第36話 隣国の王女、白銀神狼を「大きいわんちゃん」と呼んだ
国外から問い合わせが来た、とマーサさんに聞かされた翌朝。
俺は朝食を食べながら、六人へはっきり宣言した。
「先に言っておくけど、二百人は絶対に受け入れないからな」
食卓には、昨日より少し形の良くなった卵焼きとスープが並んでいる。料理当番を始めてから数日しか経っていないのに、意外と全員成長していた。
もっとも、ルビィが切った人参だけは相変わらず大きさが不揃いだし、ミコがこっそり最高級食材へ替えようとして俺に止められたばかりだ。
「でも、隣の国から来たいって言ってるんでしょ?」
ルビィは自分で切った人参を嬉しそうに食べながら、不思議そうに首を傾げた。
「来たい気持ちはありがたいよ。ただ、町の子供向けの触れ合い教室に国外から二百人入れたら、もう何の催しか分からなくなるだろ」
「昨日の王都と同じように、代表だけにすればいい」
シロがパンをちぎりながら言う。
「俺もそのつもり。十人前後なら店長とも相談できるし、それ以上になるなら別の方法を考える」
フェニアはスープの味を確かめてから、小さく頷いた。
「各地で同様の教育が行われること自体は、よいことだと思います。魔獣を必要以上に恐れたり、逆に知識なく近づいたりする者は少なくありませんから」
「そこなんだよな」
俺がやりたいのも、六大神獣を見世物にすることではない。
魔獣にも痛みがあり、怖がることがあり、機嫌もある。そこを知らずに近づけば、人も魔獣も怪我をする。
そういう基本だけ広がるなら悪くない。
するとミコが、待っていましたとばかりに一冊の分厚い冊子を食卓へ置いた。
「その点でしたら、すでに案をまとめております」
「いつ作ったの?」
「昨夜です」
「嫌な予感しかしないんだけど」
表紙を見る。
《世界標準・神獣及び魔獣接遇教育課程 第一版》
「重い!」
「内容は基礎的なものだけですが」
「題名が国家制度なんだよ!」
「では《魔獣と仲良くなる本》では?」
「急に子供向けになったな」
「レオンはこちらを好まれると思いまして」
「そっちの方が百倍いい」
冊子を開くと、意外にも内容そのものはまともだった。
走って近づかない。
食べ物を勝手に与えない。
耳や尻尾など、嫌がりやすい場所を無理に触らない。
体調の悪い魔獣を見つけたら、大人や専門家へ知らせる。
ほとんどは俺が触れ合い教室で話した内容だ。
「これ、いいじゃん」
「ありがとうございます」
ミコの尻尾が少しだけ広がった。
「ただ、この最後の項目は何?」
《大型魔獣施設建設時における土地取得及び資金調達》
「削除いたします」
「判断早くなったな」
少しずつだが、本当に学習している。
◇
朝食を終えて仕事へ向かう準備をしていると、玄関の外から馬車の音が聞こえてきた。
最近はこの家を目指してやってくる人間が増えたせいで、音を聞いただけでは驚かなくなっている。
ただし。
「……でかくない?」
窓から外を見た俺は、思わず呟いた。
家の前に停まったのは、近所ではまず見かけない立派な白い馬車だった。側面には見覚えのない紋章が描かれ、その前後を数人の騎士が護衛している。
ライカが紋章を見て、すぐ正体を教えてくれた。
「西方のエルグラント王国だ。昨日、問い合わせがあった王立学院のある国だな」
「もう来たの!?」
「問い合わせの使者ではないのか?」
「だったらいいけど……」
最近、俺の周りでは「だったらいいけど」が大体よくない結果になる。
玄関を開けると、馬車からまず一人の男性が降りてきた。四十歳くらいの落ち着いた人物で、胸元には王立学院の徽章らしきものが付いている。
