第37話 隣国の大神官、神狼の顎を撫でる許可を求めてきた
数日後の朝。
俺は庭で魔獣たちの餌を確認していた。
世界樹の根元では小型魔獣たちがいつものように丸くなり、少し離れた場所ではライカに妙な規律を教え込まれた大型魔獣たちが、未だに俺を見ると背筋を伸ばす。
「だから敬礼みたいなのしなくていいって」
「ぶもっ」
一頭の猪型魔獣が、むしろ昨日より綺麗な姿勢で頭を下げた。
「……ライカ」
「私は最近教えていない」
後ろで庭掃除をしていたライカが、少しだけ気まずそうに視線を逸らす。
「最近ってことは、前には教えたんだよな」
「一度身についた規律が継続されているだけだ」
「誇らしそうに言うなよ」
そんなやり取りをしていると、家の前から馬車の音が聞こえてきた。
最近は王都や近隣国から使者が来ることも増えたため、以前ほど驚かなくなっている。ただ、今日の馬車はやけに装飾が多かった。
白を基調にした車体。
金色の縁取り。
そして、扉には大きな狼を模した紋章が刻まれている。
「シロ関係?」
俺が振り返ると、縁側で昼寝をしていたシロが片目だけ開けた。
「知らない」
「お前の神殿とかじゃないの?」
「北じゃない」
それだけ言うと、また目を閉じようとする。
「いや、起きろよ。明らかにお前目当てだろ」
「眠い」
「来客対応くらいして」
仕方なくシロを起こしている間に、馬車から数人の神官が降りてきた。
全員が立派な法衣をまとい、最後に現れた老人だけは明らかに格が違う。真っ白な髪と長い髭、胸元には大きな銀狼の聖印。
隣国の宗教関係者。
そこまでは分かった。
問題は。
その老人が俺たちを見るなり。
地面へ膝をついたことだった。
「お目にかかれて、恐悦至極に存じます」
「立ってください」
俺は即答した。
老人の後ろにいた神官たちまで一斉に跪こうとしている。
「みんな立って! うちの前でそれやらないでください!」
「しかし、白銀神狼様の御前において――」
「本人、あそこで寝起きですから!」
指差す。
シロ。
髪は少し乱れている。
銀色の耳は眠そうに下がり。
俺の袖を掴んだまま。
「レオン。朝ご飯まだ?」
「もう食べただろ」
「二回目」
「まだ早い」
大神官らしき老人の表情が止まった。
後ろの神官たちも。
誰も動かない。
「……白銀神狼様が」
「はい」
「二度目の朝餉を?」
「たまに欲しがります」
「レオンが作るパン」
シロが付け足す。
「それは後でな」
「……分かった」
素直に引き下がる。
老人はしばらくその光景を見たあと、震える手で胸元の聖印を握った。
「記録は……真実であったのか……」
「何の記録です?」
俺が聞くと、老人は慌てて立ち上がった。
「申し遅れました。私はエルグラント王国白狼大聖堂を預かる大神官、グレゴールと申します」
「ああ、この前シャルロット王女が来た国の」
「はい。その折、副院長アルベルトより提出された報告書を拝読いたしまして」
嫌な予感。
「どの部分です?」
「白銀神狼様の顎下を撫でると、非常にお喜びになると」
「そこか!」
やっぱり。
報告書に書く必要のなかった部分だ。
俺が頭を抱える横で、シロだけは特に気にしていない。
「それでわざわざ国外から?」
「無論、それだけではございません」
大神官は真剣な顔で否定した。
「神獣と人との新たな関係について、この目で確かめたいと考えたのです。我が国では、白銀神狼様は古来より北方守護の象徴として崇拝されております。大聖堂では五百年以上にわたり、接触時の礼法が継承されてきました」
「五百年」
「はい。百二十七項目ございます」
「多い!」
シロの耳が少し動いた。
「そんなにあるの?」
「ご存じなかったのですか?」
「知らない」
「左様で……」
大神官が少しふらついた。
「本人が知らない礼法を五百年守ってたんですか?」
「伝統とは、そのような面もございます」
「深いこと言って誤魔化しましたね?」
老人は咳払いをした。
◇
せっかく遠くから来たので、話くらいは聞こうということになった。
居間へ通すと、ちょうどルビィたちも集まってきた。
六大神獣全員が普通に食卓を囲む光景を目にした瞬間、大神官だけでなく同行した神官たちまで、また固まった。
「お茶でいいですか?」
「わ、私どもへお茶を?」
「客ですから」
俺が人数分のカップを用意しようとすると、フェニアが横から手伝ってくれた。
