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婚約破棄された夜、文通相手の書記さんが宰相閣下だと知りました  作者: 真白のあ


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第6話 ロウの名

八 ロウの名


「た、たかが、帳簿の余白だ!」


 侯爵様の声が、震えはじめている。


「そんなもので、ラウエンシュタイン家を……!」

「もう一つ、あります」


 私は、帳面の頁をめくる。


 手は、もう震えていない。


「陛下。一週間前、侯爵家の帳簿の棚で、この証文の写しを見つけました」


 ベックマンという商人が、南の果樹園の土地を買い取った証文。


 借金を返せなくなった村の人たちから、二束三文で。侯爵家の印が押してある。


「売り手の欄に、『ハーゼ村、アロイス』とあります。印は、十字です。字の書けない人が使う印です」


 ホールが、またざわめく。


「でも、アロイスさんは、字が書けます。私の帳面に、三年間、毎年署名してくださいました」


 私は、帳面の真ん中あたりの頁を開く。


 そこには、一枚の葉。


 乾いて、少し色が褪せている。でも、まだ、裏の銀色が残っている。関所の雨の日に、泥の中から拾った、オリーブの葉。


 その隣の頁に、アロイスさんの署名が、三年分並んでいる。


 アロイス・ロウ。


 アロイス・ロウ。


 アロイス・ロウ。


 どの署名の最後にも、小さなオリーブの葉が一枚、描き添えてある。


「アロイスさんは、必ず姓まで書きます。そして、最後に葉を一枚描きます。ご先祖さまの代からの、習いだそうです。……この証文を作った人は、アロイスさんの姓を、知らなかったんです」


 閣下が、ホールの入り口に、短く合図をする。


 扉が、開く。


 夜風と一緒に、人が入ってきた。


 日に焼けた顔。粗末な上着。泥のついた靴。


 十人、二十人。女の人も、年寄りもいる。義援の夜会の、きらきらしたホールに、場違いなくらい質素な人たち。


 南の果樹園の村の、人たち。


 その先頭に、アロイスさんがいた。


 そして、アロイスさんの外套の裾を握って、小さな男の子が。


 ――ティモくん。


 ティモくんは、きょろきょろとホールを見回して、私を見つける。


 ぱっと、顔が明るくなった。


「手ぬぐいの、お姉さんだ」


 そう言ったとたん、ティモくんは、体を折って咳きこむ。


 ごほ、ごほっ、ごほ。


 止まらない。小さな背中が、ひきつるように震えている。


 ホールの貴婦人たちが、扇で口もとを覆って、一歩下がる。


 シモン祭司さまが、オイゲンさんのそばを離れて、すっとティモくんの前に膝をつく。


 背中を、ゆっくりとさする。それから、懐から小さな瓶を取り出す。


「これを、少しだけお飲みなさい」


 ティモくんは、瓶を見て、顔をしかめる。


 薬は苦いものだと思っているのだろう。ぎゅっと目をつぶって、鼻をつまんで、咳の合間に、瓶に口をつけた。


 こくん、と一口。


 つぶっていた目が、ぱちりと開く。


「……あまい」


 ホールの真ん中に、九つの男の子の声が響く。


「あまい。……あれ?」


 ティモくんは、鼻をつまんでいた手を離して、瓶に鼻を近づける。


 干し無花果と、セージと、メリッサの匂い。


「これ、うちの茶だ。父さん、これ、うちの薬草茶だよ」


 それから、もう一口。今度は、ゆっくりと。


「……嵐のあと、はじめて飲んだ」


 アロイスさんが、目を丸くする。


「シモン師、それは……」

「宰相閣下から、分けていただいたものです。ある方が、熱を出した閣下のために送ってくださったのだとか」


 閣下が、横を向く。


「甘いだろう」


 ぼそりと、それだけ。


 ――え?


 私は、閣下の横顔を見た。


 閣下は、こちらを見ない。


(……甘い、って。閣下も、あのお茶を飲んだのかしら)


 書記さんが、上司に分けたのだろうか。熱を出した書記さんのために、最後のひと袋を送ったのに。


(……ちょっとだけ、ずるい)


