第9話 閑話 オリーブの葉の、裏の色
閑話 オリーブの葉の、裏の色
孫は、夜明け前に生まれた。
王都の北の外れの、壁の薄い借家だ。産婆が帰ってから、娘のヘレナが、小さな包みをおれの腕に乗せた。
「父さん。抱いてやって」
軽かった。
苗木の鉢より、ずっと軽い。四十七年生きてきて、いちばん軽いものだった。それなのに、腕がふるえた。
包みの中で、赤ん坊が顔をしかめる。
それから、目を開けた。
灰色がかった、緑の目。
「……ああ」
声が、勝手に出た。
「オリーブの葉っぱの、裏の色だ」
寝台の上で、ヘレナがくすっと笑う。
「出た。父さんの口ぐせ。あたし、オリーブなんて一度も見たことないけど」
「おれだって、もう三十八年、見てない」
じいちゃんの目。おれの目。
この子で、三つ目だ。
父さんに、見せたかった。
ひと冬、遅かった。
王都の冬は、オリーブには寒すぎる。
そう教えてくれた人がいた。九つの春、王都の南の門の前で。
*
おれは、ハーゼ村のティモ。
九つの春に、父さんと荷馬車に揺られて、王都へ出てきた。父さんは宰相府の書記になって、余白に名前の書いてある報告書を、毎日読む人になった。
その父さんは、去年の冬に逝った。
最期の日も、寝床で、帳面に自分の名前を書いた。アロイス・ロウ。それから、小さなオリーブの葉を一枚。手が震えて、葉っぱは、少しだけ曲がっていた。
曲がっていても、父さんの葉っぱだった。
おれは、王立薬草園の端で、梨の木の番をした。
ご先祖さまの、ノアとエマという夫婦が、種から育てた梨の木だ。百年近く南の丘に立っていて、嵐で倒れた。父さんが守ってきた枝を、あの春、ここに接いだ。
梨は、王都の冬に負けなかった。
今は六本になって、秋になると、薬草園の小道に甘い匂いが落ちる。
*
「名前、決めてよ」
ヘレナが言った。
婿どのは、北の石切り場に出ていて、三日に一度しか戻れない。
「お前たちで決めな」
「あの人も、父さんに決めてほしいって」
腕の中の顔を見る。
皺だらけで、赤くて、灰色がかった緑の目を、半分だけ開けている。
梨の木のことを、思った。
種から育って、嵐で倒れて、それでも枝が残って、知らない土地で、また実をつけた木。
「……ノア」
言ってみた。
赤ん坊が、ふっと目を閉じる。小さな口が、ぱくりと動いた。
「ご先祖さまの名前だ。種から、梨を育てた人」
「ノア」
ヘレナが、くり返した。
「いい名前。呼びやすい」
呼びやすいのは、大事なことだ。
名前は、呼ばれるためにある。
*
昼すぎに、手紙が届いた。
持ってきたのは、薬草園の小僧だった。梨の木の下のおばあさまから、と言う。
封蝋はない。かわりに、紙の端がきっちり三つに折ってある。それだけで、誰からか分かった。
丁寧で、少し右に傾いた字。
『ティモくん。
おめでとう。今朝、梨の木の下で、産婆さんに会いました。男の子だと聞きました。
お名前は、もう決まりましたか。
決まったら、教えてください。帳面に書きます。
余白ではなく、本文に。
クララ』
手紙を持ったまま、しばらく、台所に立っていた。
クララお姉さんは、いつのまにか、薬草園の小僧たちに「おばあさま」と呼ばれるようになった。旦那さまのほうは、とうに宰相をやめている。それでも夜中に起き出して、北の辺境にいる甥っ子へ、返事を書いているらしい。銀縁の眼鏡を送ってやったのよ、と、いつかお姉さんが笑っていた。
お姉さんが風邪をひくと、宰相閣下だった人が、台所に立って、あの甘い薬草茶を自分で淹れるのだという。茶葉は、毎年、村から、おれが送っている。干し棚は、とうに建て直した。
お姉さんいわく、閣下の淹れるお茶は、いつも少しだけ濃いそうだ。
それも、文句を言わずに全部飲むのだと、お姉さんは笑っていた。
返事を書いた。
おれの字は、父さんほどきれいじゃない。父さんは字で食べた人で、おれは梨で食べている人だ。
『クララお姉さん。
ノアです。
目は、オリーブの葉っぱの、裏の色です。
ティモ』
書きながら、思い出した。
九つの春、お姉さんは、南の門の前でしゃがんで、おれと目の高さを合わせた。
王都にオリーブはないけれど、あなたの目の色は、ちゃんと帳面に書いておくわ。それなら、王都でもなくならないでしょう。
おれは、大きくなったら子どもにも言う、と答えた。じいちゃんが言ったみたいに。
子どもには、言った。
今朝、孫にも言った。
*
夕方、また返事が届いた。
『ノアくん。
書きました。
ティモくんの名前の、すぐ下に。
そのひとつ上には、アロイスさんの名前があります。三十八年前に、あの方が、ご自分で書いてくださった名前です。』
それだけだった。
一枚の紙に、三つの名前が並んでいる。
父さんの、きれいな字。おれの名前。それから、今朝生まれた子の名前。
父さんは、ちゃんと、ノアの上にいる。
手紙を持つ手が、勝手にふるえた。今朝、ノアを抱いたときと、同じふるえ方だった。
それで、足りた。
*
夜、ヘレナが眠ったあと、寝台のそばにしゃがんだ。
ノアは、布にくるまって、母親の腕の中で眠っている。
目の高さを、合わせる。
あの日のお姉さんみたいに。お姉さんに膝をついてくれた、木の聖印の祭司さまみたいに。
「ノア」
小さな声で、呼んだ。
「じいちゃんは、明日、村へ帰る。南の梨の世話がある。だから、お前はたぶん、じいちゃんのことを覚えていない」
ノアは、眠ったままだ。
「目の色のことは、母さんに頼んどく。オリーブの葉っぱの、裏の色だって、じいちゃんが言ってたって」
窓の外で、風が鳴った。
「それから、これは、母さんには頼めない」
どう言えばいいのか、おれにも、よく分からないから。
「えらい人の中には、子どもの名前を知らない人もいる。咳をしてるだけで、近寄らせるな、と言う人もいる。じいちゃんは、昔、言われた」
声が、少しかすれた。
「でもな。大事なことは、たいてい、床の近くで起きる。しゃがんで、目の高さを合わせてくれる人は、どこかに、ちゃんといる」
おれの知っている人たちは、みんな、そうだった。
「お前の名前は、もう、本文に書いてある。だから、もし、誰にも呼ばれない冬が来ても――」
そこで、やめた。
生まれたその日の子に、言うことじゃない。
ふわりと、百合の香りがした。
壁の薄い借家の、寝台のそばで。冬のはじめに、百合なんて咲いていないのに。
ノアが、眠ったまま、小さな手をひらいた。
そこに、指を一本、そっと置く。
ノアの指が、それを握った。
思ったより、ずっと強い力だった。
四十七年前、父さんも、こうして、おれに指を握られたのだろうか。
種から育つものは、強い。
梨の木が、そうだった。




