
「そう?」
「うん。すぐ日誌つけるし、すぐ心配するし、すぐご飯食べたか聞く」
「仕事だったからな」
「今は仕事じゃないでしょ?」
「……まあな」
そう言われると返す言葉がない。
◇
日誌を何冊か整理しているうち、一冊だけ少し変わったものが見つかった。
他の記録は、餌の量、睡眠時間、体温、魔力反応、運動量などが中心になっている。
ところがその冊子には、そうした数字がほとんどなかった。
「何だこれ」
表紙には俺の字で、
《個体観察・私的補足》
と書いてある。
途端にミコの耳が動いた。
「レオン。それは後日にいたしませんか?」
「何で?」
「疲れていらっしゃるかと」
「さっきまで読むなって言ってた理由と違うじゃん」
「状況は常に変化いたします」
怪しい。
ものすごく怪しい。
開いてみると、最初の数ページには大したことは書かれていなかった。
ルビィは寂しいと食べる量が増える。
シロは言葉で褒めるより撫でた方が機嫌が直る。
フェニアは失敗すると人のいない場所で練習する。
リヴィは面倒くさがるが、本当に嫌なことと単に面倒なことでは尻尾の動きが違う。
ライカは叱られた内容を必要以上に気にするため、注意した後には必ず出来ている部分も伝える。
ミコは周囲をよく見ているが、自分が困っていても先に他の仔を助けようとする。
「……俺、こんな細かいこと書いてたのか」
「書いてたよ」
ルビィが答えた。
さっきまでの日誌とは違い、今度は誰も止めようとしない。
「覚えてるの?」
「全部じゃないけど」
ルビィは少し考えてから続けた。
「レオン、よく私たち見てたから」
「飼育員だから当然だろ」
「それ、昔も言ってた」
フェニアが懐かしそうに微笑んだ。
「他の方から褒められるたびに、レオンは『仕事だから』と仰っていました」
「実際そうだったし」
「ですが、他の飼育員が勤務を終えて帰ったあとも、レオンだけ残っていた日は何度もございました」
「体調悪い仔がいたら帰れないだろ」
「六体全員が健康な日にもです」
「……そんな日あった?」
「ございました」
覚えていない。
俺にとっては当たり前すぎて、記憶に残っていないのかもしれない。
ページをめくっていく。
ある日の最後に、文章が少し長く書かれていた。
仕事用の記録というより、完全に俺自身の独り言だった。
《六体とも少しずつ大きくなっている。嬉しい反面、このままずっとここにいるわけではないことも考えなければならない》
俺はそこで一度、手を止めた。
六人が静かになった。
続きを読む。
《神獣は人より長く生きる。いずれ俺の手を離れ、それぞれ自分の場所へ行くのだろう。その時に人間を怖がらず、自分で食べ、自分で眠り、自分の嫌なことを嫌だと言えて、困った時には誰かを頼れるようになっていてほしい》
今の俺が読んでも、書いた記憶はほとんどない。
それでも、確かに俺の字だった。
さらに下へ続いている。
《俺のことを覚えている必要はない。この仔たちが俺を忘れるくらい遠くへ行っても、そこで幸せなら、それでいい》
「……俺、こんなこと書いてたんだな」
自分で書いた文章なのに、妙に照れくさい。
誰も返事をしなかった。
気になって顔を上げる。
ルビィが泣きそうな顔をしていた。
「え。何で?」
「それ、覚えてる」
「日誌の文章を?」
「違う」
ルビィが首を振る。
「レオン、似たこと言ってた」
今度はシロも頷いた。
「言ってた」
「いつ?」
「昔」
「それは分かるよ」
シロは言葉を探すように少し黙ったあと、俺の袖を掴んだ。
「大きくなったら、好きなところに行っていいって。戻ってこなくてもいいって」
まったく覚えていない。
ただ、当時の自分なら言いそうだった。
育成所は家ではない。
俺も親ではない。
いつか六体が成長すれば、俺の手から離れる。
それが正しいと思っていたのだろう。
「だから」
シロが俺を見る。
「嫌だった」
「何が?」
「忘れていいって言われるの」
銀色の耳が少し伏せられる。
「忘れたくなかった」
その一言に、胸の奥を軽く掴まれたような感覚があった。
百年前の俺は、この仔たちの未来を考えていた。
自分がそこにいなくても幸せなら、それでいい。
本気でそう思っていた。
まさか、その少し先で俺だけが百年間いなくなるなんて考えもしなかった。
