第5話 王が栄誉を与えたいと思う者
六 王が栄誉を与えたいと思う者
「宰相」
上座から、声がした。
低くて、少しかすれた、年配の男の人の声。
ホールじゅうの人が、いっせいにそちらを向いて、あわてて頭を下げる。
陛下だった。
婚約破棄の騒ぎのあいだも、着服の告発のあいだも、一言もおっしゃらなかった陛下が、肘掛けから頬杖を外していらした。
「余が命じておいた記録は、揃ったか」
「はい、陛下」
閣下が、侯爵家の帳簿を閉じて、脇に控えていた宰相府の役人から、薄い綴りを受け取る。
「嵐のあとの冬、南の関所を通った荷車の記録です。陛下の仰せにより、南の嵐でもっとも民を救った者を、今夜この場で明らかにいたします」
侯爵様の背筋が、すっと伸びる。
――ああ、そうか。
私は、やっと分かった。
今夜、陛下が南の恩人に栄誉を与える。その恩人は、もちろん、義援の夜会を開いた侯爵様だ。少なくとも侯爵様は、そう信じている。
婚約を破棄して、帳簿係の娘を泥棒にして、そのうえで陛下から栄誉を受ける。今夜は、侯爵様のための夜だったのだ。
閣下が、綴りを開く。
氷のような声が、ホールに響く。
「嵐のあとの冬。三倍の通行料を払えず、関所で追い返された荷車は、九十二台。そのうち四十台分の通行料を、名を伏せて、立て替えた者がいる」
――え。
心臓が、止まりそうになった。
「関所の帳簿には、ただ『立替』とだけ記されている。その四十台が運んだ果樹の苗と実は、無事に王都の市場に届いた。四十の家が、それで冬を越した」
ホールが、ざわめいた。
私は、外套の中で、体を固くする。
それは、私だ。
母の形見の、真珠のブローチ。
母が亡くなるとき、私の手に握らせてくれたもの。「クララが本当に困ったときに、使いなさい」と言って。
関所の雨の日から王都に戻った夜、私はブローチを手のひらに載せて、長いこと眺めていた。
困っているのは、私ではない。母との約束とは、違う。
それでも、ティモくんの、泥の中で苗をすくおうとしていた手が、頭から離れなかった。
翌朝、質屋の前で、もう一度だけ迷った。
そのとき、ふわりと、百合の香りがしたのだ。王都の裏通りの、石畳の上で。
それで、扉を開けた。
そのお金を関所の役人に渡して、払えない荷車の分を立て替えた。名前は出さないでほしいと頼んだ。侯爵家の帳簿係が勝手にそんなことをしたと知れたら、困ったことになるから。
質屋の受け取りと、どの荷車の分を払ったかの控えは、私の帳面の、いちばん後ろの頁に挟んである。
誰にも、言っていない。
ヴィクトルさんにさえ。
――どうして、宰相府が。
「名を伏せた者の素性は」
陛下が、静かに尋ねた。
「先に、ひとつ伺いたい」
陛下の目が、ゆっくりと侯爵様に向いた。
「ラウエンシュタイン」
「はっ」
侯爵様が、深々と頭を下げる。
顔を上げたとき、その目は、かすかに潤んでいる。南の民を思う、慈悲深い領主の目。
「王が、栄誉を与えたいと思う者がいる。その者には、何をしてやるのがよいと思うか」
侯爵様の顔が、ぱっと明るくなる。
ほんの一瞬。
でも、私には見えた。献金箱の前で涙ぐんでいたときとは違う、心の底からの、喜びの顔。
――自分のことだと、思っている。
侯爵様は、胸に手を当てて、うやうやしく答えた。
「恐れながら、陛下。そのような者には、王家の紋章の外套を着せ、ホールの真ん中に立たせ、皆の前で、その者の名を三度、高らかに呼ばせるのがよろしいかと存じます。王が栄誉を与えたいと思う者は、こうされるのだと、国じゅうに知らしめるために」
陛下は、ゆっくりとうなずいた。
「よかろう」
侍従長が、緋色の外套を捧げ持って進み出る。王家の紋章が、金糸で縫い取られている。
侯爵様が、待ちきれないように半歩、前に出る。
「では、ラウエンシュタイン。そなたが呼べ」
陛下の声は、少しも高くならなかった。
「――クララ・ベルネの名を」
ホールが、凍りついた。
侯爵様の顔から、表情が、すとんと抜け落ちる。
前に出かけた足が、そのまま止まって。