その後ろから。
小さな女の子が降りた。
十歳になるかどうかくらいだろう。淡い金髪を綺麗に結い、見るからに高そうな服を着ている。
さらに侍女と護衛騎士が続く。
「レオン・ハルト殿でいらっしゃいますか」
「はい。そうですけど」
男性は深く一礼した。
「エルグラント王立学院副院長、アルベルトと申します。昨日お送りした参加希望の件について、直接ご相談させていただきたく参りました」
「わざわざ国外から?」
「それだけ重要な案件と考えております」
「触れ合い教室なんですけどね……」
相変わらず規模の感覚が違う。
そして。
隣に立つ女の子。
「こちらの子は?」
俺が尋ねると、副院長の表情が急に硬くなった。
「我が国第三王女、シャルロット殿下にございます」
「王女様!?」
「はい。殿下ご自身が、ぜひ代表児童として――」
「わんちゃん!」
「殿下!?」
説明の途中。
シャルロット王女が俺の横を見て、目を輝かせた。
そこには。
いつの間にか玄関から出てきたシロがいた。
人の姿だ。
ただし。
銀色の狼耳と尻尾は出ている。
「大きいわんちゃんのお姉ちゃん!」
「…………」
副院長。
護衛。
侍女。
全員。
固まった。
「殿下、それは白銀神狼シロ様で――」
「触っていい?」
シャルロット王女は説明をほとんど聞いていない。
まっすぐシロを見上げている。
シロも少し驚いた顔をしていた。
「シロ、嫌なら断っていいぞ」
「大丈夫」
シロがしゃがみ、王女と同じくらいの目線になる。
「耳は強く引っ張らないならいい」
「分かった!」
王女が両手を伸ばす。
そっと。
狼耳を撫でた。
「ふわふわ……!」
「うん」
「尻尾も?」
「優しくなら」
また。
そっと。
「すごい! お城のわんちゃんよりふわふわ!」
「犬じゃない」
「狼?」
「神狼」
「すごい狼!」
「……うん」
シロの尻尾。
ぶん。
副院長たちの顔色。
真っ青。
「レ、レオン殿……」
「何です?」
「止めなくてよろしいのですか?」
「シロがいいって言ってますし、王女様も優しく触ってるから大丈夫ですよ」
「そういう問題なのでしょうか……」
「触れ合い教室ではそういう問題です」
王女だから特別扱いするつもりはない。
乱暴に触れば止めるし、シロが嫌がれば離れてもらう。
それだけだ。
◇
問題は。
一人出てくれば。
残りも出てくることだった。
「何してるの?」
ルビィが玄関から顔を出す。
「あ!」
シャルロット王女の目がさらに輝いた。
「赤いお姉ちゃん!」
「私?」
「竜の人?」
「そうだよ!」
嬉しそうに答えるな。
王女はシロから離れると、今度はルビィの前へ走ろうとした。
「走らない」
俺が声をかけると、ぴたりと止まる。
「あ……」
「近くに知らない魔獣や神獣がいる時は、急に走ったら驚かせるかもしれないだろ?」
「はい」
「ゆっくりな」
王女は素直に歩き直した。
後ろ。
副院長と護衛騎士たちが、また固まっている。
「レオン殿」
「今度は何です?」
「殿下へ、そのように……」
「悪いこと言いました?」
「い、いえ」
王女本人は気にしていない。
むしろルビィの前でちゃんと足を止め、昨日俺が教えたように手を差し出している。
「触ってもいいですか?」
「もちろん!」
ルビィがしゃがむ。
王女が赤い髪を少し撫でた。
「竜なのに、今は角ないの?」
「出せるよ!」
「ルビィ」
俺が呼ぶ。
「大きい角出すなよ」
「小さいのにする!」
頭の横に、赤い角が二本現れる。
「わあ!」
王女は大喜びだった。
その声を聞いて。
フェニア。
ライカ。
ミコ。
さらに水球のリヴィまで。
全員出てきた。
「……お前ら仕事行く前に集まりすぎ」
