第2話 義援の夜会
献金箱に金貨が落ちる音は、きれいだ。
ちりん、と澄んだ音がする。
南の村の人たちの、借金の音みたいだと思う。
ホールの入り口に、大聖堂から借りてきた銀の献金箱がある。金糸の布をかけた台の上に、ちょこんと。その横で、今夜の主催者のラウエンシュタイン侯爵様が、来る人来る人に深々と頭を下げていた。
「南の民は、私の子も同然です。どうか、お志を」
侯爵様の声は低くて、少し震えていて、目もとがほんのり赤い。聞いた人はみんな胸を打たれて、献金箱に金貨を入れていく。
「今夜、陛下が、南の嵐でいちばん民を救った者に栄誉をお与えになるんですって」
「それはもう、侯爵様に決まっていますわ。この夜会を開いたのですもの」
ホールのいちばん上座の肘掛け椅子には、国王陛下ご自身がお見えになっている。南の嵐の、義援の夜会。陛下の後ろ盾つき。侯爵家にとって、これ以上の晴れ舞台はない。
私は、天井を見上げた。
燭台が二百十二。蝋燭は一本、銅貨三枚。今夜の灯りだけで、南の村の荷車が四台、関所を通れる。
そういう勘定を、つい、してしまう。
ちりん。
献金箱に、また金貨が落ちる。五十一枚目。
数えるつもりはないのに、耳が勝手に数える。三年、関所の銭箱の音を聞いてきた耳だ。
ホールの令嬢たちの目は、さっきから、隅に立つ氷の宰相閣下のほうへ、ちらちらと流れている。私は、一度もそちらを見なかった。金貨が落ちるたびに、頭の中の帳面に一行ずつ書き足すので、忙しかったのだ。
「宰相閣下は、私信を一通もお書きにならないんですって」
「まあ。氷のお方ですものね。あの銀縁の眼鏡の奥で、笑ったことなんてあるのかしら」
扇の陰の囁きが、耳をかすめる。
――お気の毒に。宰相府には、毎週、夜中に手紙を書いてくれる書記さんもいるのに。
そう思って、ほんの少しだけ、得意な気持ちになった。
それに、あの方は、書記さんの上司だ。熱を出した書記さんを、夜中まで働かせている人。
ひとこと、にらんでおこうかと思った。
けれどそのとき、また、ちりん、と鳴ったので、数えるほうを優先した。五十二枚目。
献金箱の向こうでは、クレメンス大司教様が、金糸の祭服をきらめかせて説いている。
「嵐は、南の民の不信心への、神の罰です。けれど、罰を受けた者を憐れむのもまた、信仰というもの。皆さまのお志は、必ず天に覚えられましょう」
貴婦人たちが、ありがたそうにうなずいている。
――うるさい。忌々しい咳だ。汚れた子供を、近寄らせるな。
あの雨の日の声が、耳の奥でよみがえる。同じ声だ。少しも変わらない、のんびりした、きれいな声。
私は、柱の陰で、ドレスの胸もとにそっと手を当てた。
内側に縫いつけた隠しに、小さな帳面が入っている。三年分の、私の記録。それから、轢かれたオリーブの葉が一枚。
ホールの向こうでは、婚約者のエドガー様が、白いドレスの令嬢と笑っている。大聖堂の聖女候補のイザベラ様。大司教様の姪御さん。この半年、エドガー様の隣には、たいていこの方がいる。
気づかないふりは、得意だ。三年も練習したので。
侯爵家の嫡男の婚約者、といえば聞こえはいいけれど、私の毎日は、ほとんど侯爵家の帳簿係だった。十六の春に侯爵様が「ベルネ嬢は、算術が得意だと聞いた」とおっしゃって、父は大喜びで私をこの家に送り出した。母が亡くなって、新しい奥様と妹がいる家に、私の席はもうあまりなかったから。
帳簿をつけるのは、好きだ。数字がきちんと並ぶと、胸がすっとする。合わないところがあると、合うまで眠れない。「クララは、数字と仲良しね」と、母はよく笑っていた。
エドガー様は、帳簿を一度も開かなかった。
「そういうのは、君が得意なんだろう」
そう言って、乗馬に出かけていく。夫婦というのは得意なことを分け合うものだと母が言っていたから、それでいいと思っていた。
でも今夜、私の頭の中にあるのは、エドガー様のことではない。
一週間前、侯爵家の帳簿の棚に、見慣れない証文の写しが挟まっていたのだ。
ベックマンという商人が、南の果樹園の土地を買い取った証文。売り手は、借金を返せなくなった村の人たち。侯爵家の印つき。
嵐で弱った村に、三倍の通行料。
苗も実も売れなくなって、借金がふくらむ。
その借金の形に、土地を、二束三文で。
ひどい話だけれど、そこまでなら、ありえない話ではない。
でも、売り手の欄を見て、息が止まった。
――ハーゼ村、アロイス。印は、十字。
姓が、ない。字の書けない人の印が、押してある。
アロイスさんなら、必ず「アロイス・ロウ」と書く。オリーブの葉っぱも、一枚。
この証文を作った人は、アロイスさんの字を、一度も見たことがないのだ。
