第11話 オリーブの葉の、裏の色
秋に、王都へ上った。
北の峠には、もう初雪が来ている。王都の坂道には、まだ、落ち葉しかない。
用向きは、帳簿だ。旧い宰相府の書庫に、北の辺境の、二十年分の納めの記録が眠っている。それを写して持ち帰る。閣下に命じられたわけではない。私が勝手にやることだ。
出がけに、奥さまに呼び止められた。
「ギルバート。王都の大聖堂の、東の回廊に、三本目の柱があります」
「……三本目。覚えておきます」
「その脇の窓に、毎朝、麦を置いている男の子がいたら」
奥さまは、少し考えてから、言った。
「名前を、呼んであげてください。ノアです」
頼まれごとは、それだけだった。
それだけのことを、奥さまは、大事な預けものを渡すような顔で言った。
*
旧い宰相府の書庫は、紙と黴の匂いがした。
北の記録を探して、棚を三つ、下りた。いちばん下の段に、五十年前の報告書の綴りが並んでいる。南の関所。
一冊、抜いた。
様式の、いちばん右の端に、細い欄がある。
荷の主の名。
書記たちは、今でもこの欄を「ベルネの余白」と呼ぶ。私は、その名の由来を、知っている。
頁をめくる。
丁寧で、少し右に傾いた字。数字の横に、名前。ハーゼ村のアロイス。無花果の苗、二十本。
十三の冬に、同じ字の手紙をもらった。母が城を出ていった、次の冬だった。
数字の横の余白に、名前を書いてごらんなさい。そうすれば、数字は、ただの数字ではなくなるから、と。
あの冬、私は、誰の名前も書けなかった。いちばん書きたい名前を、どこに書けばいいのか、分からなかった。
眼鏡を外して、拭いた。
書庫には、私しかいない。それでも、拭いた。
*
大聖堂の東の回廊は、夜明け前は、ひどく冷える。
床は、もう、奥さまが磨いていたころほどは光っていない。それでも、窓の下だけは、誰かが拭いたあとがあった。
三本目の柱の、窓。
右端の、色の薄い石に、麦がひとつかみ。殻のついたままのものが混じって、粟もある。
柱の陰で、衣擦れの音がした。
見習いの服の裾が、ちらりと見えて、引っこむ。
私は、柱のほうを見なかった。奥さまなら、きっと、そうする。
床のほうへ、一度だけ、言った。
「……ノア」
柱の陰が、しんとした。
しばらくして、小さな影が、そろそろと出てきた。十三くらいの、痩せた少年。見習いの粗い服。手が、麦の粉で白い。
「……ぼくの、名前」
少年は、確かめるように、もう一度、口の中でくり返した。長いあいだしまいこんでいた道具を、そっと取り出すような言い方だった。
「北の城の、奥さまから、預かってきた」
少年の顔が、ぱっと上がった。
灯りの届かない回廊で、その目だけが、窓の明るさを拾った。
灰色がかった、緑。
息が、止まった。
知っている色だった。
十二の冬まで、毎朝、見ていた色だ。寝床から起こされるとき。熱を出した夜。城門の前で、最後に「ギル」と呼んだとき。
母の目だ。
眼鏡を外した。拭くつもりではなかった。外さないと、見えなくなりそうだった。
外したら、余計に見えなくなった。
「……どうしたの」
少年が、首をかしげた。
「目に、何か入りましたか」
「いや」
眼鏡を、かけ直す。
「その目は、誰に似た」
「おじいちゃん。会ったことは、ないけど。母さんが、いつも言ってた。おじいちゃんは、オリーブの葉っぱの、裏の色だって言ってたって」
オリーブの葉の、裏の色。
母も、そう言っていた。自分の目のことを。私の目は父ゆずりの琥珀色で、母はいつも、少しだけ残念そうに、それから嬉しそうに、私の目をのぞきこんだ。
「オリーブって、見たこと、ありますか」
「ない」
「ぼくも、ないです」
「私の母も、なかった」
少年が、私を見上げた。
