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婚約破棄された夜、文通相手の書記さんが宰相閣下だと知りました  作者: 真白のあ


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第10話 銀縁の眼鏡

閑話 銀縁の眼鏡




 十三の冬、王都から小包が届いた。


 宛名は、私だった。


 ギルバート・フォン・アルスター殿。


 殿、と書かれたのは、生まれて初めてだ。それも、硬くて角ばった、知らない字で。


 城の帳場の机で、麻紐をほどいた。中から出てきたのは、手紙が二通と、布にくるんだ細長い箱がひとつ。


 箱を開ける。


 眼鏡だった。


 銀縁の。少し古い。つるの内側が、長く使った人の指の形に、かすかに擦れている。


 一通目の手紙を開いた。


 あの硬い字だった。


『ギルバート殿。


 お前の母から、帳簿の数字が見えにくくなっていると聞いた。


 私が二十代に使っていたものだ。度が合うかどうかは分からない。合わなければ、北の眼鏡屋で直せ。代金は私が持つ。


 ロッテの兄 ヴィクトル』


 それだけだった。


 母の兄。王都の、宰相府の人。母がときどき「兄さん」と言うときの、少し笑った顔だけは知っている。会ったことはない。


 母は、去年の冬、南の商人と城を出た。


 出ていく朝、城門で、最後に私を「ギル」と呼んだ。それから誰も、その名で私を呼ばない。


 眼鏡を、かけてみた。


 世界が、くっきりした。


 帳場の窓の、霜の模様。机の木目。開いたままの帳簿の、薪の欄。


 七の字が、一の字と見分けられる。


 この半年、私は、七と一を、何度取り違えただろう。家令に叱られるたびに、自分の頭が悪いのだと思っていた。


 頭ではなかった。目だった。


    *


 二通目の手紙は、丁寧で、少し右に傾いた字だった。


『ギルバートくん。


 はじめまして。あなたの叔母の、クララです。


 叔父さまは、手紙を短く書く人なので、少しだけ付け足しますね。


 その眼鏡は、叔父さまが、私と初めて会った夜にかけていたものです。だから、大事にしてね、とは言いません。使い古してください。眼鏡は、たくさん使われるほうが、うれしいと思います。


 それから、お母さまから、あなたが城の帳簿を手伝っていると聞きました。


 ひとつだけ、叔母から、こつを。


 数字の横の余白に、名前を書いてごらんなさい。薪を割った人の名前。粉を挽いた人の名前。数字だけだと、誰のお金なのか、誰の汗なのか、分からなくなってしまうから。


 叔父さまには、昔、やめてくださいと叱られました。でも、やめませんでした。


 それから、これは、叔父さまが書かないことなので、私が書きます。


 お母さまは、南へ行ってからも、手紙のたびに、あなたのことを書いてきます。帳簿で叱られていないかしら。寒がっていないかしら。目を細めて、数字を読んでいないかしら。


 この眼鏡は、その手紙から始まったのですよ。


 クララ


 追伸。叔父さまは、困ったときに眼鏡を拭く癖があります。レンズが曇っていなくても。もし、あなたにも同じ癖が出たら、それは、アルスターの家の血です。』


 読み終えて、しばらく、手紙を持ったまま座っていた。


 去年の冬、城門で、母は一度だけ振り返った。


 私は、若さまの外套の端を握ったまま、手を振らなかった。振ったら、走って追いかけてしまいそうだったから。


 その母が、南へ行ってからも、私の目のことを書いていた。


 目を細めて、数字を読んでいないかしら。


 読んでいた。この半年、ずっと。


 ギルバートくん。


 殿、ではなく。ギル、でもなく。


 知らない人が、私の名前を、まるで前から知っていたみたいに、書いていた。


    *


 その夜、帳場で、薪の欄を開いた。


 今日、薪小屋から城へ運ばれた薪。四十二本。


 ペン先を、余白に置く。


 しばらく、何も書けなかった。


 薪を割った人の名前を、私は知らなかった。


 朝、裏庭で斧を振っていた男。背の低い、髭の白い男。毎朝見ているのに。


 翌朝、裏庭へ行った。


 斧の音が、止まる。男が、帳場の子どもを見下ろした。


「なんだ。薪が足りねえか」

「足りています。……名前を、教えていただけますか」


 男は、ぽかんとした。


「ヨストだ」

「ヨストさん」


 帳場へ戻って、余白に書いた。


 ヨスト。四十二本。


 字が、少し震えた。


    *


 厨房に、昼の椀を取りにいった。


 竈の前で、マルタさんが振り返る。


「なんだい、その目玉は」

「眼鏡です。叔父から、もらいました」

「ふうん。似合わないね」


 それから、マルタさんは、私の顔をしばらく見ていた。


「……でも、目つきは、ましになった。前は、何でも睨んでた」

「睨んでいたのではありません。見えなかったのです」

「同じことさ。見えないもんは、睨むしかない」


 椀を受け取って、階段を上がると、上から、若さまが下りてきた。


 十三の若さまは、もう私より頭ひとつ背が高い。去年の冬、母が城を出る朝、一緒に来るか、と私に訊いた人だ。私は、残る、と答えた。


 若さまは、階段の途中で止まって、私の顔を見た。


「……見えるのか」

「はい。よく、見えます」


 若さまの顔が、くっきり見えた。


 思っていたより、疲れた顔をしていた。目の下が、少し青い。母君が亡くなってから八年、この人がよく眠れていないことを、私は、この日まで、ぼんやりとしか知らなかった。


 見えてしまった。


 若さまは、何も言わずに、私の横をすり抜けて、厨房へ下りていった。


 私は、階段の途中で、眼鏡を外した。


 ポケットから手巾を出して、レンズを拭いた。


 曇っては、いなかった。


 拭き終えてから、気がついた。


 ――アルスターの家の血です。


 眼鏡をかけ直す。


 椀のスープが、少し冷めていた。


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