第1話 関所の雨
「クララ・ベルネ。今夜をもって、君との婚約を破棄する」
目の前の婚約者にそう告げられて、最初に考えたのは、この人のことでも、家で待つ父のことでもなかった。
――今週の手紙に、なんて書こう。
三年間、毎週、手紙を書いてきた人がいる。宰相府の、書記さん。顔も、声も知らない。知っているのは、硬くて角ばった字と、返事がいつも夜中に書かれていることだけ。
婚約を破棄されました、と書いたら。
あの人は、なんて返事をくれるだろう。
たぶん、一行だ。慰めの言葉が入るかどうかは、五分と五分。
序 関所の雨
オリーブの葉は、車輪に轢かれると、いい匂いがする。
青くて、少し苦くて、雨の日の土みたいな匂い。私はそれを、去年の冬、南の関所で初めて知った。
その日は、冷たい雨だった。侯爵領の南の端にある石の門の前に、荷車が何台も止まっている。門をくぐっていく荷車は、一台もない。
いちばん前の荷車には、布をかぶせた苗木が二十本ほど。そのそばで、日に焼けた男の人が、関所の役人に何度も頭を下げていた。
「お願いします。去年までの額なら、払えるんです。三倍は、とても」
「布告は布告だ。払えないなら帰れ」
ハーゼ村の、アロイスさんだった。
年に一度、侯爵家の執事さんについて関所の帳簿を確かめに来る私は、この人をよく知っている。母が生きていたころから毎年、この人の荷車で薬草茶を買ってきたのだ。干し無花果の入った、喉に効くのに、ほんのり甘いお茶。子どものころは、風邪をひくとこれが飲めるので、少しだけ得をした気分だった。
帳面に名前を書いてもらうと、アロイスさんはいつも「アロイス・ロウ」と姓まできちんと書いて、最後に小さなオリーブの葉を一枚、描き添える。村の農家の人で、こんなにきれいな字を書く人を、私はほかに知らない。
その外套の裾を、小さな男の子が握っていた。
九つくらいだろうか。雨に濡れた髪を額に張りつかせて、ひどい咳をしている。ごほ、ごほ、と咳きこむたびに、腕に抱えた鉢が揺れた。小さなオリーブの苗が一本、植わっている。
気づいたら、執事さんの後ろから出ていた。
「あの。これ、使ってください」
手ぬぐいを差し出すと、男の子が顔を上げた。
灰色がかった、緑の目。
見たことのない色で、思わず、じっと見てしまう。
「……ありがと」
男の子は手ぬぐいで顔を拭いてから、私の目がどこに止まっているかに気づいたらしい。少し得意そうに胸を張った。
「この目? オリーブの葉っぱの、裏の色なんだって。じいちゃんが言ってた」
「まあ。きれいな色ね」
「うちのご先祖さまはね、ノアっていう種苗商なんだ。梨の木を、種から育てたんだよ。もっと前は、川下の小さなお城の人で、帝国に攻められて、荷車の底に隠れて逃げてきたんだって」
「ティモ。昔話だよ」
アロイスさんが、困ったように男の子の頭に手を置く。
ティモくん、というのね。私はその名前を、心の中の帳面に書きとめた。
「これ、嵐で倒れた木から挿し木したの。おれが育てた。王都で売れたら、父さんが薬を買ってくれるって」
「おうちの薬草茶は? 喉には、あれがいちばんなのに」
「……ないの。嵐で、干し棚ごと飛ばされちゃった」
ティモくんは、なんでもないことのように言って、また咳をした。
「今年は、一袋も作れませんでした。お嬢さまに毎年買っていただいてたのに、申し訳ない。この子にも、飲ませてやれなくて」
アロイスさんが、すまなそうに頭を下げる。
喉に、何かがつかえた。最後のひと袋は、ひと月前、熱を出した書記さんへ送ってしまった。今、私の手もとには、一枚の葉も残っていない。
