終章
賀茂光栄は、一条橋のそばにある邸の門を、なんの合図もなくくぐった。
門をいくら叩いたって、邸の主は家人も一人もおいてなく、いつも誰も出てこないのだ。
だがその日の夕方は、違った。
入ったところに童が立っていたのである。光栄は驚き、童を見つめた。
青い水干を身にまとい、にこにこと微笑む童の顔に……見覚えがある。四、五歳ばかりの男の子。ふくよかな頬が愛らしい。
冬の夜気に散る白い息を止めながら、しばし考える。
「あの、野郎……っ」
光栄は急に顔を赤くすると、いきなり駆け出した。
声を張り上げる。
「晴明、どこにいる晴明!」
彼は足音も高く邸内に上がり込み、主の室に向かった。
灯火もない室に飛び込むと、そこにいた少年が振り返り、怒鳴り込んできた光栄の顔を見て目を丸くした。
「おや、光栄じゃないか。久しぶりだね」
「保遠……。お前、帰っていたのか?」
片膝を立てて座り、酒杯片手にあられをつまんでいたのは、賀茂光栄の叔父――賀茂保遠だった。光栄の父、賀茂保憲の末の弟だ。二人は叔父と甥という間柄になるが、叔父の方が若い。
保遠は簡単に挨拶を述べると、他人の家だというのに、光栄に火櫃にほど近い円座を勧めた。
「今日の昼間にね、京へ戻ってきたのさ。やっぱり京も冬は寒いね。けど、僕の帰京、大兄上は知ってるはずだよ?」
「あぁ、俺は父上にいわれてここに来たんだ。晴明のところにこの魚を持って行けといわれて――」
魚を掲げたまま、光栄は舌打ちした。
「父上め、俺に酒の肴を運ばせたな」
「そうみたいだね。羅城門をくぐった途端、大兄上の式神に『お帰り』、といわれたよ。そのままふらりと消えたので、放っておかれたと思ったんだけどな。酒のつまみに魚とは嬉しいねぇ」
保遠はくすくすと笑った。
腰を下ろし、光栄は周囲を見回した。
殺風景な室内に主の姿はない。邸内にはいくつも灯火が灯っているが人気は感じられなかった。
寒いとつぶやき、手を摺り合わせた光栄は、凍えた手を火櫃に近づける。ほのかなあたたかさについ顔がゆるんだ。
「晴明はどこにいるんだ?」
「あぁ、晴明なら奥の室に瓶子を――」
「よう光栄」
直衣の袂を揺らし、御簾をくぐって晴明が現れた。その手には清酒を満たしたとおぼしき瓶子がある。
光栄は口をへの字に曲げ、父の弟子を睨み付けた。
「あの式神はなんだよ。なんで幼い頃の俺を式神にした」
「……保憲が喜ぶかと思ったんだけどな。気に入らなかったか」
「気に入るはずがないだろう!」
父親よりもいささか精悍な作りの顔で光栄が怒鳴る。
晴明はうるさそうに顔をしかめ、袂から一枚の符を取り出した。それをひらりひらりと夜気に泳がせる。
「心配するな、もう戻した。なんだか急にお前の小さい頃を思い出して、ちょいと懐かしんでみただけだ」
「そんなもの、とっとと忘れてしまえ」
つまらなそうに光栄がいうと、晴明は笑ってふと、後ろに目を流した。ぼやりと明かりが灯る。
にわかに明るくなった室内で、三人は手にした杯に酒を注ぎ、保遠の帰還を祝った。しかしすぐ、晴明に急かされた保遠が光栄の手土産を片手に厨へ姿を消す。
光栄が晴明に目を向けた。
「父上が、明日、会いたいんだそうだ」
晴明がほぉ、とつぶやいた。
四十才に近いというのに、若い頃とまったく変わらぬ張りのある声で応じる。
「いつでも陰陽寮で会えるじゃないか。保憲は陰陽頭で、俺は天文生なんだ」
「どうしても北野神社で会いたいんだそうだ」
「……北野だって?」
問い返す晴明にうなづいて、光栄は酒杯をくいっと干した。
「あそこじゃないと話せないと、いっていたよ」
「北野神社な……」
