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婚約破棄された夜、文通相手の書記さんが宰相閣下だと知りました  作者: 真白のあ


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3/11

第3話 泣いていたら知らない祭司様に名前を呼ばれました

二 裏の階段


 使用人用の階段は、夜会の光が届かない。


 表の大階段には絨毯が敷いてあって、燭台がずらりと並んでいる。でも裏の階段は石がむき出しで、壁の小さな灯りがひとつあるだけ。


 私は三年間、この階段を何百回も上り下りした。帳簿を抱えて厨房と執務室を行ったり来たりするのに、いちばん近い道だから。


 石の段に、腰を下ろす。


 ひやりとした冷たさが、ドレス越しに伝わってくる。


 遠くで、また音楽が始まる。


 私がいなくなったら、夜会はすぐ元どおりになる。そういうものだ。


 泣くまい、と思った。


 思ったのに、膝の上に、ぽたりと落ちた。


 ぽたり。ぽたり。


 青いドレスに、小さな丸い染みができていく。母の古いドレスを侯爵家に来るときに仕立て直したものだ。


 こういうとき、いつもなら手紙を書く。


 宰相府の、書記のヴィクトルさんに。


 ヴィクトルさんとのやりとりは、三年前の秋に始まった。


 南の関所の報告書を宰相府で受け取る係の人。最初の返事は、ひどくそっけなかった。


『報告書を受け取りました。数字に誤りはありません。ただし、余白に荷車の持ち主の名前を書くのはやめてください。こちらの仕事が増えます』


 私は真っ赤になった。


 帳簿の余白に名前を書くのは、私の癖なのだ。「ハーゼ村のアロイスさん、無花果の苗、二十本」というふうに。数字だけだと、誰のお金なのか分からなくなってしまう気がして。