知らない大人が、なぜ母親の話をするのか、分からない顔だった。私にも、分からなかった。九年、業務上の言葉しか口にしてこなかった口が、勝手に動いていた。
窓の石に、灰色の鳩が一羽、下りてきた。
少年は、麦を少し寄せてやって、小さな声で言った。
「おはよう、ミナ」
「……名前が、あるのか」
「ぼくが、つけました」
少年は、鳩の背中を見たまま、言った。
「だれにも呼ばれないと、いないのと、同じだから」
鳩は、麦をついばんで、飛んでいった。
少年は、それを見送った。自分がいつから呼ばれていないのかは、言わなかった。
*
「そこの」
回廊の奥から、声がした。
司祭だった。分厚い祭服。金の聖印。夜明け前の見回りらしい。
「そこの、見習い。こんなところで油を売って。朝の祈りに遅れる気か」
少年の肩が、すくんだ。
私は、少年の前に、半歩出た。
「ノアです」
考えるより先に、言葉が出た。短い言葉だった。
「……何?」
「この子の名前です。そこの、ではなく」
司祭は、私の顔と、黒い外套と、北の辺境伯家の紋章を、順に見た。それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「北の田舎の方には、聖堂の規律はお分かりにならんでしょう。見習いは、名で呼ぶほどのものではない」
それだけ言って、回廊の奥へ、去っていった。
振り返らなかった。
名を呼ばない人は、どこにでもいる。三百年前にも、五十年前にも、今朝にも。
呼ばれた者が、どうするかだ。
「……ギルバートさん、ですか」
外套の端を、小さな手がつかんでいた。
「奥さまから、聞きました。北の城には、眼鏡の怖い人がいるって」
奥さまは、何を教えているのだ。
「怖くない、とも、言ってました」
*
朝の祈りのあと、少年は、半日の暇をもらった。もらった、というより、私がもらってきた。北の辺境伯家の名を、一度だけ使った。業務だ。
王立薬草園の端に、梨の木が六本ある。
その向こうに、小さな家。
戸を叩くと、白髪の小柄な老婦人が出てきた。杖をついている。
丁寧で、少し右に傾いた字を書く人の、顔だった。
老婦人は、戸口で、私を見上げたまま、動かなくなった。
「……ヴィクトル」
小さな声だった。
それから、はっとしたように、杖を握り直した。
「ごめんなさい。……戸口に立つ背の高さも、黒い外套の肩の線も。私を見下ろさないように、少しだけ顎を引くところまで」
老婦人は、ゆっくりと、私の顔を眺めた。
「眼鏡を、人さし指一本で押し上げるでしょう」
「……はい」
「五十年前、裏の階段で、あの人も、そうしたの。私を片腕で受け止めたまま」
知らなかった。
叔父の顔を、私は知らない。知っているのは、硬くて角ばった字と、つるの内側が擦れた眼鏡だけだ。その眼鏡の擦れた跡に、私の指は、十二年、ぴったり収まってきた。
この人は、その叔父の、妻だった人だ。
「……まあ」
叔母は、それから、私の後ろの少年を見た。
少年の目を見て、杖を持つ手が、止まった。
「ノアくん」
少年が、びくりとした。
「ど、どうして」
「入って。お茶を淹れるわ。甘いのを」
少年が、戸口をくぐりながら、叔母に言った。
「ギルバートさん、今朝、司祭さまに言ったんです。ノアです、そこの、ではなく、って。……こんな顔して言った」
少年が、鼻にしわを寄せてみせる。
叔母は、声を立てて笑った。杖が、床でことりと鳴った。
「同じね。あの人も、五十年前の夜会の真ん中で、陛下と三百人のお客さまの前で、その顔をして言ったのよ」
「なんて?」
「私が、預かります、って。たったそれだけ」
叔母は、私のほうを見た。
「言いたいことを、いちばん短い言葉で言う顔。……アルスターの家の顔ね」
私は、鼻にしわを寄せた覚えはない。
……ないはずだ。