最近は家事当番を続けているおかげで、こういう動作も以前より自然になっている。
「こちらを使えばよろしいですか?」
「うん。熱すぎないようにな」
「承知しました」
大神官が。
目を見開く。
「天鳳様が……給仕を……」
「最近練習中なんです」
「神聖なる天鳳様が……」
「昨日は皿二枚落としたけどな」
「レオン!」
「事実だろ」
「一枚はルビィがぶつかったせいです!」
「私!?」
すぐ横で言い争いが始まる。
大神官たちは完全に置いていかれている。
「すみません。いつもこんな感じなので」
「いえ……むしろ」
老人は、信じられないものを見るように六人を眺めた。
「これほど穏やかな御姿を拝見したことがございません」
その言葉で。
六人の声が少しだけ静かになった。
俺は意味が分からず尋ねる。
「普段は違うんです?」
「我々が大聖堂にて奉じる白銀神狼様のお姿は、北方の吹雪を鎮め、魔獣群を一声で退かせ、幾万の兵を前にしても微動だにしない守護神です」
「シロ」
「うん」
「そんなことしてたんだ」
「仕事だから」
「今パン二回目ねだってたけど」
「それは別」
大神官の肩が小さく震えた。
笑いを堪えているのか、信仰心が揺れているのか判断しづらい。
「それで」
俺は本題へ戻す。
「今日は何を確かめに?」
「報告書には、レオン殿が《礼法よりも相手の反応を見ること》を重視されているとございました」
「まあ、そうですね」
「我々は長らく、無礼がないことこそ神獣への敬意だと教えてきました。しかし副院長の報告では、幼い王女殿下が形式的な礼をほとんど用いず、それでも白銀神狼様ご自身が接触を許されたと」
「ちゃんと触っていいか聞いてましたからね」
俺がそう答えると、大神官は深く頷いた。
「その違いを知りたいのです」
思ったより真面目な話だった。
俺は少し考えたあと、シロを見る。
「シロ自身はどう思う?」
「何が?」
「跪いたり、決まった言葉を言ったりするのと、触っていいか聞くの。どっちが楽?」
シロは迷わなかった。
「後者」
「即答だな」
「跪かれると遠い」
その一言。
大神官の表情が変わった。
「遠い……?」
「うん。話しかけにくい」
シロは椅子の背にもたれながら、静かに続ける。
「お願いされる時だけ、みんな近くに来る。でも最初から頭下げてる。目を見ない。触らない。名前もあまり呼ばない」
「…………」
「シャルロットは名前呼んだ。触っていいか聞いた。撫でた」
銀色の尻尾が。
少し揺れる。
「楽しかった」
居間。
静かになった。
大神官は。
すぐには返事をしなかった。
「……我々は」
やがて。
ゆっくり。
老人が口を開く。
「敬意を示すことに必死になるあまり、白銀神狼様ご本人を見ていなかったのでしょうか」
「そこまで悪く考えなくていいと思いますよ」
俺はお茶を一口飲んだ。
「大事にしたかったから礼法ができたんでしょうし。それ自体は悪いことじゃないです。ただ、相手が嫌がってるか喜んでるかまで無視したら、順番が逆になるだけで」
「順番……」
「まず相手を見る。そのあと礼儀。俺はそれでいいと思ってます」
百年前。
仔だったこいつら相手に。
礼法なんて考えたことはなかった。
腹が減っていれば飯。
眠ければ寝床。
怖がれば距離を取る。
汚れたら風呂。
嫌がったら。
何故嫌なのかを見る。
ただ。
それだけだ。
◇
しばらく話したあと。
大神官は。
何故か妙に緊張し始めた。
「レオン殿」
「はい?」
「一つ」
声が震えている。
「お願いがございます」
「何でしょう」
老人は。
シロを見た。
そして。
深呼吸。
「白銀神狼様の」
「はい」
「顎下を」
「はい」
「私も……撫でさせていただくことは、可能でしょうか」
「本人に聞いてください」
「わ、私が直接?」
「そのためにここまで話したんでしょう?」
「……確かに」
大神官は。
おそるおそる。
シロを見る。
「白銀神狼様」
「シロでいい」
「…………」
老人の顔が固まる。
「呼んでほしいんだよ」
俺が助け舟を出すと、大神官は何度か口を開閉した。
「し……」
「頑張れ」
「シロ……様」
「様いらない」
「難易度が高い……!」
額に汗まで浮かんでいる。
ルビィが面白そうに眺めている。
「レオンより緊張してるね」
「俺なんて最初からシロだったしな」
「百年前だからでしょう!」
大神官が思わず俺へ突っ込んだ。
