第32話 六大神獣、来るなと言われたので遠くから見守る
翌日の午後。
《もふもふ魔獣店ポッケ》の裏庭には、近所の子供たちが二十人ほど集まっていた。
普段は預かっている魔獣を遊ばせるための広場だが、今日は柵の内側に長椅子が並べられ、その向こうには大人しい小型魔獣たちが待機している。
森耳兎。
綿毛犬。
葉耳鹿の仔。
それから、背中に小さな羽を持つ猫型魔獣。
どれも人に慣れた種類だ。
「今日は魔獣に触る時の基本を教えるから、最初に一つだけ覚えてほしい。可愛いからって、いきなり抱きついたら駄目だぞ」
「どうしてー?」
最前列の男の子が元気よく手を挙げた。
「お前だって知らない人が突然走ってきて抱きついたら驚くだろ? 魔獣も同じだ。まず自分がいることを分かってもらって、向こうが嫌がってないか見る。そのあとで、ゆっくり手を出すんだ」
しゃがんで森耳兎へ手の甲を向ける。
兎は鼻を動かしながら匂いを確かめ、それから自分から俺の指へ頬を擦りつけてきた。
「こうなったら触っても大丈夫。頭の上から急に手を出すより、最初は横からの方が怖がらせにくいぞ」
「わあ!」
「私もやりたい!」
「順番な。走らない、大声を出さない、それさえ守ればみんな触れるから」
子供たちが一斉に返事をする。
いい。
実に平和だ。
何より今日は――。
「…………」
俺は一度、周囲を見回した。
赤い髪。
なし。
銀色の耳。
なし。
黄金の羽根。
なし。
雷も狐の尻尾も水球もない。
「本当に来てない」
「何だい、その残念そうな声は」
隣にいた店主が笑う。
「残念じゃありませんよ。感動してるんです。あいつらがちゃんと約束を守ったことに」
「そこまで信用がないのかい?」
「これまでの実績を見れば店長だって分かるでしょう?」
「まあねえ」
店主は否定しなかった。
今日は普通に終われる。
そう確信しながら、俺は二十人の子供たちを魔獣のところへ案内した。
◇
その頃。
レオンの家。
「見える?」
「もう少し右」
「こう?」
「行きすぎ」
世界樹の枝の上で、ルビィが巨大な望遠鏡の向きを微調整していた。
その下にはシロが座り込み、望遠鏡の先をじっと見上げている。フェニアは庭の机に町の地図を広げ、ライカは腕を組んだまま、何度目か分からないため息をついた。
「私たちは何をしているのだ」
「レオンの仕事見てる」
「それは分かっている。私が問いたいのは、何故ここまで大掛かりなことになっているのかという点だ」
ライカが見上げた望遠鏡は、人間一人より大きかった。
ミコが今朝用意したものである。
「レオンからは『店へ来るな』と言われました。しかし、自宅から観察してはならないとは言われておりません」
ミコは涼しい顔でお茶を飲んでいる。
「屁理屈ではないか?」
「規則の範囲内です」
「それ、昨日リヴィに池を作らせた理屈と同じだよね」
ルビィが言うと、ミコは笑顔だけを返した。
水路ではリヴィが水面に頬を浮かべている。
『私は音も聞きたいー』
「駄目です。水路を店まで伸ばせば、確実にレオンに叱られますよ」
『伸ばさないよ。ちょっと近くまで』
「同じです」
『ミコが言う?』
「私が言うからこそ説得力がございます」
『ないと思うー』
もっともだった。
一方、シロはそんな会話には興味を示さず、望遠鏡から戻ってきたルビィの服を引いた。
「交代」
「もう?」
「長い」
「まだ五分だよ!」
「私も見たい」
「十五分交代って決めたじゃん!」
「十二分経った」
「残り三分!」
百年以上世界各地で崇められてきた神狼と炎竜皇が、望遠鏡の順番で本気になっている。
フェニアは呆れたように息を吐いたものの、視線はしっかり望遠鏡へ向いていた。
「それほど慌てなくとも、触れ合い教室は午後いっぱい続くのでしょう?」
「じゃあフェニアは見なくていい?」
「そのようなことは申しておりません」
即答だった。
ライカがまたため息をつく。
「そもそも、遠方監視なら私の雷眼を使えば――」
「神力禁止って言われた」
シロが遮った。
「ここは家の外だ」
「レオンはたぶん怒る」
「…………」
「怒られたい?」
「いや」
雷帝は素直に引き下がった。
結局。
六大神獣は誰一人として店へ向かわず、レオンとの約束を守った。
ただし、家から全力で見守るという方向へ努力していた。
◇
「よし。上手上手」
触れ合い教室は順調だった。
最初は怖がっていた子供も、魔獣の方から近づいてくるとすぐ笑顔になる。