*
家の中は、紙の匂いがした。棚という棚に、帳面が並んでいる。
叔母の淹れてくれた薬草茶は、甘かった。少年は、湯気の立つ茶碗を両手で包んだまま、首をかしげた。
「おばあさま。五十年前の夜会って、なに?」
叔母は、すぐには答えなかった。
窓の外の梨の木を、しばらく見ていた。それから、自分の茶碗に、ゆっくりと口をつけた。
「昔の話よ。……長くなるけれど、いいかしら」
少年が、うなずく。私も、黙って椅子に座りなおした。
「五十年前、私は十九で、侯爵家の帳簿係だったの。地味で、愛想がなくて、取り柄もない娘。ダンスをすると、三回に一回は相手の足を踏んだわ」
少年が、くすっと笑った。
「その冬、南の関所で、雨の日にね。荷車が一台、追い返されていたの。三倍の通行料が払えなくて。荷車のそばに、九つの男の子がいた。ひどい咳をして、オリーブの苗の鉢を、大事そうに抱えて」
叔母の目が、少年の目に止まった。
「灰色がかった、緑の目をしていたわ」
少年の手の中で、茶碗が、小さく鳴った。
「偉い人の馬車が来て、その鉢を轢いていった。止まりもしないで。中から、汚れた子供を近寄らせるな、って声がしたの。男の子は、泣かなかった。九つで、泣かずに、泥の中から苗をすくおうとしていた」
「……おじいちゃん」
「ええ。ティモくん。あなたの、おじいさまよ」
叔母は、茶碗を卓に置いた。
「私はね、今でも、雨の日には、轢かれたオリーブの葉の匂いを思い出すの。王都には、オリーブなんて一本もないのにね」
それから、少しだけ、笑った。
「その春の夜会で、私は婚約を破棄されて、泥棒にされかけて、白いハンカチで、汚れみたいに拭かれたの。それで、使用人用の裏の階段に逃げて、ひとりで泣いていた。三年、毎週、手紙を書いてきた人がいたけれど、もう書けないと思って」
叔母の視線が、ほんの一瞬、私の眼鏡に止まった。
「そうしたら、階段の上で、靴音がしたの」
叔母は、それ以上、言わなかった。
言わなくても、わかった。少年にも、たぶん。
その靴音の主の眼鏡が、今、私の鼻の上にある。
叔母は、立ち上がって、棚のいちばん古い一冊を下ろし、卓の上に開いた。
頁が、黄ばんでいる。
いちばん上に、少し古風な、きれいな字で、名前がひとつ。最後に、小さなオリーブの葉が一枚、描き添えてある。
その下に、丁寧な字で。
ティモ。ハーゼ村。九つ。目は、オリーブの葉の、裏の色。
そのすぐ下に、同じ字で。少しだけ、震えた字で。
ノア。王都。生まれた日。目は、同じ色。
「あなたが生まれた日に、書いたの」
叔母が、言った。
「余白ではなく、本文に。おじいさまと、約束していたから」
少年は、帳面を見ていた。
長いあいだ、見ていた。
去年の秋、母親が門の前で呼んだきり、一年、誰にも呼ばれなかった名前。その名前が、十三年前から、ここにあった。
少年は、泣かなかった。泣かずに、指で、自分の名前を、そっとなぞった。
インクは、とうに乾いている。それでも、なぞった。
「……いた」
かすれた声だった。
「ぼく、ずっと、ここに、いたんだ」
叔母は、何も言わずに、少年の手の上に、自分のしわだらけの手を重ねた。
ふわりと、百合の香りがした。
少年が、顔を上げた。
「……花の、匂い」
叔母が、微笑んだ。
「あら。あなたにも」
私には、匂わなかった。
鼻をきかせても、紙と、甘い薬草茶の湯気しかしない。
それでも、胸の奥が、静かに温かかった。
北の城の礼拝堂で、閣下が奥さまの肩で眠った夜、扉を閉めたときと、同じ温かさだった。
匂わない者にも、来るものは、来る。
私は、それで足りる。
叔母は、頁のいちばん上の名前を、指でさした。オリーブの葉の添えられた、少し古風な字。
アロイス・ロウ。