少しだけ場が和む。
老人は改めてシロを見る。
「……シロ」
「うん」
「顎の下を、撫でてもよろしいでしょうか」
「いいよ」
あっさり。
許可。
大神官の目が。
少し潤んだ。
「では……失礼いたします」
「そんな儀式みたいにしなくていいですよ」
「私にとっては人生最大級の出来事なのです!」
「そうですか……」
老人の手が。
ゆっくり。
シロの顎下へ。
触れる。
軽く。
撫でる。
「…………」
シロ。
目。
細くなる。
「そこ」
「ここでございますか?」
「もう少し右」
「こ、こちら?」
「うん」
さらに。
撫でる。
シロの尻尾。
ぶん。
ぶん。
「…………」
大神官。
泣いた。
「何で!?」
「感無量にございます……!」
「大げさだろ!」
「レオン殿には分からぬのです! 幼少期より祈りを捧げてきた御方が、今、私に顎下の位置を指定してくださっているのですよ!」
「文字にすると確かにすごいけど!」
シロ本人は。
完全に気持ちよさそうだった。
「もうちょっと」
「もちろんでございます!」
「シロ、お前も遠慮なく要求するようになったな」
「百年分」
「ここでも使うのかよ」
周囲の神官たち。
全員。
羨ましそう。
「……順番な」
俺が言う。
「よろしいのですか!?」
「シロが嫌じゃなければ」
「いい」
その瞬間。
神官たちの顔が輝いた。
「ただし、一人長くても一分」
シロの耳が下がる。
「短い」
「全員やったら長いんだよ」
「……分かった」
世界有数の大神官たちによる。
白銀神狼顎下撫で会。
開催決定。
「何なんだこれ……」
◇
結局。
一人一分のはずが。
シロが気持ちよさそうだからという理由で少しずつ延長され。
気づけば三十分ほど経っていた。
「シロ」
「何?」
「満足?」
「うん」
完全に満足した顔。
大神官たちも。
全員。
妙に晴れやかな顔だった。
「本日は、誠にありがとうございました」
帰り際。
大神官グレゴールが深く頭を下げる。
「大聖堂へ戻りましたら、礼法の見直しを検討いたします」
「全部なくさなくてもいいと思いますよ」
「もちろんです。大切な伝統は残します。ただし」
老人はシロを見る。
「白銀神狼様が何を望まれているか、ご本人へ尋ねる項目を加えようと思います」
「それならいいんじゃないですか」
「そして」
「まだあるんです?」
「顎下の撫で方について」
「それは礼法に入れなくていい!」
「しかし非常に重要な――」
「個体差あるから!」
シロには効く。
他の神狼にも効くとは限らない。
大神官は少し残念そうだった。
何故そこを正式化したがる。
◇
馬車が去ったあと。
「楽しそうだったね」
ルビィがシロを見る。
「うん」
「私も何かないかな」
「何が?」
「神殿の人が来たら喜ぶやつ」
「お前、神殿の人に何してほしいの?」
ルビィは少し考えた。
「果物くれる?」
「供物禁止って言っただろ」
「じゃあ頭撫でる」
「竜皇の威厳どこいった」
「家に置いてきた!」
「ここ家だよ!」
フェニアは呆れたように笑っている。
「まったく。少しは神獣としての威厳を――」
「フェニアは?」
「何がです?」
「神官が来たら何してほしい?」
「…………」
「ないの?」
「羽根の手入れを丁寧にしていただけるなら」
「お前もあるじゃん」
「それとこれとは別です!」
ライカ。
「私は不要だ」
「本当に?」
「無論だ。民にそのようなことを求めるつもりは――」
「肩揉み」
「…………」
「昨日、肩凝るって言ってたよな」
「それは……」
「欲しい?」
「……少し」
「お前ら全員普通だな」
俺が笑うと。
六人も。
少し遅れて。
笑った。
◇
ところが。
三日後。
エルグラント王国の白狼大聖堂。
長年掲げられてきた。
《白銀神狼様に拝謁する際の百二十七礼法》
その一番上へ。
新しい一文が加わったらしい。
《第一項》
《まず、ご本人へ希望を尋ねること》
そこまではよかった。
問題は。
その下。
《参考》
《顎下を撫でる場合、やや右側を好まれる傾向あり》
「何で残したんだよ!!」
報告書の写しを読んだ俺の声が。
朝の居間に響く。
シロは隣で。
満足そうに。
「合ってる」
とだけ言った。
どうやら。
俺たちが触れ合い教室で教えたかったことは。
少しずつ。
世界へ広がっている。
ただし。
広がり方まで。
普通になるとは。
限らないらしかった。




