第7話 薬草茶は甘かった
十 あの日の声
宰相府の役人たちが、侯爵様と大司教様の両脇に立つ。
連れて行かれる大司教様の道は、ちょうど、南の村の人たちの前を通っていた。
金糸の祭服が、ティモくんの前にさしかかる。
そのとき、ティモくんが、こほ、と小さく咳をした。
シモン祭司さまのお茶で、ずいぶん治まっていた咳。ほんの一つだけ。
大司教様の体が、びくりと引いた。
祭服の裾を、さっとたぐり寄せる。九つの男の子から、遠ざけるように。
「……近寄らせるな」
低い、つぶやきだった。
口から、勝手にこぼれたような声。
ホールが、しんとした。
あの雨の日、私だけが聞いた声。
それを今、ホールじゅうが聞いていた。陛下も。貴婦人たちも。さっき大司教様の説教に、ありがたそうにうなずいていた人たちも。
大司教様は、はっとして顔を上げた。
何百もの目が、自分を見ていることに、やっと気づいたように。
何か言おうとして、唇が動く。
でも、もう、あのきれいな声は出てこない。
シモン祭司さまが、黙って、擦り切れた祭服の袖でティモくんの肩をくるんだ。
ティモくんは、きょとんとして、それから、アロイスさんの外套の裾をぎゅっと握る。
何が起きたのか、よく分かっていない顔。
それでいい、と思った。
分かっていなくていい。
あの雨の日の声を、今夜は、ホールじゅうが聞いた。それだけで、いい。
陛下が、立ち上がる。
「南の果樹園の土地の証文は、すべて無効とする。関所の通行料は、嵐の前の額に戻す。義援の夜会で集めた金は、宰相府が預かり、南の村へ届ける。ラウエンシュタインとクレメンスの処分は、追って沙汰する」
義援の夜会で集めた金。
その言葉を聞いたとき、頭のどこかで、何かが引っかかった。
――ちりん。
今夜、何度も聞いた音。
「……陛下」
気づいたら、また声が出ていた。
怖かった。陛下のお言葉をさえぎるなんて、男爵家の娘のすることではない。間違っていたら、今度こそ、本当に終わりだ。
百合の香りは、しなかった。
それでも、胸の奥が、静かに温かかった。裏の階段で、祭司さまに膝をついてもらったときと、同じ温かさ。
――匂いがしても、しなくても。
言っていい、と思った。
「その献金箱は、たぶん、空です」
ホールが、きょとんとした。
「今夜、金貨が落ちる音を、ずっと聞いていました。百三十八枚。最後の一枚まで、一枚目と同じ音でした。ちりん、と澄んだ音」
変なことを言っている、と自分でも思う。でも、止まらない。
「空の銀の箱に落ちる金貨は、ちりん、と鳴ります。でも、金貨が百枚もたまった箱なら、金貨の上に金貨が落ちるはずです。じゃらり、と鳴るはずなんです」
閣下が、ちらりと私を見た。それから、衛兵に目で合図をする。
衛兵が二人、入り口の献金箱を、金糸の布をかけた台ごと運んできた。
蓋を開けると、底に、金貨が二枚だけ。
その底板を指で押すと、かたり、と下へ抜けた。
衛兵が、金糸の布をめくる。台の中は、空洞だった。そこから、ずしりと重い革袋が一つ。
革袋の口に、紙が一枚、結わえてあった。
閣下がほどいて、目を落とす。それから、黙って私に渡した。
見覚えのある字だった。侯爵家の執事さんの、几帳面な字。
『ベックマン殿へ。南の地代、残りの分。証文と引き換えに』
ベックマン。
一週間前に見た、あの証文の買い手の名前。
頭の中で、数字が、かちりと揃った。
南の村のために集めた金貨で、南の村の土地を買う。借金で手放させた畑を、二束三文で。買った土地は、ベックマンという名前を通して、侯爵様と大司教様のものになる。
大聖堂の祭壇でさえ、なかった。
イザベラ様が、床に座りこんだまま、紙を見上げていた。祭壇の寄進を約束されて、婚約破棄の芝居を手伝った人。その顔から、色が抜けていく。
南の村の人たちの涙で集めた金貨は、全部、二人の懐に入るはずだったのだ。
「……革袋ごと、宰相府へ」
陛下の声は、少しも高くならなかった。
「陛下。もうひとつ」
閣下が、一歩、前に出る。
「ベルネ嬢の身柄は、今夜から、宰相府が預かります」
ホールが、ざわめく。
連れて行かれかけた侯爵様が、足を止めて振り返る。エドガー様が、床に座りこんだまま顔を上げる。
閣下は、私の隣に立ったまま、ほんの少しだけ、言葉を切る。
「――いや。訂正します」