「ノアくん。あなたの、ひいおじいさまよ。この方は、どこで何を書くときも、必ず最後に、この家の名を書いた。ロウ。川下の小さなお城で、国境を守っていた家の名」
「……ロウ」
少年が、口の中で、くり返した。
「ノア・ロウ」
自分の名前の続きを、初めて聞いた顔だった。
叔母は、それから、私のほうを見た。
「あなたのお母さまの、ひいおばあさまも、ロウの家から王都に嫁いできた人なの。ヴィクトルが、五十年前の夜会で、陛下の前でそう言ったのよ。私は、隣で聞いていた」
眼鏡の奥で、何かが、ゆっくりと形を結んだ。
母の目の色が、どこから来たのか。私は、二十五年、知らなかった。
知らないまま、今朝、母と同じ目の少年の名を、呼んだ。
「……じゃあ、ギルバートさんと、ぼくは」
少年が、私と帳面を、交互に見た。
私は、窓の外の梨の木を見た。
種から育った一本の木が、嵐で倒れて、枝だけが守られて、ここに接がれた。同じ木から取った枝は、ほかにもあったのだろう。北へ行った枝も。
「遠い親戚だ。とても遠い」
少年の顔が、ぱっと明るくなった。
「遠くても、親戚」
「遠くても、だ」
少年が、笑った。
この子が笑うのを、私は、そのとき初めて見た。
*
帰りぎわ、叔母が、戸口で私を呼び止めた。
「ギル」
足が、止まった。
十二の冬から、誰も使わなかった名前だった。
「……どうして、その名を」
「ロッテの手紙は、いつもそうだったもの。ギルが、帳簿で叱られた。ギルが、若さまと薪を運んだ。ギルが、眼鏡をかけたら、目つきがましになったって、厨房のおばあさんに言われた」
叔母は、杖に両手を重ねて、笑った。
「南へ行ってからも、ずっとよ。北のギルは、元気でしょうか、って。最後の手紙まで」
最後の手紙。
叔母は、それ以上、言わなかった。
私も、訊かなかった。
訊かなくても、分かることがある。帳簿の、いちばん下の欄のように。
「手紙は、全部、取ってあるわ」
叔母は、梨の木のほうを見たまま、言った。
「読みたくなったら、いらっしゃい。急がなくていいの。手紙は、待つのが得意だから」
それから、私の顔に目を戻した。
「ヴィクトルはね、あなたの眼鏡のことを、亡くなる前の晩まで気にしていたわ。度は合っているか、って」
「合っています」
声が、かすれた。
「十二年、合っています」
叔母が、手を伸ばした。届かなかった。私は、黙って、少しだけ背をかがめた。
しわだらけの指が、眼鏡のつるに触れて、ほんの少し、まっすぐに直した。
「そう。よかった」
それだけだった。
いちばん短い言葉だった。
*
大聖堂の門の前で、少年と別れた。
「ギルバートさん」
少年が、私を見上げた。灰色がかった、緑の目で。
「また、来ますか」
「来る。帳簿の用がある」
嘘ではない。帳簿の用は、いくらでも作れる。
少年は、少し考えてから、言った。
「ぼく、北の城に、行けますか。いつか」
「奥さまが、待っている」
それから、一つだけ付け足した。業務上の言葉では、なかった。
「私も」
少年は、うなずいて、門の中へ駆けていった。途中で一度、振り返って、手を振った。
母も、城門の前で、一度だけ振り返った。
私は、手を振った。
十二の冬には、振れなかった手を。
少年の姿が見えなくなっても、しばらく、下ろせなかった。
その夜、宿で、帳簿を開いた。
今日の欄。旧宰相府、北の記録、二十年分、写し終え。
その横の余白に、名前を書いた。十三の冬に、教わったとおりに。
ノア。王都。十三。目は、母と同じ色。
ペンを置きかけて、やめた。
もう一行、書いた。十二の冬から、どこにも書けなかった名前を。
ロッテ。北の城。目は、オリーブの葉の、裏の色。
それから、ペンを置いて、眼鏡を外した。
拭かなかった。
拭かなくても、よく見えた。