私も、動けなかった。
閣下が、私の肩から自分の外套を外す。侍従長が、緋色の外套を、かわりに私の肩にかける。重い。金糸の刺繍が、燭台の光できらきらと光る。
「ベルネ嬢」
閣下が、私にだけ聞こえる声で言う。
「帳面の、いちばん後ろの頁を」
私は、震える手で帳面を出して、最後の頁を開く。
質屋の受け取り。真珠のブローチ、一点。それから、四十台の荷車の持ち主の名前と、立て替えた額の控え。
その下から、硬くて角ばった字の手紙が、ちらりとのぞいた。
夜中なら、起きています。
私はあわてて、それを指で隠した。閣下の目が、ほんの一瞬、そこで止まった気がした。
侍従長がそれを受け取って、陛下の前に差し出す。陛下は黙って目を通して、うなずいた。
「ブローチは、母君の形見か」
「……はい」
「そうか」
陛下は、それだけおっしゃった。
閣下の手が、私の背中を、そっと押す。
ホールの真ん中へ。
さっき、婚約を破棄された場所。
さっき、白いハンカチが落ちた場所。
私は、そこに立った。
「ラウエンシュタイン」
陛下が言う。
「聞こえぬのか」
侯爵様の唇が、震える。
一度目は、声にならなかった。
喉の奥で、ひゅう、と息が鳴っただけ。
「聞こえぬ」
陛下の声が、ホールに響く。
「――ク、クララ・ベルネ」
二度目は、かすれていた。
私の名前を、侯爵様が呼んでいる。三年間、帳簿係としか呼ばなかった人が。泥棒として私の名を告げたのと、同じ口で。
「もう一度。王が栄誉を与えたいと思う者の名を、そなたが申したとおり、高らかに」
侯爵様の顔は、真っ赤から、真っ白に。
ホールじゅうの目が、侯爵様に注がれている。さっきまで私に注がれていた、扇の陰の目が。
「クララ・ベルネ……!」
三度目の声は、震えて、裏返る。
しん、と静まる。
それから、ホールの壁ぎわで、誰かが、ぱちん、と手を打った。
侍女のミアだった。盆を床に置いて、両手を打ち鳴らしている。真っ赤な顔で、泣きながら。
隣で、従僕のトムが手を打つ。厨房のグレタ婆さんが。門番のルドルフさんが、杖を脇に挟んで。
ぱちぱちと、拍手が広がっていく。
壁ぎわから、ホールの中ほどへ。扇を閉じた貴婦人たちへ。
私は、緋色の外套の中で、立ちつくしている。
七 余白の名前
「お待ちを、陛下!」
侯爵様の声が、拍手を裂く。
さっきまでの、悲しげな慈悲深い声ではない。
低く、硬く、追いつめられた獣みたいな声だった。
「立て替えの件は、よろしい。娘の殊勝な心がけは、認めましょう。ですが、着服の件は別だ。三年分、金貨千枚の差。帳簿は、この娘の字で書かれている。それは、変わらぬ事実です」
陛下は、何もおっしゃらなかった。
閣下が、さっき閉じた侯爵家の帳簿を、もう一度開く。
「ベルネ嬢」
閣下が、帳簿を私の前に差し出す。
「あなたの帳簿か」
私は、緋色の外套の袖から手を出して、帳簿を受け取る。
三年間、毎晩つけてきた帳簿。
表紙の手ざわりも、紙の匂いも、知っている。
一頁ずつ、めくる。
私の字だ。
丁寧で、少し右に傾いた字。
そして、余白に、荷車の持ち主の名前。「ハーゼ村のアロイスさん、無花果の苗、二十本」。
めくる。
私の字。余白に名前。「オイゲンさん、杏、十二籠」。
めくる。めくる。
頭の中は、真っ白。
何を探せばいいのかも、分からない。ただ、手が勝手に頁をめくっている。
ふと、指が止まった。
どうしてその頁で止まったのか、自分でも分からない。
誰かに、そっと手を押さえられたような気がした。
その頁も、私の字。
丁寧で、少し右に傾いた、私の字にそっくりな字。数字が、きちんと並んでいる。
でも、余白が、真っ白だった。
名前が、一つもない。
次の頁も。その次の頁も。
王家に納めた額と、集めた額に差がある頁だけ、余白に、誰の名前もない。
心臓が、どくどくと鳴る。
頭の中で、また数字がかちりと音を立てた。
今度は、揃ってほしかった。
でも、声が出ない。陛下の前で、侯爵様に逆らうなんて。
背中に、手袋越しの手が、そっと添えられる。