「レオン兄ちゃん、この仔ずっと手を舐める!」
「塩気が気になるんだろ。さっきお菓子食べただろ?」
「食べた!」
「じゃあ手を洗ってこい。甘い匂いが残ってると、ずっと追いかけられるぞ」
「はーい!」
別の女の子は綿毛犬を撫でながら、俺へ顔を向けた。
「レオンお兄ちゃんは、どうしてそんなに魔獣のこと分かるの?」
「仕事だからな」
「ずっと魔獣屋さんだったの?」
「今はここ。昔は別のところで、大きい仔とか珍しい仔の世話をしてた」
「どんな仔?」
「色々だよ。火を吐くのに甘い果物ばっかり欲しがる仔とか、銀色で格好いいのに褒めるとすぐ尻尾振る仔とか」
「かわいい!」
「可愛かったぞ。あと風呂から逃げる鳥と、水から出たがらない魚みたいな奴と、雷が怖い雷獣と、頭が良すぎて勝手なことする狐」
店主が隣で吹き出した。
「君、それ本人たちに聞かれたら怒られないかい?」
「全部事実ですから」
まさか本人たちが巨大望遠鏡でこちらを見ているとは思っていなかった。
◇
「…………」
家。
望遠鏡から顔を離したフェニアが微笑んでいた。
とても綺麗な笑顔だった。
「レオンは帰宅後、少々お話が必要ですね」
「怖い」
シロが呟く。
「何と仰いました?」
「何も」
ルビィは腹を抱えて笑っていた。
「風呂から逃げる鳥だって!」
「あなたは甘い果物ばかり欲しがる仔でしょう!」
「今も好きだよ!」
「開き直らないでください!」
ライカだけは顔を赤くしている。
「何故だ……」
「雷が怖い雷獣」
シロが追い打ちをかける。
「聞こえていた! 繰り返すな!」
『私は魚みたいな奴ー』
リヴィは特に気にしていなかった。
『だいたい合ってる』
「リヴィは強いね」
「ミコ」
ルビィが振り返る。
「ミコも『勝手なことする狐』って言われてたよ?」
「事実と異なる部分がございます」
「どこ?」
「私は勝手なことをしているのではなく、レオンが後から喜ぶ可能性を先回りして実現しているだけです」
全員。
黙った。
「それを勝手って言うんじゃない?」
「ルビィに言われるのは心外ですね」
「何で!?」
その時だった。
それまで望遠鏡を覗いていたシロの耳が、ぴんと立った。
「……変」
「何が?」
「店」
空気が変わる。
シロは望遠鏡から目を離すことなく、低い声で続けた。
「大きいのが来た」
◇
店の裏庭で、最初に異変へ気づいたのは俺だった。
「店長」
「どうしたんだい?」
「子供たち、一度こっちへ集めてください」
声色を変えたつもりはない。
それでも店主はすぐ察し、子供たちを長椅子の方へ戻し始めた。
柵の外。
低い唸り声。
森耳兎たちが耳を伏せ、綿毛犬が俺の脚へ寄ってくる。
「怖がらなくていい」
近くの魔獣を撫でながら、柵の向こうを見る。
路地から現れたのは、灰色の大型魔獣だった。
獅子に似た身体。
前脚には硬い鱗。
背中にまだ小さな翼。
「岩翼獅子……?」
成体なら危険な魔獣だが、こいつはまだ若い。
問題は。
「ぐるるる……!」
明らかに興奮している。
首には切れた革紐が残っていた。
「飼育されてた仔か」
逃げたらしい。
周囲の大人たちがざわつく。
「レオン君、衛兵を呼ぶかい?」
「呼んでください。ただ、刺激しないよう伝えてください」
俺はゆっくり柵を出た。
「レオン兄ちゃん!」
「大丈夫。みんなは店長のところにいろ」
岩翼獅子は俺を睨んでいる。
歯を見せているが。
「……怒ってるんじゃないな」
右前脚。
地面へ完全に付けていない。
呼吸も早い。
耳は後ろ。
「怖いのか」
「ぐるる……!」
「分かった分かった。近づかないから」
俺はその場へしゃがんだ。
目を正面から合わせすぎない。
手も出さない。
「逃げてきたのか? 痛いところあるだろ」
岩翼獅子がまた唸る。
それでも。
逃げない。
「偉いな。そこまで来たんだ」
声だけ。
ゆっくり。
百年前も同じだった。
強い魔獣ほど、怖がっている時に力で押さえつければ余計に暴れる。
「俺は何もしない。嫌ならそこで見てていい」
少しずつ。
唸り声が弱くなる。
俺の後ろでは子供たちも静かにしていた。
「そう。それでいい」
岩翼獅子が。
一歩。
前へ出る。
「よし」
もう一歩。
右脚を引きずる。
「やっぱり怪我してるな」
俺は動かない。
待つ。
しばらくして。
大きな鼻が。
俺の手の匂いを嗅いだ。
「こんにちは」
その瞬間だった。
遠くから。
どおん!
