第4話 箱の中の名前
四 二つめの罠
ホールに戻ると、ざわめきがぴたりと止んだ。
婚約を破棄されたばかりの女が、氷の宰相の外套を肩にかけて戻ってきた。そのうしろから、擦り切れた祭服の老人がついてくる。
誰もが、目を疑う顔をしている。
侯爵様が、長椅子からゆっくりと立ち上がった。
さっきまでの満足そうな顔は、どこにもない。
かわりに、悲しみに沈んだ、慈悲深い領主の顔。
「アルスター閣下。ちょうどよいところに」
低くて、少し震える声。献金箱の前で、南の民は私の子も同然だと言ったときと、同じ声だった。
「実は今夜、陛下と皆さまの前で、申し上げねばならぬことがございます。息子の婚約者だった娘のことです」
ホールが、しんとした。
「ベルネ嬢には、三年間、我が家の帳簿をまかせてまいりました。ところが先日、執事が南の関所の帳簿を調べましたところ……」
侯爵様は、そこで言葉を切る。
目もとを、指で押さえて。
「関所で集めた通行料と、王家に納めた額に、大きな差がございました。三年分で、金貨にして、千枚あまり」
ざわっ、とホールが揺れた。
「帳簿は、すべてベルネ嬢の字で書かれておりました。……信じたくはなかった。息子の妻になる娘です。けれど、南の民が嵐で苦しんでいるときに、その民から集めた金を、まさか」
足もとの床が、ぐらりと傾く。
違う。
私は、そんなこと。
言おうとした。でも、声が出なかった。
侯爵家の帳簿は、確かに私の字だ。三年間、ほとんど全部。
誰が見ても、私の字。
――ああ、そういうことだったのか。
婚約破棄は、最初の一歩にすぎなかった。
私を侯爵家から追い出して、帳簿の差を全部、私のせいにする。私が証文のことを何と言っても、着服した女の言い逃れにしか聞こえないように。
だから侯爵様は、さっき少しも驚かなかったのだ。
頭の中で、ばらばらだった数字が、かちりと音を立てて揃った。
揃ってほしくなかった。
「証人もおります」
侯爵様が、悲しげに手を上げる。
ホールの奥から、男が二人、進み出る。
一人は、侯爵家の下役の人。私も顔だけは知っている。
もう一人は、粗末な上着を着た、痩せた男の人。
帽子を握りしめて、うつむいている。日に焼けた首筋。荷車を引く人の、太い腕。
息が、止まった。
――オイゲンさん。
ハーゼ村の、荷車引きのオイゲンさん。
借金で困っていると聞いて、毎週、礼拝堂の箱に名前を入れていた人。
「この娘が、関所で、帳簿にない金を受け取るのを見ました」
下役の人が、はっきりと言う。
オイゲンさんは、顔を上げない。帽子を握る手が、白くなるほど震えている。
「……見ました。お、俺も」
かすれた声だった。
扇の陰で、誰かが「やっぱり」と囁く。
イザベラ様が、エドガー様の腕に顔を埋めて、肩を震わせている。泣いているのか、笑っているのか、分からない。
大司教様が、長椅子から立ち上がる。
金糸の祭服が、燭台の光できらめく。
「なんと痛ましい。南の民の嘆きを食い物にするとは」
あの、のんびりした、きれいな声だった。
「神の名において。衛兵、この娘を捕らえなさい」
ホールの扉のそばに控えていた衛兵たちが、こちらへ歩いてくる。
膝が、震える。
肩にかけられた外套の重みだけが、私をかろうじて立たせている。
胸もとの帳面を、ドレスの上から握りしめる。
三年分の名前。それから、轢かれたオリーブの葉が一枚。
――忘れてやるもんか。
そう思ったのに。
今、ホールじゅうに覚えられようとしているのは、私の名前だった。泥棒として。
そのとき、隣で、閣下が一歩、前に出た。
「侯爵」
氷のように、静かな声だった。
「その帳簿を、見せていただこう」
――え。
私は、閣下の横顔を見上げた。
表情は、何も変わっていない。侯爵様の言葉を、そのまま受け取ったようにしか見えない。
(……書記さんの上司は、やっぱり、氷のお方だった)
あとで書記さんに、言いつけてやろう。