「続けなさい」
耳のすぐそばで、低い声がした。私にしか聞こえない声。
それだけで、喉の奥の固いものが、ほどけた。
「……陛下」
声が出た。
自分でも驚くくらい、はっきりした声。言葉が、次から次へと、胸の奥から上がってくる。
「これは、私の帳簿ではありません」
ホールが、しんとした。
「何を言うか! どこからどう見ても、お前の字だ!」
侯爵様が叫ぶ。
私は、帳簿を開いたまま、陛下のほうへ向ける。
「はい。私の字に、よく似ています。でも、私の帳簿なら、余白に、荷車の持ち主の名前があるはずなんです」
私は、名前のない頁を指さす。
「私は、数字だけだと、誰のお金なのか分からなくなってしまうので……三年間、一頁も欠かさずに、余白に名前を書いてきました。癖なんです。宰相府の書記さんに、やめてくださいと叱られても、直りませんでした」
ホールのどこかで、誰かが小さく吹き出す。
「差のある頁だけ、余白が白いんです。誰かが、私の字をまねて、この頁だけ書き直したんだと思います」
侯爵様が、鼻で笑った。
「余白が白い。それだけか」
それだけでは、ない。
私は、頁を戻す。去年の冬の、あの雨の日の頁。名前のない、白い余白の頁。
「この日、荷車が十二台通って、三倍の通行料を納めたことになっています」
ホールの真ん中で、一度、息を吸う。
「でも、この日、南の関所を通った荷車は、一台もありません。私は、この日、関所にいました。通ったのは、侯爵様と大司教様の馬車だけです。荷車は、みんな、三倍の通行料を払えずに、追い返されました」
私は、自分の帳面を開く。同じ日付の頁。
そこに、オリーブの葉が、一枚、挟んである。
「関所の役人さんの控えにも、この日は『雨。通行なし』とあるはずです。……この頁を書いた人は、あの日、私の隣で、門が閉まるのを見ていたはずなのに」
侯爵様の顔が、ひきつった。
「た、たまたま書き忘れただけだろう。そんな言い分が――」
「書き忘れではない」
閣下が、静かに言った。
「侯爵。先ほど、証人が一人取り下げたところで、帳簿の字が変わるわけではない、と仰った。そのとおりだ。字は、変わらない」
閣下は、名前のない頁を、一枚ずつめくってみせる。
「だが、余白が白い。数字の七に、この人の癖がない。それに、三年前の頁にしては、インクが新しすぎる」
帳簿を読み上げるのと同じ声で、それだけを並べる。
――七の、癖。
どうして、閣下が、私の七の書き方を知っているのだろう。
考えるひまは、なかった。
「宰相府に、三年分の写しがある」
宰相府の役人が、もう一つ、分厚い綴りを差し出す。侯爵家から宰相府へ、毎季届けられてきた報告書の写しだ。
「宰相府に届いた報告書は、すべてベルネ嬢の手によるものだ。三年分、全頁の余白に、荷車の持ち主の名前がある」
閣下は、綴りの頁をめくって、陛下に示す。
「宰相府の仕事が増えて、迷惑していた」
今度は、ホールのあちこちで、笑いが漏れる。
あわてて扇で口を押さえる音が、ぱたぱたと続く。
私は、顔が熱くなった。
でも、その熱さは、さっきまでの恥ずかしさとは、少し違う。
――仕事が増えて、迷惑していた。
どこかで、聞いたことのある言い方だった。三年前の、そっけない返事の一行目みたいな。
(……書記さんの口ぐせは、上司ゆずりだったのね)
「報告書の数字と、この帳簿の数字が、名前のない頁だけ違う。宰相府に届いた数字のほうが、関所の役人の控えと合っている」
閣下が、帳簿を閉じる。
「差を作ったのは、帳簿係ではない。帳簿係の字をまねて、頁を書き換えさせた者だ」
ホールの隅で、誰かが、ぼそりと言う。
「……三年分を、一頁ずつ、名前つきで突き合わせとったんか。なんちゅう帳面や」
南の商会の会頭さんだった。毎年、侯爵家に通行料の割り増しを払わされてきた人だ。扇の陰で笑っていた貴婦人たちが、いっせいにそちらを振り向く。
私は、帳面の真ん中の頁に、指をかけた。
まだ、ある。
泥の中から拾った、オリーブの葉を挟んだ、あの頁が。