 次の報告書でも、つい書いてしまった。その次も。


 三回目の返事は、こうだった。


『余白の名前については、もう諦めました。ところで、ハーゼ村のアロイスという男の荷車が、今季は来ていないようですが、何かありましたか』


 読んで、声を出して笑ってしまった。


 諦めました、って。そのくせ、余白の名前をちゃんと読んでいるのだ。


 それから三年、報告書のたびに短い手紙をやりとりした。


 ヴィクトルさんの返事は、いつも夜中に書かれていた。紙の端に、蝋燭のしずくが落ちていることがあったから分かる。


 字は硬くて、角ばっていて、ひとこと多い。でも、余白の名前をいつも覚えていてくれた。


 どんな人なのだろう、と思ったことは何度もある。


 たぶん、四十くらい。背中が少し丸くて、指にインクの染みがあって、眼鏡が鼻の先までずり落ちている人。夜中まで報告書を読んでいるのだから、きっと目も悪い。


 会ったことはないけれど、私の中のヴィクトルさんはだいたいそういう人だ。


 去年の冬、ヴィクトルさんが熱で倒れたと、代わりの書記さんから知らせが来て。


 私はあわてて、手もとに残っていたハーゼ村の薬草茶を最後のひと袋まで包んで送った。アロイスさんの家の、あの甘いお茶。


 それから、手紙も一通。


『お給金が少ないなら、無理をしないでください。妹さんのためにも、まずご自分が倒れないこと。妹さんに、毛糸の襟巻を編みました。よかったら』


 送ってから、顔から火が出る。


 前の手紙に一度だけ「妹が、寒がりで」とあった。それだけで、会ったこともない殿方の、会ったこともない妹さんに、襟巻を編んだのだ。


 夜中まで報告書を読む書記さんだもの。きっとお給金は少なくて、妹さんと二人、すきま風の入る部屋に住んでいるに違いない。


 そう思ったら、手が勝手に編み棒を動かしていた。


 返事は、たった一行。


『薬草茶は甘かった。襟巻は、妹が離さない』


 何度読んでも、口もとがゆるんだ。


 お礼より先に、お茶の味の感想を書く人が、どこにいるだろう。


 それに、あの愛想のない字で「甘かった」と書かれると、なんだかこちらがくすぐったかった。


 一度だけ、弱音を書いたことがある。


『数字が合わないと、夜、眠れなくなります。きっと、私の検算が悪いのだと思います』


 返事は、いつもより少しだけ長かった。


『貴女の検算は、間違っていない。合わない数字は、合わないほうが正しいことがある。眠れない夜は、私に書いてください。夜中なら、起きています』


 その手紙だけは、帳面のいちばん後ろに挟んである。読み返すと顔が熱くなるので、めったに開かない。


 今夜は、開いた。


 夜中なら、起きています。


 その一行がにじみそうになって、あわてて袖で目を押さえた。


 ――でも、もう書けない。


 婚約を破棄された女の手紙なんて、宰相府に届いたら、ヴィクトルさんに迷惑がかかる。


 一週間前に送った証文の写しも、今ごろどこかの棚の奥で埃をかぶっているかもしれない。


「冷えますよ。こんなところに座っていては」


 声がした。


 顔を上げると、階段の下に、年老いた祭司さまが立っていた。


 擦り切れた灰色の祭服。真っ白な髭。


 胸の聖印は、金ではなかった。使いこんで黒ずんだ、木の聖印。何度も握ったのだろう、角がまるくすり減っている。


 大聖堂の祭司さまたちは、夜会には金糸の祭服で来る。大司教様のように。


 こんなに質素な祭司さまは、見たことがない。


 祭司さまは、一段上がって、私の前にゆっくりと膝をついた。


 見下ろされない。


 目の高さが、同じになる。


 それだけのことなのに、喉の奥が、きゅっと熱くなった。


 誰かに目の高さを合わせてもらったのは、母が亡くなってから、初めてかもしれない。


「ご、ごめんなさい。お見苦しいところを」

「泣くときは、泣いていいのですよ。クララさん」


 名前を呼ばれて、息が止まった。


「……どうして、私の名前を」

「王都の外れの、小さな礼拝堂を預かっております。シモンと申します」


 祭司さまは、懐から古びた帳面を出した。


 角がすり切れて、紙が波打っている。私の帳面と、少し似ていた。


「三年前から、礼拝堂の入り口の箱に、毎週、紙が入っているのです。祈ってほしい人の名前を書いた紙が」


 どきり、とした。


 祭司さまは、帳面の頁をめくりながら、ゆっくり読み上げる。


「ハーゼ村のアロイスさん、ティモくん。熱を出した書記さん。腰の悪い門番のルドルフさん。暇を出されそうな侍女のミアさん。それから……借金で困っている、荷車引きのオイゲンさん」


 全部、私が書いた名前だ。


 オイゲンさんは、関所で何度か会ったハーゼ村の荷車引きだ。嵐のあと、侯爵家に借金をして、返せなくなったと聞いた。


「いつも同じ字です。丁寧で、少し右に傾いた字。そして、いつも、ご自分の名前だけが書いてない」


 祭司さまは、帳面を閉じる。


「差出人を探すのに、二年かかりました」


 耳まで、かっと熱くなる。


 見られていた。誰にも見られていないと思っていたのに。


 あれは、母のまねなのだ。


 母は生きていたころ、毎週、礼拝堂に祈ってほしい人の名前を書いて持っていった。母が亡くなってから、私はそれを続けている。侯爵家から行ける、いちばん小さな礼拝堂の箱に。


「……ただの、紙です。祈っていただけたらいいな、と思っただけで」

「ええ。ですから、毎週、祈りました。一人ずつ、名前を呼んで」


 祭司さまは、それ以上、何も言わなかった。


 説教も、慰めの言葉も。


 ただ、私の胸もとに目を落とす。


 気づくと、私の手は、ドレスの上から帳面を押さえたままだった。


「それは、大事なものですね」

「……はい。三年分の、関所の記録です。荷車の持ち主に一人ずつ聞いた、名前と、払った額と。それから」


 言いかけて、やめる。


 轢かれた葉のことまで話したら、また泣いてしまいそうで。


「その帳面は、何があっても、手放してはいけませんよ」


 静かな声。


 なのに、なぜだか背中がすっと伸びた。母に名前を呼ばれたときみたいに。


「祭司さま」


 気づいたら、口から出ていた。


「私は……汚れでしょうか」


 祭司さまは、答えなかった。


 かわりに、私の左手を取る。


 さっき、イザベラ様がハンカチで拭いたのと同じ側の、袖ごと。両手で、包むように。


 思わず、手を引こうとして。


 祭司さまは、離さない。


 大きくて、乾いていて、温かい手だった。


 木の聖印と同じ、使いこまれた手。


「私の目には、名前を一人ずつ書く手に見えます」


 それだけだった。


 ふわりと、百合の香りがした。


 この季節に、百合なんて咲いていないのに。


「……祭司さま。今、花の匂いが」


 祭司さまは、少しだけ目を細めた。


「あなたにも、匂いましたか」


「冬でも、ときどき、するんです。関所でも。……気のせいだと思っていました」


「わたしはね、匂わない日のほうが、ずっと多いのですよ」


 祭司さまは、私の手を包んだまま言った。


「それでも、胸の中が、ふっと静かに温かくなることがある。匂いがしても、しなくても、たぶん同じ方がそばにおられるのだと、わたしは思っています」


 ぽろり、と、また落ちる。


 今度の涙は、さっきより温かかった。


 階段の上で、靴音。


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