もう手紙は書けないのに、そう思った。
侯爵様の口もとが、ゆるんだ。
五 箱の中の名前
閣下は、侯爵様の下役から、分厚い帳簿を受け取った。
侯爵家の紋章が押してある。三年分の、南の関所の帳簿。私が毎晩、灯りを最後に消してつけてきたものだ。
閣下は表紙を開いて、一頁目に目を落とす。
何も言わない。表情も変わらない。
ただ、頁をめくる音が、ひどく速い。
ひと呼吸に、一頁。三年分を、この速さで読むつもりなのだろうか。
ときどき、その指が止まる。
止まるのは、決まって、余白に名前の書いてある頁だった。
ホールじゅうが、息をひそめて閣下を見ている。
侯爵様は、ゆったりと両手を組んで。
私は、立っているのがやっとだった。
そのとき、擦り切れた祭服が、するりと私の横を通りすぎる。
シモン祭司さまだった。
祭司さまは、衛兵のあいだを抜けて、二人の証人の前まで歩いていく。
侯爵家の下役の人ではなく、帽子を握りしめてうつむいている、オイゲンさんの前に。
そして、何も言わずに、膝をつく。
ホールが、ざわりとした。
祭司が、荷車引きの前に膝をついている。金糸の祭服の大司教様が、眉をひそめるのが見えた。
オイゲンさんが、びくりと顔を上げる。
目の前に、白い髭の老人の顔がある。見下ろされていない。目の高さが、同じだ。
「オイゲンさん」
祭司さまは、静かに名前を呼ぶ。
「王都の外れの礼拝堂の、シモンです。去年の冬から、毎週、あなたのお名前を呼んで祈っていました」
オイゲンさんの口が、ぽかんと開く。
「……お、俺の、名前を?」
「ええ。借金で困っている、荷車引きのオイゲンさん。毎週、箱に紙が入っていたのです」
祭司さまは、懐から古びた帳面を出して、その頁を開いてみせる。
一行を、指でたどる。
「これが、あなたの名前です。こちらの方が、書いてくださいました」
祭司さまの目が、私のほうを向く。
オイゲンさんも、私を見る。
関所で何度か会った女。毎年、アロイスさんの荷車から甘いお茶を買っていく、侯爵家の帳簿係の娘。
オイゲンさんの顔が、ぐしゃりと歪む。
「……う」
帽子が、床に落ちる。
大きな、荷車を引く手が、顔を覆う。
「うう……っ、うああああ……」
大の男が、ホールの真ん中で、子どもみたいに声を上げて泣きだした。
「違う。違うんです。俺は、見てません。何も、見てません」
「黙れ、オイゲン!」
侯爵家の下役が、怒鳴る。
オイゲンさんは、泣きながら首を振る。
「借金を、帳消しにしてやるって。言うとおりにしたら、畑を取り上げないでやるって。お嬢さまが金を受け取るのを見たと言えって、そう言われて……」
ホールが、大きく揺れる。
「俺の名前を、毎週……知らなかった。俺なんかの名前を、誰かが……」
あとは、言葉にならなかった。
ふわりと、百合の香りがした。
燭台と葡萄酒と、貴婦人たちの香水の匂いの中で、その香りだけが、すっと澄んでいる。
誰も気づいていない。シモン祭司さまだけが、ほんの少し、目を閉じた。
祭司さまは、オイゲンさんの背中に手を置いて、それきり何も言わない。
説教も、許しの言葉も。ただ、泣き終わるまで、そこに膝をついていた。
私は、外套の胸もとを握りしめている。
毎週、紙に名前を書いた。
祈っていただけたらいいな、と思っただけ。
それが、こんなふうに届くなんて。
「――哀れな男だ」
侯爵様の声。
少しも、揺らいでいない。むしろ、気の毒そうに首を振っている。
「借金に苦しむ者は、情にほだされやすい。祭司殿の芝居がかった振る舞いで、言うことが変わったにすぎませぬ。証人の一人が取り下げたところで、帳簿の字が変わるわけではない。そうでしょう、閣下」
閣下は、帳簿から目を上げない。
侯爵様は、口もとに薄い笑みを浮かべた。
そうだ。証人が一人いなくなっても、帳簿は私の字のままだ。
胸の奥が、また冷たくなりかけた。
そのとき。
上座で、誰かが、肘掛けから頬杖を外した。




