第3話 泣いていたら知らない祭司様に名前を呼ばれました
二 裏の階段
使用人用の階段は、夜会の光が届かない。
表の大階段には絨毯が敷いてあって、燭台がずらりと並んでいる。でも裏の階段は石がむき出しで、壁の小さな灯りがひとつあるだけ。
私は三年間、この階段を何百回も上り下りした。帳簿を抱えて厨房と執務室を行ったり来たりするのに、いちばん近い道だから。
石の段に、腰を下ろす。
ひやりとした冷たさが、ドレス越しに伝わってくる。
遠くで、また音楽が始まる。
私がいなくなったら、夜会はすぐ元どおりになる。そういうものだ。
泣くまい、と思った。
思ったのに、膝の上に、ぽたりと落ちた。
ぽたり。ぽたり。
青いドレスに、小さな丸い染みができていく。母の古いドレスを侯爵家に来るときに仕立て直したものだ。
こういうとき、いつもなら手紙を書く。
宰相府の、書記のヴィクトルさんに。
ヴィクトルさんとのやりとりは、三年前の秋に始まった。
南の関所の報告書を宰相府で受け取る係の人。最初の返事は、ひどくそっけなかった。
『報告書を受け取りました。数字に誤りはありません。ただし、余白に荷車の持ち主の名前を書くのはやめてください。こちらの仕事が増えます』
私は真っ赤になった。
帳簿の余白に名前を書くのは、私の癖なのだ。「ハーゼ村のアロイスさん、無花果の苗、二十本」というふうに。数字だけだと、誰のお金なのか分からなくなってしまう気がして。
次の報告書でも、つい書いてしまった。その次も。
三回目の返事は、こうだった。
『余白の名前については、もう諦めました。ところで、ハーゼ村のアロイスという男の荷車が、今季は来ていないようですが、何かありましたか』
読んで、声を出して笑ってしまった。
諦めました、って。そのくせ、余白の名前をちゃんと読んでいるのだ。
それから三年、報告書のたびに短い手紙をやりとりした。
ヴィクトルさんの返事は、いつも夜中に書かれていた。紙の端に、蝋燭のしずくが落ちていることがあったから分かる。
字は硬くて、角ばっていて、ひとこと多い。でも、余白の名前をいつも覚えていてくれた。
どんな人なのだろう、と思ったことは何度もある。
たぶん、四十くらい。背中が少し丸くて、指にインクの染みがあって、眼鏡が鼻の先までずり落ちている人。夜中まで報告書を読んでいるのだから、きっと目も悪い。
会ったことはないけれど、私の中のヴィクトルさんはだいたいそういう人だ。
去年の冬、ヴィクトルさんが熱で倒れたと、代わりの書記さんから知らせが来て。
私はあわてて、手もとに残っていたハーゼ村の薬草茶を最後のひと袋まで包んで送った。アロイスさんの家の、あの甘いお茶。
それから、手紙も一通。
『お給金が少ないなら、無理をしないでください。妹さんのためにも、まずご自分が倒れないこと。妹さんに、毛糸の襟巻を編みました。よかったら』
送ってから、顔から火が出る。
前の手紙に一度だけ「妹が、寒がりで」とあった。それだけで、会ったこともない殿方の、会ったこともない妹さんに、襟巻を編んだのだ。
夜中まで報告書を読む書記さんだもの。きっとお給金は少なくて、妹さんと二人、すきま風の入る部屋に住んでいるに違いない。
そう思ったら、手が勝手に編み棒を動かしていた。
返事は、たった一行。
『薬草茶は甘かった。襟巻は、妹が離さない』
何度読んでも、口もとがゆるんだ。
お礼より先に、お茶の味の感想を書く人が、どこにいるだろう。
それに、あの愛想のない字で「甘かった」と書かれると、なんだかこちらがくすぐったかった。
一度だけ、弱音を書いたことがある。
『数字が合わないと、夜、眠れなくなります。きっと、私の検算が悪いのだと思います』
返事は、いつもより少しだけ長かった。
『貴女の検算は、間違っていない。合わない数字は、合わないほうが正しいことがある。眠れない夜は、私に書いてください。夜中なら、起きています』
その手紙だけは、帳面のいちばん後ろに挟んである。読み返すと顔が熱くなるので、めったに開かない。
今夜は、開いた。
夜中なら、起きています。
その一行がにじみそうになって、あわてて袖で目を押さえた。
――でも、もう書けない。
婚約を破棄された女の手紙なんて、宰相府に届いたら、ヴィクトルさんに迷惑がかかる。