灰色の目が、ホールじゅうを、ゆっくりと見渡す。さっき扇の陰で笑っていた貴婦人たちを。私の足もとにハンカチを落とした人を。帳簿を一度も開かなかった人を。
「私が、預かります」
しん、とした。
陛下の眉が、ほんのわずかに上がる。それから、口の端が、ゆるむ。
貴婦人たちの扇が、いっせいに止まる。エドガー様の顔から、最後の血の気が引いていくのが見えた。
私は、何を言われたのか、分からなかった。
預かる、というのは、宰相府で働かせてくださる、という意味だろうか。分からないまま、頬だけが、ひどく熱かった。
侯爵様と大司教様が、ホールから連れ出されていく。
金糸の祭服の裾が、扉の向こうに消えた。
そのとき、ティモくんが、また咳きこんだ。
こほ、こほ、と、小さな背中が丸くなる。
床に座りこんでいたイザベラ様が、びくりと身を引いた。
白いドレスの裾を、両手でたぐり寄せる。ティモくんから、一寸でも遠くへ。それから、レースの手袋の手で、口もとを覆った。
「……近寄らせないで。うつりますわ」
叔父さまと、同じ言葉だった。
シモン祭司さまは、何も言わない。擦り切れた祭服の袖で、ティモくんの肩を、もう一度くるみ直すだけ。
イザベラ様は、それを見ても、裾を離さなかった。
金の聖印が、胸もとで、冷たく光っている。
十一 薬草茶
ホールは、蜂の巣をつついたような騒ぎ。
南の村の人たちが、互いに抱き合って泣いている。
オイゲンさんが、アロイスさんの肩につかまって、何度も頭を下げている。アロイスさんは、黙ってその背中を叩いている。
ミアが、ティモくんの前にしゃがんで、何か話しかけている。そういえば、ミアもハーゼ村の出身だと聞いたことがある。
私は、緋色の外套に包まれたまま、帳面を胸に抱いて、ぼんやり立っている。
手が、また震えはじめていた。今度は、止まらない。
閣下が、私の隣に立つ。
騒ぎのなかで、私にだけ聞こえるくらいの、低い声。
「薬草茶は、甘かった」
――え。
私は、ゆっくりと顔を上げる。
夜の湖みたいな、灰色の瞳。
眼鏡の奥のその目が、ほんの少しだけ、困ったように細められている。
「……え?」
「襟巻は、妹が離さない。ロッテという。十二歳だ」
帳面を抱いた腕から、力が抜けていく。
頭の中が、真っ白になる。
さっきの、「甘いだろう」。
夜中の返事。蝋燭のしずく。ひとこと多い手紙。
『余白に名前を書くのはやめてください』。
『もう諦めました』。
『その子の名前を、もう一度書いてください。今度は余白ではなく、本文に』。
『夜中なら、起きています』。
「……書記の、ヴィクトルさん……?」
「ヴィクトル・フォン・アルスター。南の関所の報告書だけは、三年間、自分で受け取っていた」
閣下は、なぜか少し目を逸らす。
「最初の報告書が、あまりに読みやすかったので」
膝が、かくんと抜けた。
閣下の腕が、さりげなく背中を支えてくれる。
四十くらいで、背中が少し丸くて、眼鏡が鼻の先までずり落ちている人。
私の中のヴィクトルさんは、ずっと、そういう人だった。
目の前の人は、背がすらりと高くて、背中はまっすぐで、眼鏡はずり落ちるどころか、人さし指一本で、いつもきちんと押し上げられている。
全然、違う。
全然、違うのに、あの硬くて角ばった字と、同じ人だとわかる。
「わ、私、閣下に……お給金が少ないなら無理しないでって……」
「書いてあった」
「妹さんのためにも、まずご自分がって……」
「それも、書いてあった」
「け、毛糸の襟巻を……」
「妹が離さない、と書いた」
「……さ、宰相閣下は氷みたいな方だそうですから、書記さんもさぞご苦労を、って……」
「それも、書いてあった。二度」
二度。
穴があったら入りたい。
いや、穴を掘ってでも入りたい。
それなのに、口が勝手に動く。
「そ、それに、さっき、閣下もあのお茶を飲んだのかと思って……ちょっとだけ、ずるいって」
「……それは、書いていなかった」
「心の中で、です」
閣下が、眼鏡を押し上げた。
ずれてもいない眼鏡を。
「じゃ、じゃあ、立て替えのことも……」
「関所の帳簿の『立替』の字が、貴女の字だった。数字の七の書き方に、癖がある」
閣下の口の端が、ほんの少しだけ上がる。
氷が、ひと欠け溶けたみたいに。
「外へ出よう。ここは、少し騒がしい」