「王都に訴えようと、手紙を書いたんです。村じゅうの家の名前を、一軒ずつ並べて。……でも、ここで取り上げられちまって」
そのとき、後ろから蹄の音がした。
「どけ、どけ!」
黒塗りの馬車が二台、雨を跳ね上げて門へ向かってくる。先の馬車にはラウエンシュタイン侯爵家の紋章、後ろの馬車には大聖堂の金の紋章。
侯爵様と、クレメンス大司教様だ。
役人があわてて門を開け、アロイスさんの荷車を脇へ押しのける。ティモくんが、鉢を抱えたまま、ぬかるみに足を取られた。
「あっ――」
鉢が、腕から転がり落ちる。
そこへ、馬車の車輪。
ばきり、と音がした。
素焼きの鉢が割れる音。
それから、細い幹が折れる音。
馬車は止まらなかった。侯爵様の馬車の窓は、閉まったまま、一度も開かない。
後ろの大聖堂の馬車だけが、少し速度を落とした。窓の覆いがわずかに上がって、中から、のんびりした声。
「うるさい。忌々しい咳だ。汚れた子供を、近寄らせるな」
それだけだった。
覆いが下りて、馬車は門の向こうへ消えていく。
雨の音だけが、残った。
ティモくんは、泥の中にしゃがみこんでいる。割れた鉢。泥にめりこんだ根。車輪の跡に沿って、ぐしゃりとつぶれた葉。
泣かなかった。
九つの男の子が、泣かずに、つぶれた苗を両手ですくおうとしている。
車輪の跡で、つぶれた葉が匂いを立てていた。青くて、少し苦くて、雨の日の土みたいな、オリーブの葉の匂い。
いい匂いだった。
いい匂いなのが、たまらなく悔しい。
私はティモくんの隣にしゃがんで、泥の中から葉を一枚拾った。まだ、裏の銀色が残っている。ティモくんの目と、同じ色。
胸の奥で、何かがぐらりと煮えた。
――忘れてやるもんか。
……あら。私、こんなに口が悪かったかしら。
拾った葉を、帳面の頁のあいだに挟む。
そのとき、ふわりと、百合の香りがした。
雨の関所に、百合なんて咲いていない。冬なのに。
気のせいだと思う。でも、胸の奥で煮えていたものが、少しだけ、静かになった。
私、クララ・ベルネには、取り柄がない。
顔は地味で、愛想もない。ダンスは三回に一回、相手の足を踏む。刺繍の薔薇は、なぜかいつもキャベツに見えると言われる。
ただ、一度帳面に書いた数字と名前は、忘れない。
この三年で南の関所を通った荷車、千二百十四台。持ち主の名前、四百三十一人。聞かれたら、たぶん全部言える。それを取り柄と呼んでいいのかは、わからない。誰にも、ほめられたことがないので。
もちろん、自分の財布の中身も、銅貨一枚まで言える。
門の役人に、そっと訊いた。アロイスさんの荷車の、三倍の通行料はいくらですか、と。
足りなかった。銀貨が、ちょうど三枚。
三枚足りないだけで、二十本の苗は、王都へ行けない。
その夜、宿で、書記のヴィクトルさんに手紙を書いた。
関所の報告書と一緒に。いつもは余白に書く荷車の持ち主の名前を、その日は、余白に書ききれなかった。アロイスさんのこと。三倍の通行料のこと。取り上げられた訴えの手紙のこと。ティモくんのこと。オリーブの葉の裏の色の目のこと。轢かれた苗のこと。
十日後に届いた返事は、いつもどおり、短かった。
『その子の名前を、もう一度書いてください。今度は余白ではなく、本文に』
私は、その一行を何度も読んだ。
余白に名前を書くなと、三年前に叱った人だった。
(……三年前のご自分に、言ってあげてください)
手紙に向かって心の中でつっこんでから、少し笑った。笑ったら、雨の日から初めて、肩の力が抜けた。
顔も知らないその人に、会ってみたい。
そう思ったのは、そのときが初めてだった。
第二話は本日土曜日21時に投稿予定です