一週間前に送った証文の写しも、今ごろどこかの棚の奥で埃をかぶっているかもしれない。
「冷えますよ。こんなところに座っていては」
声がした。
顔を上げると、階段の下に、年老いた祭司さまが立っていた。
擦り切れた灰色の祭服。真っ白な髭。
胸の聖印は、金ではなかった。使いこんで黒ずんだ、木の聖印。何度も握ったのだろう、角がまるくすり減っている。
大聖堂の祭司さまたちは、夜会には金糸の祭服で来る。大司教様のように。
こんなに質素な祭司さまは、見たことがない。
祭司さまは、一段上がって、私の前にゆっくりと膝をついた。
見下ろされない。
目の高さが、同じになる。
それだけのことなのに、喉の奥が、きゅっと熱くなった。
誰かに目の高さを合わせてもらったのは、母が亡くなってから、初めてかもしれない。
「ご、ごめんなさい。お見苦しいところを」
「泣くときは、泣いていいのですよ。クララさん」
名前を呼ばれて、息が止まった。
「……どうして、私の名前を」
「王都の外れの、小さな礼拝堂を預かっております。シモンと申します」
祭司さまは、懐から古びた帳面を出した。
角がすり切れて、紙が波打っている。私の帳面と、少し似ていた。
「三年前から、礼拝堂の入り口の箱に、毎週、紙が入っているのです。祈ってほしい人の名前を書いた紙が」
どきり、とした。
祭司さまは、帳面の頁をめくりながら、ゆっくり読み上げる。
「ハーゼ村のアロイスさん、ティモくん。熱を出した書記さん。腰の悪い門番のルドルフさん。暇を出されそうな侍女のミアさん。それから……借金で困っている、荷車引きのオイゲンさん」
全部、私が書いた名前だ。
オイゲンさんは、関所で何度か会ったハーゼ村の荷車引きだ。嵐のあと、侯爵家に借金をして、返せなくなったと聞いた。
「いつも同じ字です。丁寧で、少し右に傾いた字。そして、いつも、ご自分の名前だけが書いてない」
祭司さまは、帳面を閉じる。
「差出人を探すのに、二年かかりました」
耳まで、かっと熱くなる。
見られていた。誰にも見られていないと思っていたのに。
あれは、母のまねなのだ。
母は生きていたころ、毎週、礼拝堂に祈ってほしい人の名前を書いて持っていった。母が亡くなってから、私はそれを続けている。侯爵家から行ける、いちばん小さな礼拝堂の箱に。
「……ただの、紙です。祈っていただけたらいいな、と思っただけで」
「ええ。ですから、毎週、祈りました。一人ずつ、名前を呼んで」
祭司さまは、それ以上、何も言わなかった。
説教も、慰めの言葉も。
ただ、私の胸もとに目を落とす。
気づくと、私の手は、ドレスの上から帳面を押さえたままだった。
「それは、大事なものですね」
「……はい。三年分の、関所の記録です。荷車の持ち主に一人ずつ聞いた、名前と、払った額と。それから」
言いかけて、やめる。
轢かれた葉のことまで話したら、また泣いてしまいそうで。
「その帳面は、何があっても、手放してはいけませんよ」
静かな声。
なのに、なぜだか背中がすっと伸びた。母に名前を呼ばれたときみたいに。
「祭司さま」
気づいたら、口から出ていた。
「私は……汚れでしょうか」
祭司さまは、答えなかった。
かわりに、私の左手を取る。
さっき、イザベラ様がハンカチで拭いたのと同じ側の、袖ごと。両手で、包むように。
思わず、手を引こうとして。
祭司さまは、離さない。
大きくて、乾いていて、温かい手だった。
木の聖印と同じ、使いこまれた手。
「私の目には、名前を一人ずつ書く手に見えます」
それだけだった。
ふわりと、百合の香りがした。
この季節に、百合なんて咲いていないのに。
「……祭司さま。今、花の匂いが」
祭司さまは、少しだけ目を細めた。
「あなたにも、匂いましたか」
「冬でも、ときどき、するんです。関所でも。……気のせいだと思っていました」
「わたしはね、匂わない日のほうが、ずっと多いのですよ」
祭司さまは、私の手を包んだまま言った。
「それでも、胸の中が、ふっと静かに温かくなることがある。匂いがしても、しなくても、たぶん同じ方がそばにおられるのだと、わたしは思っています」
ぽろり、と、また落ちる。
今度の涙は、さっきより温かかった。
階段の上で、靴音。