感慨深げに漏らして、晴明も杯を干す。
灯火の映り込んだ瞳をついと細めた。
「あれからずいぶん経ったな」
「あれだろう? 菅公と鬼がどうとかいう――」
「光栄、まだ童だったお前には何も教えてやらんよ。お前の父親がいいといったら、俺の知っていることを話してやろう。だが、保憲がいいといわなきゃ、何もいわん」
すげなく断られ、身を乗り出していた光栄は舌打ちし、先ほどまで保遠がつまんでいたあられを口中に放り込んだ。
「能宣さまも仲文さまも、そのことに話が及ぶとすぐに口を噤んでしまう。あの良源さまもだ。俺に話したって損はないだろうに」
「損とか、そういうものじゃないんだ……。保遠、立ち聞きは止せ。魚は焦がさなかっただろうな」
ひょこりと、御簾の向こうから保遠が顔を見せた。
「あぁ、ばれてたのか。残念だな。せっかく、あの時の話を聞けるのかと思ったのに。はい、土産の魚は綺麗に焼けたよ。験者と暮らしている僕の腕を疑わないで欲しいな」
香ばしい焦げ目のついた魚を二人の前に置き、保遠は甥と兄の弟子の傍らに腰を下ろした。
薄暗い中、彼はねぇ、と晴明に父親似の顔を向ける。
「光栄はともかく、僕には聞く権利があると思うんだけどな」
その甥がなんだと、と声を荒げたが、保遠は聞く耳を持たずに続ける。
「だって、僕の兄上――保胤さまが家に寄りつかなくなってしまった原因なのでしょう?」
「いや、保胤は家に寄りつかなくなったんじゃない。たまには来てるんだろ?」
目で問われて、杯に口を付けていた光栄はうなづいた。
「あぁ、もちろん。すぐに帰ってしまうけどね。よく漢詩と漢学について教えてくれるよ」
「……俺のところには半年くらい前に来たか。あの時にも話をしたが……保胤は、少し、己が許せなくなってしまっただけだ。それに俺たちが嫌いなのではない。陰陽道が嫌いなのさ」
晴明は干した杯を下に置いた。
鋭い目で二人を牽制する。
「酒の話題には似合わん。追い出されたくなかったら話題を変えるんだな」
保遠がちょっと肩を竦めた。
いつものように片膝を立て、手酌で酒杯を満たす。
「じゃ、教えて欲しいことがあるんだけど」
「勿体ぶらずにいえ」
「晴明の初恋の相手が千夏さんだって、本当?」
「な……っ」
ぎょっとして晴明が顔を上げる。
その反応を見、ちらりと視線を合わせた叔父と甥は、にやりと口端を歪めた。似たような仕草で冷やかす顔を作る。
「これは図星だね。やっぱり千夏さんだったんだぁ」
「へぇ、晴明にそんな艶っぽい話があったなんて知らなかったな。梨花さんにいわないと」
「……ちょっと待て、保遠、誰からそれを聞いた」
「教えないよ。だって、いったらきっと怒鳴りにいくもの。あ、でも怒鳴りに行けない人だな。けど……、晴明ならどうにかして行くかも。あら、ちょっと言い過ぎた」
保遠は口を押さえた。
晴明が切れ長の目を細める。
「そうか、お師さまだな……」
はたして死人に怒鳴るべきかと、呻きながら晴明は額を押さえる。
師匠の賀茂忠行はすでに他界していた。
村上帝の勅により、筺の中のものを占って射覆という占法を見事にあて、帝の覚えがめでたくなってからほんの少しあとのことだった。
今、晴明の師匠は保憲である。
「さすがの俺も死人には怒鳴れんな」
呆れつつ、晴明は箸で魚をつついた。
柔らかな魚肉を口に運ぶ。
「まぁ、梨花はそれを知ったところで、何もいわないだろうが」
「そういえば、梨花さんはどこにいるんだい?」
保遠の問いに、晴明は肩をそびやかした。
「若菜さまのところだ。二人目が産まれたばかりなのに、上の子がすぐ遠くに行くので、目が離せないなどと話をしていたら、若菜さまが呼んでくれたんだ。おかげで今は保憲の邸さ。俺は独り寂しく、ここにいる」
