第8話 露台と王都の門
十二 露台
ホールの外の露台は、月が明るい。
庭の白木蓮が、夜の中でほのかに光っている。春の夜気が、ほてった頬に気持ちいい。
ホールの騒ぎが、扉越しに遠く聞こえる。
私は、緋色の外套を肩から下ろして、きちんと畳む。
王家の外套なんて、いつまでも着ていていいものじゃない。
かわりに閣下が、また自分の黒い外套を、私の肩にかける。
香木の匂い。こっちのほうが、ずっと落ち着く。
それから閣下は、露台の手すりの上に、小さな皿を置いた。
鶏の香草焼きが、ひと切れ。
「……え」
「ホールを出るとき、取ってきた。今夜、何も口にしていないだろう」
――見られていた。
給仕さんが前を通るたびに、ちらちら見ていたのまで、たぶん。
食べていいのだろうか。宰相閣下の前で。露台で。
「冷める」
皿の端に添えてあった小さなフォークで、食べた。
おいしかった。泣きそうなくらい、おいしかった。
「……どうして、書記のふりなんて」
やっと、それだけ聞けた。
閣下は手すりにもたれて、月を見ている。
「最初の手紙で、宰相の名を出していたら、どうなったと思う」
「どうって……」
「貴女は、二度と余白に名前を書かなかっただろう。宰相に叱られたのだから」
閣下は、少し間を置く。
「それが、惜しかった」
風が吹いて、外套の裾が揺れる。
「侯爵家の帳簿の数が合わないことには、二年前から気づいていた。だが、証拠がなかった。関所を通った者の名と額を一人ずつ記した記録など、宰相府の誰も持っていない」
灰色の目が、まっすぐ私を見る。
「貴女だけが、持っていた。帳尻が合わないのは自分の検算のせいだと思いながら、三年間、一頁も欠かさずに」
「……だって、気持ちが悪かったんです。数が合わないと」
「知っている。手紙に書いてあった。『数字が合わないと、夜、眠れなくなります』と」
閣下が、ふっと息だけで笑う。
「数が合わないと眠れない者など、この国に、私ひとりだと思っていた」
思わず、私も笑ってしまった。
笑ったら、また涙が落ちる。今夜は、何度泣いたか分からない。
閣下が手を伸ばし、私の頬に残った涙の跡を、親指でそっとぬぐう。
剣だこのある、硬い指先。
なのに、触れかたは、信じられないくらい、やさしい。
心臓の音が、うるさい。
露台の下の噴水の音が、遠くなる。
「ベルネ嬢」
「は、はい」
「宰相府には、手紙を書く者が足りない」
――お仕事の話だ。
すうっと、背筋が伸びる。
婚約を破棄されたその夜に、宰相府からお声がかかる。
こんなありがたいことがあるだろうか。侯爵家を出たら、どうやって暮らしていこうかと思っていたところだった。ベルネ家に戻っても、新しいお母様の顔が目に浮かぶ。
「お受けいたします!」
私は、勢いよく頭を下げる。
「帳簿もつけられます。読み書きは三か国語、算術も、たぶん人並み以上には。それと、余白の名前は、宰相府ではちゃんと我慢します」
「……」
「あの、それで、お給金はおいくらでしょうか。住みこみでしたら、少しお安くても構いません。妹さんの襟巻も、もう一本編めますし」
閣下が、片手で額を押さえる。
月明かりでも分かるくらい、耳の先が赤い。
「……今のは、半分だ」
「半分?」
「仕事の話は、半分だと言っている」
吐息まじりの、低い声。
閣下は額から手を下ろして、私をまっすぐ見る。
「三年間、手紙では言えなかったことがある。書記が、言っていいことではなかったので」
閣下は、眼鏡を外した。
レンズを、上着の胸で一度だけ拭く。拭く必要なんて、なさそうなのに。
眼鏡のない顔は、氷の宰相と呼ばれる人にしては、思っていたより、ずっと若かった。
一歩、近づかれる。
香木の匂いが、ふわりと濃くなる。
「――クララ」
名前を、呼ばれた。
ベルネ嬢、ではなく。
さっき、侯爵様に三度呼ばれた名前。