「…………」
ものすごい音。
岩翼獅子。
びくっ!
「誰だあああああ!!」
せっかく落ち着いたのに!
◇
数キロ離れたレオン家。
「ルビィ!!」
「ごめん!」
望遠鏡の脚。
折れていた。
「力入りすぎた!」
ルビィが慌てて支えている。
「今の音、店まで聞こえた」
シロが冷静に言う。
「そんなに!?」
「静かな町ですから」
フェニアがこめかみを押さえた。
「これでは、来ていなくても叱られますよ」
「直す! 今すぐ直す!」
「神力は禁止だ」
ライカが止める。
「じゃあどうするの!?」
「普通に工具で」
「私たちそれ苦手!」
「知っている!」
『レオン怒るー?』
リヴィが聞く。
五人。
「…………」
ミコが静かにお茶を置いた。
「先に謝罪文を用意しましょう」
「それ普通に怒られる前提だよね!?」
◇
突然の音で一度身体を強張らせた岩翼獅子だったが、幸い逃げ出しはしなかった。
「大丈夫だ。何か遠くで馬鹿がやっただけだから」
「ぐる……」
「たぶん赤い馬鹿だと思う」
何となく分かる。
帰ったら聞こう。
それより今はこっちだ。
「脚、見せてくれる?」
俺が手を出すと、岩翼獅子はしばらく迷ったあと、ゆっくり身体を伏せた。
「ありがとう」
右前脚を見る。
肉球と鱗の境目。
細い金属片が深く刺さっていた。
「これ痛かっただろ」
持っていた道具袋を開く。
店で仕事をするようになってから、最低限の処置道具は持ち歩いている。
「今から抜く。一瞬痛いぞ」
首元を撫でる。
子供たちは息を呑んで見ている。
「店長、布だけお願いします」
「あいよ」
金属片を掴み。
一気に抜く。
「がうっ!」
「よしよし、終わった終わった」
すぐ傷を洗う。
薬を塗る。
布を巻く。
「これで少し楽になる」
岩翼獅子が自分の脚を確かめるように地面へ下ろした。
さっきより体重を乗せられている。
「よかったな」
頭を撫でる。
「ぐるぅ……」
今度の声は。
唸りではない。
喉を鳴らしている。
「レオン兄ちゃん、すごい!」
子供の一人が声を上げると、他の子たちも一斉に騒ぎ始めた。
「触っていい!?」
「今は駄目。まだ興奮から完全に戻ってないからな。でも、見てただろ?」
俺は岩翼獅子の横へ座ったまま、子供たちを見る。
「大きくて怖そうな魔獣でも、最初から怒ってるとは限らない。痛いとか、怖いとか、逃げたいとか、ちゃんと理由があることも多いんだ」
さっきまで怯えていた子供たちが、真剣な顔で聞いている。
「だから、強いからってすぐ叩いたり、魔法を使ったりしない。まずよく見る。それでも危ない時は、自分で何とかしようとせず大人を呼ぶ。これが一番大事」
「はーい!」
いい返事。
店主が俺の隣で笑った。
「予定にはなかったけど、今日一番の教材になったねえ」
「教材扱いするとこの仔に怒られますよ」
「ぐる」
「ほら」
「本当に返事してるみたいだね」
やがて衛兵と、岩翼獅子の飼い主が駆けつけた。
どうやら運搬中に馬車が揺れ、驚いて逃げ出したらしい。
飼い主は何度も頭を下げていた。
大きな事故にならなくてよかった。
それで十分だ。
◇
夕方。
「ただいま」
玄関を開ける。
「…………」
六人。
並んでいた。
姿勢がいい。
妙にいい。
世界樹の横には。
壊れた巨大望遠鏡。
「…………」
「おかえり、レオン」
ルビィが笑う。