 喉が、温まったのだろう。ティモくんの咳が、少しずつ、間遠になっていく。


 シモン祭司さまの礼拝堂に、村の人たちが三日前から身を寄せていたのだと、閣下が陛下に申し上げた。


 関所で取り上げられた訴えの手紙が、二度目に宰相府に届いた。それで、話を聞くために呼んだのだと。


 陛下が、アロイスさんを見る。


「アロイス。名を書いてみせよ」


 侍従長が、紙とペンを差し出す。


 アロイスさんは、陛下の前に膝をつく。ペンを持つ手が、少し震えている。


 でも、書きはじめると、震えは止まった。


 すらすらと、ペンが紙の上を走る。


 きれいな字だった。村の農家の人の字だとは、誰も思わないくらいの。


 アロイス・ロウ。


 そして最後に、小さなオリーブの葉が一枚。


 侍従長が、それを証文の写しの隣に並べる。


 姓のない名と、十字の印。


 姓のある名と、オリーブの葉。


 陛下の目が、その紙の上で、止まる。


「……ロウ」


 陛下が、低くつぶやく。


「ロウと言ったか。川下の、ロウか。百年ほど前、帝国に攻め落とされた」


 アロイスさんが、驚いたように顔を上げる。


「……ご存じなのですか。うちでは、昔話だと思っておりましたが」

「王家の記録に残っている。帝国の兵を、国境で最後まで食い止めた家だ。当主と嫡男は城とともに死に、家は絶えたとされている」


 陛下は、ゆっくりと言う。


「絶えて、いなかったのだな」


 ホールが、しんとした。


 そのとき、閣下が、一歩前に出る。


 ティモくんの前にしゃがんで、その顔を、まっすぐ見る。


 灰色がかった、緑の目。


 オリーブの葉の、裏の色。


 閣下の、氷みたいな顔が、ほんの少しだけ、揺れたように見えた。


 閣下は、何も言わない。ただ、ティモくんの目を見ている。


「宰相」


 陛下が、静かに呼んだ。


「その子の、何を見ている」

「……目を、です。陛下」


 閣下は、ティモくんから目を離さずに答えた。


「私の妹と、同じ目です」


 ティモくんが、きょとんとする。


「私の母の祖母は、ロウの出でした。帝国が川を渡る前に、王都に嫁いでいた娘です。母の家では、この目を『ロウの目』と呼んでいました。私には出なかったが、妹のロッテには出た」


 ざわっ、とホールが揺れる。


 私は、息をするのも忘れていた。


 侯爵様が「賤しい南の農民」と呼んだ一家が、帝国から国境を守って滅んだ家の、最後の血筋。


 苗を轢かれた男の子の目が、宰相閣下の妹さんと、同じ色だった。


「――なぜだ」


 侯爵様が、呻くように言う。


「なぜ、関所で取り上げたはずの手紙が、宰相府に……」


 言ってから、侯爵様は、はっと口を押さえる。


 遅かった。


 ホールにいた全員が、聞いていた。


 取り上げたはず、と。侯爵様自身の口から。




九 神の名において


「衛兵!」


 声を上げたのは、大司教様。


 金糸の祭服を翻して、長椅子から立ち上がる。顔が、蝋燭みたいに白い。


 それでも、あの、きれいな声だった。


「神の名において命じます。この者たちを、外へ出しなさい! 嵐に罰せられた不信心の民を、神聖な義援の場に入れるなど――」


 衛兵たちは、動かない。


 誰一人。


 槍を立てたまま、まっすぐ前を見て、立っている。


「聞こえないのですか! 神の名において、と言っているのです!」


 大司教様の声が、裏返る。


 衛兵の一人が、ちらりと陛下のほうを見る。


 陛下は、何もおっしゃらない。


 ホールの真ん中で、シモン祭司さまが、まだティモくんの隣に膝をついている。


 擦り切れた祭服。黒ずんだ木の聖印。


 シモン祭司さまは、誰にも、何も命じていない。


 なのに、オイゲンさんは本当のことを話し、ホールの壁ぎわの人たちは手を打ち、ティモくんの咳は止まった。


 大司教様が何度、神の名を叫んでも、衛兵は誰も動かない。


 ――神さまの名前は、人を動かすための道具じゃないんだ。


 ふと、そう思った。


 どうしてそう思ったのかは、分からない。ただ、母が礼拝堂に名前の紙を持っていくときの、静かな横顔を思い出した。


「叔父さま……」


 小さな声。


 イザベラ様だった。


 エドガー様の腕から離れて、金の聖印を両手で握りしめている。


「叔父さま、お約束が違います。わたくし、婚約を破棄させるのを手伝えば、来年、聖女に立てていただけるって……侯爵さまが、大聖堂に新しい祭壇を寄進してくださるからって……」


 握って、握って、それでも金の聖印は、少しも温かくならないように見えた。


「わたくし、お茶なんて、どうでもよかったんです。ただ、言えと言われたから……」


 イザベラ様は、その場にへたりこむ。


 白いドレスの裾が、床に広がる。さっき、ハンカチが落ちた場所に。


 エドガー様は、ぽかんと口を開けて、父親を見ている。


「ち、父上……?」


 侯爵様は、答えない。


 何も知らなかったのだ、この人は。


 帳簿を一度も開かなかった人は、自分の家で何が起きていたのかも、自分がどう使われたのかも、何ひとつ。


 閣下が、エドガー様を見る。


「エドガー殿。明日から、侯爵家の帳簿は、あなたがつけることになる」


 それから、少しだけ間を置いて。


「余白に、名前を書くところから」


 エドガー様の膝が、がくりと折れた。


 これで、終わったと思った。


 このときの私は、ホールの入り口の、銀の献金箱のことを、まだ何も考えていなかった。


 今夜、百三十八回、同じきれいな音を立てた箱のことを。


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