家の前。
六大神獣。
勢揃い。
副院長はとうとう言葉を失っていた。
◇
「黄金の鳥のお姉ちゃんは?」
「天鳳フェニアと申します」
「翼見たいです!」
「構いませんよ」
フェニアが翼を広げると、王女は感動したように見上げた。
「綺麗……!」
「ありがとうございます」
「お風呂嫌いなの?」
「…………」
俺は顔を逸らした。
誰だ。
国外まで広めた奴。
「フェニア」
「分かっております」
フェニアは一度だけ深く息を吸った。
「少し苦手ではございますが、毎日きちんと入っております」
「えらい!」
「…………ありがとうございます」
子供に褒められた天鳳が、なんとも複雑そうな顔をしている。
次。
ライカ。
「雷の獅子のお姉ちゃん!」
「ライカだ」
「お手して!」
「…………」
早速来た。
ライカの表情が固まる。
俺は横から何も言わずに見守った。
予行練習では「私は犬ではない」と堅苦しく断ろうとしていたが、今回はどうするのか。
ライカはしばらく王女の顔を見たあと、少しだけ表情を柔らかくした。
「すまない。それはできない。私は獅子だからな」
「じゃあ握手!」
「それなら構わない」
差し出された小さな手を。
ライカがそっと握る。
「わあ!」
「力は強くしすぎていないか?」
「大丈夫!」
「そうか」
ほんの少し。
ライカが笑った。
「上手くなったじゃん」
「予行練習の成果だ」
本人も少し誇らしそうだ。
ミコのところへ王女が行くと。
「尻尾九本ある?」
「ございますよ」
「全部触っていい?」
「優しくしていただけるのでしたら」
九本。
ふわり。
広がる。
「すごーい!」
王女が尻尾へ埋まりそうになった。
「ミコ」
「はい?」
「何か欲しいって言われても買うなよ」
「その程度は学習しております」
本当だろうか。
「お姉ちゃん、お城に来てくれる?」
王女が尋ねた。
ミコの目が一瞬光る。
「王城でしたら、近隣の土地を含めて――」
「ミコ」
「……訪問のみ検討いたします」
「危なかったな」
「条件反射です」
「直そうな」
最後はリヴィ。
小さな水球に入った青髪の少女を見た王女は、今までで一番不思議そうな顔をした。
「ずっと水の中?」
『うん』
「陸に出ないの?」
『面倒』
「歩くの嫌い?」
『大嫌いー』
「私も勉強嫌い!」
『仲間ー』
「変なところで意気投合するな!」
二人で手を合わせている。
リヴィ。
お前は教育上もう少し頑張れ。
◇
しばらくして。
シャルロット王女は、世界樹の根元に座っていた。
周囲には小型魔獣。
その隣にはシロ。
ルビィもいる。
遠くではリヴィの池を魚型魔獣が泳いでいる。
王女はすっかり楽しそうだった。
その様子を見ながら、副院長がぽつりと口を開く。
「想像していたものと、随分違いました」
「何がです?」
「六大神獣様方との触れ合いです。我が国では、神獣に近づく際の礼法だけでも数十項目ございます」
「そんなに?」
「視線の高さ、姿勢、祈りの言葉、献上物の順番……。王族であっても、決して無作法がないよう幼少期から教育されます」
「大変ですね」
「ところが殿下は」
副院長がシロを見る。
シロ。
王女に。
顎の下を撫でられている。
目。
細い。
かなり気持ちよさそう。
「……白銀神狼様へ『大きいわんちゃん』と申し上げました」
「犬じゃないとは訂正されてましたけどね」
「それだけです」
「それ以上必要です?」
副院長が黙った。
俺は世界樹の下を見る。
「相手が嫌がってなければ、名前を間違えたくらいなら教えてやればいいでしょう。逆に、どれだけ立派な礼を知ってても、嫌がってるのに触ったら駄目だし」
「…………」