「まず何から聞けばいい?」
「私たち、店には行ってないよ!」
「それは分かった」
「約束守った」
シロも頷く。
「うん。そこは偉い」
六人の表情が少し明るくなる。
「じゃあ、あの望遠鏡は?」
「…………」
沈黙。
「ミコ?」
「遠隔観察用です」
「誰が用意した?」
「私です」
「ルビィ」
「何で私!?」
「何壊した?」
「望遠鏡の脚……」
「昼過ぎにでかい音したよな」
「…………」
「聞こえた?」
「店まで」
「ごめんなさい!」
素直に頭を下げたので、怒る気が少し抜けた。
「俺、『来るな』って言ったよな」
「行ってない!」
「確かに」
「神力も使ってません」
フェニアが付け加える。
「それも偉い」
「水路も伸ばしてないー」
リヴィ。
「偉い偉い」
ライカが真面目な顔で胸を張る。
「私は一度、雷眼による監視を提案したが使用しなかった」
「それは本当に偉いな」
「…………もう一度言ってくれ」
「そこまで?」
ライカは少し顔を逸らした。
ミコが微笑む。
「つまり、本日は概ね規則を守れたということでよろしいでしょうか」
「巨大望遠鏡で監視するのが『概ね』に入るかは怪しいけどな」
ただ。
来なかった。
邪魔もしなかった。
以前なら全員で変装して店の周りをうろついていただろうから、それに比べれば大きな進歩だ。
「まあ、合格」
「ほんと!?」
「ああ。ただし次から望遠鏡もほどほどに」
「直していい?」
「普通の大きさにして」
「……小さくする」
どうして残そうとするんだ。
「それより」
シロが俺の服を引いた。
「今日」
「ん?」
「大きい仔、怪我してた」
「ああ。見えてたのか」
「レオン、怖くなかった?」
「別に。あいつの方が怖がってたからな」
シロは少し黙り、それから俺の袖を握ったまま小さく頷いた。
「昔と同じ」
「何が?」
「怖い仔ほど、先に見る」
「…………」
ルビィたちも。
静かに俺を見ていた。
百年前。
こいつらを初めて担当した頃も。
同じだった。
炎を吐く。
噛みつく。
暴れる。
逃げる。
でも。
その理由を見つければ。
ちゃんと向き合える。
「飼育員だからな」
俺がそう答えると。
ルビィが嬉しそうに笑った。
「うん。やっぱりレオンだ」
◇
「ところで」
俺は鞄を置いた。
「触れ合い教室、来月もやるらしい」
「ほんと!?」
ルビィが食いつく。
「ああ。今日評判よかったって」
「次は行っていい?」
「駄目」
「早い!」
「お前らが来たら『六大神獣との触れ合い教室』になるだろ」
ところが。
シロが首を傾げた。
「だめ?」
「絶対人集まりすぎる」
フェニアも考え込む。
「ですが、子供たちへ神獣との正しい接し方を教えることにも意味はあるのでは?」
「神獣と接する機会なんて普通はないだろ」
すると。
庭の世界樹の下。
たくさんの魔獣。
六人。
そして俺。
「…………」
「最近、普通じゃなくなってきてるよ」
ルビィが言った。
「それはお前らのせい!」
笑い声が上がる。
しかし。
その夜。
町の掲示板には。
《来月開催・魔獣ふれあい教室》
という告知の下へ。
誰かが勝手に。
《特別講師・六大神獣?》
と書き足していた。
「誰だこれ書いたの!」
六人。
全員。
首を横に振る。
そして翌朝には。
参加希望者が。
町の人口を。
軽く超えていた。