でも、全然、違う呼ばれかた。
「宰相として言う。私の隣で、名前を呼ぶ側にいてくれないか。手紙も、帳面も、これからは、貴女の名で」
貴女の名で。
その一言で、もうだめだった。
三年間、たくさんの名前を書いてきた。
アロイスさん。ティモくん。ミア。オイゲンさん。熱を出した書記さん。
自分の名前だけは、一度も書かなかった。帳簿にも、礼拝堂の紙にも。ヴィクトルさんへの手紙の差出人にさえ、侯爵家の帳簿係、としか。
それを、この人は、ずっと読んでいた。
月が、にじんだ。
「……あの。それは、もしかして」
「求婚だ。こちらが、もう半分」
顔から、火が出そう。
お給金の話なんてしてしまった。住みこみなら安くていいなんて、言ってしまって。襟巻をもう一本編めるなんて、何を言っているんだろう、私は。
「ご、ごめんなさい、私、てっきり」
「分かっている。三年分の手紙を読んだから、貴女がそういう人だということは」
閣下の口もとが、今度ははっきりとほころぶ。
氷の宰相が笑うところを、私はたぶん、この国で最初に見た。
「返事は」
「……お手紙で、書いたほうがいいですか」
自分でも、何を言っているのか分からない。
閣下が、また額を押さえかけて、やめる。
「今、口で頼む。三年も待った」
「……はい」
声が、かすれる。
閣下が、手袋を外す。
右の中指の脇に、インクの染みが固まっている。洗っても落ちきらない、古い染み。三年分の、夜中の跡。
――インクの染みだけは、当たっていた。
その手で私の手を取って、指をからめるように握る。そのまま持ち上げて、手の甲に、そっと唇を落とした。
さっき、ハンカチで拭かれたのと、同じ側の手だった。
「クララ」
「は、はい」
「一度、呼んでみてくれないか。私の名を」
喉が、ひくりと鳴る。
「……ヴィクトル、さん」
言ってしまってから、口を押さえる。三年、手紙の宛名に書いてきた呼び方が、そのまま出てしまって。宰相閣下に、さん付けだなんて。
閣下は、しばらく黙って。それから、片手で目もとを覆った。
「……それで、いい」
指のあいだから見える頬が、月明かりでも分かるくらい、赤い。
「三年、その呼び方で手紙をもらっていた。今さら、直されたら困る」
――お母さま。
数字と仲良しの娘は、今夜、名前を呼ばれました。
「それから」
「は、はい」
「ロッテが、貴女に会いたがっている。襟巻の礼を、自分で言いたいそうだ」
閣下は、少しだけ笑う。
「会えば、分かる。ロッテの目は、今夜ホールで見たのと同じ色だ」
月が、白木蓮の花びらを一枚、露台に落とした。
終 王都の門
ひと月ほどたった、晴れた朝。
私は、王都の南の門の前に立っている。
隣には、侍女のミア。侯爵家を辞めて、今は私のところで働いてくれている。
南の街道を、荷馬車が一台、ことことと上ってくる。
土地の証文は、陛下のお言葉どおり、すべて無効になった。通行料も、嵐の前に。
でも、嵐で倒れた果樹が、また実をつけるようになるまでには、何年もかかる。
アロイスさんは、考えたすえに、王都に出てくることに決めた。
畑は、村の親戚に預ける。王都では、宰相府で働くことになった。
役目は、南の関所の報告書を受け取る書記。
ヴィクトル様が三年間、書記のふりをして座っていた席だ。
「この席には、余白の名前を読める者が要る」と、ヴィクトル様は言った。アロイスさんは、陛下からロウの家名にふさわしい扱いをと言われたのを、丁寧に断って、この席を選んだ。
「家名で食べていくより、字で食べていくほうが、ご先祖さまも喜ぶと思いますんで」
そう言って、笑っていた。
この春から、宰相府の報告書の様式には、余白に欄がひとつ増えた。「荷の主の名」。王国の帳簿の中で、いちばん小さな欄だ。
のちに王都の書記たちは、この欄を「ベルネの余白」と呼ぶようになるのだけれど、それはまた、別の話。