「神獣だからって、そこは同じですよ」
シロの耳が。
こちらへ向いた。
聞こえているらしい。
「レオン」
「何?」
「合ってる」
「だろ?」
「うん」
それからシロは。
王女の方へ。
少し頭を寄せた。
「ここも」
「撫でていいの!?」
「うん」
完全に味を占めていた。
「シロ、お前はもう少し神獣として威厳持ってもいいと思う」
「今いらない」
「そうですか」
副院長が。
とうとう笑った。
「なるほど。王都教育院が三百人を希望し、十人まで減らされた理由も理解いたしました」
「二百人も同じですよ」
「はい」
「受け入れられるのは多くても十人前後。それ以上なら、今日みたいに接することはできません」
「承知しました」
意外なほどあっさりだった。
「いいんです?」
「むしろ、この光景を見て納得いたしました。遠くから六大神獣様を拝観することが目的なら、二百人でも二千人でも同じでしょう。しかし、これはそういう催しではない」
「そうです」
「学院からは代表児童八名と教員二名。殿下を含め、十名でお願いしたく存じます」
「それなら店長へ相談します」
話。
まとまった。
外国相手なのに。
思ったより普通だった。
◇
「レオン先生!」
帰り際。
馬車へ乗ろうとしていたシャルロット王女が、俺へ振り返った。
「先生じゃないんだけどな」
「触れ合い教室で先生するんでしょ?」
「その時だけな」
「じゃあ先生!」
「……まあいいか」
王女は笑う。
「次に来るまでに、ちゃんと勉強してきます!」
「偉いな」
「触る前に聞く。嫌がったらやめる。勝手に食べ物あげない。走って近づかない!」
「完璧じゃん」
「あと」
王女がシロを見る。
「神狼は犬じゃない!」
「大事」
シロが満足そうに頷く。
「でも」
王女は少し考えて。
「シロちゃんって呼んでいい?」
「いい」
「やった!」
副院長たちの顔がまた引きつった。
たぶん。
隣国へ帰ったあと。
今日の報告をどう書けばいいか悩むのだろう。
「またね、シロちゃん!」
「またね」
「ルビィちゃんも!」
「待ってる!」
「フェニアちゃん、お風呂頑張って!」
「……はい」
「ライカちゃん、また握手!」
「ああ」
「ミコちゃん、何も買わなくていいからね!」
「善処いたします」
「そこは『はい』!」
俺と王女の声が重なった。
ミコ。
少し驚く。
そのあと。
笑った。
「はい」
『私にはー?』
リヴィが水球から身を乗り出す。
「お魚持ってくる!」
『やったー!』
「だから勝手に食べ物あげないって今言ったよな!?」
「あっ!」
『確認してからもらうー』
「そこは覚えてたか」
馬車が動き始める。
王女は窓からいつまでも手を振っていた。
六人も。
普通に。
手を振り返している。
世界中で神として崇められる存在と。
一人の子供。
それなのに。
今日ここで交わされたのは。
祈りでも。
神託でもない。
ただの。
「またね」
だった。
◇
その日の夜。
エルグラント王国へ向けて。
王立学院副院長アルベルトから、一通の報告書が送られた。
《六大神獣との接触教育について》
《最重要事項――礼法よりも相手の反応を見ること》
《神獣側にも拒否する権利がある》
《供物は不要》
《跪礼不要》
《大声禁止》
《無断接触禁止》
そこまでは。
完璧だった。
しかし。
最後。
《白銀神狼シロ様について》
《王女殿下による呼称「シロちゃん」を許可された》
《顎下を撫でると非常に喜ばれる》
数日後。
隣国の神殿で。
この報告書を読んだ大神官が。
「顎下……?」
と。
三十分ほど。
固まることになるとは。
この時の俺たちは。
まだ知らなかった。