私は、震える手で、その証文を写した。何度も書き損じてから、アロイスさんがもう一度書いてくれた訴えの手紙と一緒に、書記のヴィクトルさんへの手紙に挟んで送った。宰相府のどこに出せばいいのか、わからなかったから。ヴィクトルさんなら、きっと、ちゃんとしたところへ回してくれる。
写しているところを、侯爵家の執事さんに見られた気がする。
あれから一週間、侯爵様は私に、とても優しかった。
それが、ずっと怖かった。
――ちりん。
献金箱に、また金貨が落ちる。百三十八枚目。きれいな音。
左の手首を、ぐいとつかまれた。
振り向く間もなく、ホールの真ん中へ引き出される。エドガー様だった。三か月ぶりに、私に触れた手だった。その反対の腕には、イザベラ様がしがみついている。金色の巻き毛。大きな青い瞳。首から下げた、重たそうな金の聖印。
「クララ・ベルネ。今夜をもって、君との婚約を破棄する」
ホールの端まで届くように、わざと張った声だった。
楽団の音楽が、ぷつりと止まる。
二百十二の燭台の火が、いっせいに揺れた気がした。
「君は地味で、愛想がなく、取り柄もない。そのうえ、か弱いイザベラを陰でいじめていたそうだな」
地味。愛想がない。取り柄もない。
全部、本当だ。
私は、袖口の継ぎ目を、そっと指で隠した。
ただ、一度帳面に書いた数字と名前だけは、忘れない。
――ああ。
今夜、だったのか。
頭のどこかが、妙に冷静だった。何かが起きる気はしていた。それが婚約破棄だとは、思っていなかったけれど。
「……いじめて、いません」
「嘘をつくな!」
エドガー様が、床を踏み鳴らす。
イザベラ様が、大きな瞳をうるうるさせて私を見る。
「わたくし、クララ様に何度も睨まれましたの。お茶会で、わざと冷めたお茶を出されたこともございます……」
ざわ、とホールが波立つ。
扇の陰で、小さく笑う気配。
気の毒そうに目を逸らす顔。
「まあ、あの地味な方が」「侯爵家の帳簿係でしょう?」と囁く声。
誰も、私の隣には来ない。
冷めたお茶なら、覚えている。先月のお茶会だ。
イザベラ様は「熱いのは嫌い」とおっしゃって、侍女のミアに三度も淹れ直させた。三度目のお茶を、今度は「冷めている」とおっしゃって、カップごと押し返した。
ミアは真っ青になって。侯爵家で粗相をした侍女は、すぐに暇を出されるから。
だから私はそのカップを受け取って、「私がいただきます」と言って飲んだのだ。ぬるくて、少し渋かった。
言い返そうとした。
でも、言い返して、誰が信じるだろう。
ふと、ホールの奥を見た。
長椅子に腰かけて、侯爵様が葡萄酒の杯を傾けている。隣には大司教様。
息子が、自分の開いた夜会で、婚約を破棄している。
それなのに侯爵様は、少しも驚いた顔をしていない。
大司教様と目を見かわして、杯の縁を、指でゆっくりなぞっている。
上座の陛下は、肘掛けに頬杖をついて、黙って成り行きを見ていらした。
背中が、すうっと冷えた。
「下がりなさい、クララ様」
イザベラ様が、レースの手袋をはめた手をひらりと振る。
「あなたのような方がわたくしに近づくと、按手の力が濁ってしまいますの。わたくし、清らかでいなければなりませんから」
それから、さっき私の手首をつかんだエドガー様の手を、絹のハンカチで丁寧に拭く。
指を一本ずつ、何度も。汚れを落とすみたいに。
拭き終わったハンカチは、床へ。
白い布が、ひらりと滑って、私の足もとで止まる。
――ああ。
私は、汚れなのだ。
三年間、この家の帳簿をつけてきた。
朝は誰より早く起きて、夜は誰より遅く灯りを消して。
その全部が、白いハンカチ一枚で、汚れになった。
冷静だったはずの頭が、急に、ぐらぐらと揺れはじめる。
それでも、口だけが勝手に動いた。三年、帳簿を読み上げてきた口だ。
「……承知いたしました」
声は、思ったより落ち着いている。
「では、明日から侯爵家の帳簿は、どなたがおつけになりますか。三年分の引き継ぎに、十日はかかりますので」
エドガー様が、ぽかんと口を開ける。帳簿、という言葉を、生まれて初めて聞いたような顔。
扇の陰で、誰かが吹き出しかけて、あわてて咳払い。
そこまでが、限界だった。
私は黙って一礼して、ホールを出る。
誰も、引き止めなかった。
扉が閉まってから、気がついた。
今夜、何も食べていない。給仕さんが三回も目の前を通ったのに、金貨の音を聞くのに忙しくて。
(……鶏の香草焼き、おいしそうだったのに)
このときの私は、まだ知らなかった。帳面の余白に書きつづけてきた名前が、今夜のうちに、侯爵家をひっくり返すことになるなんて。