何十年かのち、北の辺境の城で、銀縁の眼鏡をかけた青年が、帳簿の余白に名前を書く癖を、叔母の手紙から覚えることになるのだけれど、それもまた、別の話。
荷馬車が、門の前で止まる。
「お姉さん!」
荷台から、ティモくんが飛び降りてくる。
咳は、もうしていない。シモン祭司さまの礼拝堂で、ひと冬ぶりに温かい寝床で眠って、温かいものをお腹いっぱい食べて、すっかり治ったのだそうだ。残っていたあの甘いお茶は、喉がいがらっぽい晩にだけ、少しずつ。おかわりをねだっては、アロイスさんに叱られながら。
「ねえ、王都に、オリーブはある?」
灰色がかった緑の目が、きらきらと私を見上げる。
私は、少し考えてから、正直に答えた。
「ないの。王都の冬は、オリーブには寒すぎるんですって」
「……そっかあ」
ティモくんは、少しだけ、しゅんとする。
そのとき、荷台からアロイスさんが降りてきた。
腕に、布でくるんだ細長いものを抱えている。
「ベルネ様。これを」
布をそっと開くと、中から、湿った苔に包まれた枝が何本も。
まだ固い芽が、ぽつぽつとついている。
「梨の接ぎ穂です。ご先祖さまの、ノアとエマという夫婦が、種から育てた梨の木の枝で」
アロイスさんは、大事そうに枝を撫でる。
「百年近く、丘のいちばん奥に立っていたんですが、去年の嵐で、とうとう倒れちまいまして。枝だけは、守ってきました。梨なら、王都の冬にも負けません」
――種から育てた、梨。
どうしてだろう。
会ったこともない、百年も前の夫婦のことを思ったら、胸の奥が、じんと温かくなった。
「王立薬草園の端に、植える場所をもらってあります。ヴィクトル様が」
「まあ。いつのまに」
「お嬢様には内緒にしておけと、言われたんですがね」
アロイスさんが、肩をすくめて笑う。
枝を受け取ったとき、ふわりと、百合の香りがした。
王都の南の門の、石畳の上で。
春のはじめに、百合なんて咲いていないのに。
ティモくんが、鼻をひくひくさせる。
「いいにおい。お姉さん、なんの花?」
「……なんの花かしらね」
私は、しゃがんで、ティモくんと目の高さを合わせる。
シモン祭司さまが、私にしてくれたみたいに。
「ティモくん。王都にオリーブはないけれど、あなたの目の色は、ちゃんと帳面に書いておくわ。オリーブの葉の、裏の色。それなら、王都でもなくならないでしょう」
ティモくんは、ぱちぱちとまばたきをして、それから、にかっと笑った。
「じゃあ、おれ、大きくなったら、子どもにも言う。じいちゃんが言ったみたいに。オリーブの葉っぱの、裏の色だって」
ミアが、くすっと笑って、ティモくんの荷物を持ってやる。
「ほら、重いでしょう。ハーゼ村の子は、王都の坂に慣れてないんだから」
「ミア姉ちゃんだって、ハーゼ村じゃん」
「あたしは、もう三年も王都にいるの」
二人が、言い合いながら門をくぐっていく。
その後ろ姿を、アロイスさんが、困ったような、うれしいような顔で見ている。
私は、ドレスの隠しから、手紙を一通、取り出す。
今朝、シモン祭司さまから届いたものだ。
丁寧で、少し震えた字だった。
『クララさん。
今週から、祈りの帳面に、あなたのお名前も書いておきます。
三年分、遅れてしまいましたが。
シモン』
三年間、祈ってほしい人の名前を、毎週箱に入れてきた。
ミアの名前。ティモくんの名前。オイゲンさんの名前。熱を出した書記さんの名前。
自分の名前だけは、一度も書かなかった。
書いていいと、思ったことがなかった。
その名前が、今週から、誰かの帳面に載る。
手紙を、帳面の頁のあいだに挟む。
乾いたオリーブの葉の、隣に。
門の向こうから、ティモくんが振り返って、大きく手を振る。
「お姉さーん! クララお姉さーん!」
私の名前を、呼んでいた。
(了)