「私も覚えてるよ」
ルビィが俺の反対側へ座った。
「大きくなったら自由だって言われて、私、絶対戻ってくるって決めたもん」
「そうだったの?」
「うん。なのに戻ってきたらレオンいなかった」
声は明るくしようとしていた。
けれど、最後だけ少し震えた。
俺は何も言わず、ルビィの頭へ手を置いた。
シロも近かったので、そのままもう片方の手で頭を撫でる。
フェニアは静かに日誌へ視線を落としていた。
「私たちは、それぞれの場所へ行きました」
百年間、世界を生きてきた天鳳が言う。
「国を守り、人々と関わり、レオンの仰った通り自分たちの場所を持ちました。ですが、一つだけ叶わなかったものがございました」
「何?」
「困った時に、頼りたい人がいなかったのです」
俺は言葉を失った。
ライカが静かに続ける。
「私たちが頼られる側になったからな」
雷帝。
炎竜皇。
白銀神狼。
天鳳。
海皇。
冥界九尾。
百年前の小さな六体は、大きくなりすぎた。
世界中から願われる存在になり、困った時に誰かへ頼ることの方が難しくなった。
「だから」
ミコが微笑む。
「レオンが戻ってきた時、少々困りました」
「困った?」
「はい。百年間できなかったことが、急にできるようになりましたので」
九本の尻尾がゆっくり揺れた。
「困れば相談できる。疲れれば休めと言ってもらえる。間違えれば叱られる。正しい答えを知らなくても、一緒に考えていただける」
「それで土地を勝手に買ったの?」
「それは善意です」
「そこは反省しろよ」
ルビィが笑い、フェニアも小さく吹き出した。
重くなりかけた空気が少しだけ戻る。
池からリヴィが水路を伝って近づいてきた。
『レオンー』
「ん?」
『私、ちゃんと自分で食べられるよー』
「知ってる」
『自分で寝られるー』
「それも知ってる」
『困ったら頼れるー』
「誰に?」
リヴィが当然のように答えた。
『レオン』
「そこだけ俺なんだ」
『うん』
百年前の俺が願ったことは、だいたい叶ったらしい。
六人とも自分で生きられるようになった。
人間を怖がらないどころか、人間の国を守り、導き、百年も生きてきた。
自分の意思も持っている。
嫌なことを嫌だと言うのも、むしろ最近は遠慮がないくらいだ。
そして困った時には――。
「じゃあ、最後だけちょっと修正だな」
「修正?」
ルビィが首を傾げる。
俺は日誌を指で叩いた。
「『俺のことを覚えている必要はない』ってところ」
今の俺には、それを言う気はなかった。
「忘れなくていいよ」
六人の表情が止まった。
「俺も、もう忘れろとは言わない。せっかくまた会えたんだから」
自分で言っておいて、少し恥ずかしくなる。
だから軽く笑って続けた。
「まあ、百年前の恥ずかしい話まで全部覚えてなくていいけどな」
「それはレオンが日誌に残してるんでしょ!」
「確かに」
ルビィの抗議に笑う。
シロは俺の袖を掴んだまま離さず、フェニアは目元を少し押さえていた。
ライカは顔を背けていたが、その口元はわずかに緩んでいる。
ミコの九本の尻尾は、隠す気もなく大きく広がっていた。
リヴィは水路の中から手を伸ばしている。
仕方なく、その手も握った。
百年前。
俺はこいつらが俺なしでも生きられるように育てようとしていた。
たぶん、それで正しかった。
でも百年後。
自分で生きられるようになった六人が、それでも俺のところへ帰ってきた。
なら。
今度は追い出す理由なんてない。
◇
「さて」
しばらくして、俺は次の日誌へ手を伸ばした。
途端に六人が反応した。
「まだ読むの!?」
「いい話で終わったじゃん!」
「今の流れでしたら、本日はここまでにするのが美しいかと存じます!」
「感動で資料閲覧を終わらせようとするな」
俺は二冊目を開く。
最初のページ。
《六体合同・就寝訓練》
その下。
《深夜、全員が飼育員用寝台へ侵入》
「…………」
六人が固まった。
さらに読む。
《重量超過により寝台破損》
「お前ら」
俺は顔を上げた。
「百年前にも俺のベッド壊してたの?」
「レオン」
ルビィが真剣な顔をした。
「昔のことは水に流そう」
『水なら任せてー』
「日誌ごと流そうとするな!」
百年前の育児日誌。
どうやら感動だけでは終わらせてくれないらしい。
そして木箱の中には、まだ何十冊も残っていた。