光栄がそれみたことか、と笑みを浮かべる。
「だからうちに来い、というのに。母上が晴明はいつ来るのかしら、といっていたぞ」
「俺は若菜さまが苦手なんでな」
にやりと笑って、晴明はくいっと杯を干した。
「光栄、明日、北野で待ってるって保憲に伝えてくれ。寒いから日中の方がいいな」
「寮に出ないつもりか?」
「明日は宿直なんだよ。夜っぴて夜空を見上げて月星を見てなきゃならない。昼間くらい、あたたかい陽の下にいさせてくれ」
「はいはい、伝えておくよ。まぁ、父上も寒さが身に染みるなんていってたから、夜に行くつもりなどないだろう。保遠、お前はいつまで京にいるつもりなんだ?」
「良源さまにはすぐに戻ると伝えてある。けど、好きなだけ京にいろといわれたから、……そうだねぇ、陰陽寮の書をある程度読んだら、かな。いずれ寮に入るようにいわれてるし、勉強しないと」
「ここに泊まるつもりか?」
晴明が保遠に杯を満たすよう、手振りで頼みながら、光栄の問いを引き取った。
「俺は別にかまわん。だが、京にしばらくいるのなら家に戻れ。あちらの方が書もたくさんあるだろう」
「そうするよ」
保遠は素直にうなづいた。
そうしてふと、何かに気付いたよう顔を巡らせる。
冬独特の、虫の音も聞こえない静けさを細目で眺めやった。
「これは……梅の香り、かい? そういえば、ここはいつも梅の香りがするね」
いわれてみれば、と光栄もうなづく。
かすかな香りだが、邸全体に炊きこめてあるのではないかと思うほど、どこにいても必ず梅香が身を包む。
晴明がふと、唇を綻ばせた。
「俺が師輔さまに頼み込んで、ここに邸をいただいた理由が、この梅の香りさ。北極星の北と木気の東の狭間に……俺はいたほうがいいんだ。ま、菅公の話が解禁となったら教えてやる」
またそれなのか、と光栄と保遠が目を険しくした。
しかし晴明は気付かず、酒杯の中身を揺らしながら、ほのかな笑みを口許に浮かべている。
それは、追憶の笑みだった。
「……梅は京の守りなのさ」
つぶやきはあまりに小さすぎて、誰の耳にも届かない。
晴明は静かに瞑目した。
「望月が欠けて久しく、残月は京にて輝く……、か」
ささやかな声は漏らす端から風にさらわれていった。
賀茂保憲は北野神社の傍らに佇み、晴明を待ちながら、己の身に襲いかかった遙か彼方の出来事を思い出していた。
賀茂江人が、父、忠行を遠縁へ養子に出したのは、息子を気遣ってのことだったのだろう。
今になって、保憲はそう思う。
望月が欠けているとは、父の役目を果たせぬ己のこと。残月は京にて輝くとは、息子に京で陰陽家として活躍しろ、とのことだったのか。
そのように息子を思った江人だが、強すぎる力ゆえ、京を守るためにこの地を出た……。そしてその孫も、その力によって実の父に捨てられ、己の血筋を恨むことになってしまった。
祖父だけではなく、父、己、名もわからぬ験者、そして晴明。
人ならぬ力は皆を傷つける……。
――陰陽道が本当に人を救うのですか!
不意に、遙か昔に叩きつけられた弟の言葉が思い出され、保憲は軽く眉を寄せた。冬風にかじかむ指先を、抱いた黒猫の毛皮に潜り込ませてあたためる。
北野神社、その社殿の傍らに立ち、彼は茫然とした目を京に向けた。
この国の中心であり、きらびやかな京は、裏腹に強い怨みをため込んでいる。
「人の死の救い……か。理の中に生き死にはあっても、死は死。死後に救いはない。人の死を夢見る保胤が嫌ったのも……しようがないことか」
「保胤はお前を嫌ってるんじゃないんだ。考えてもしようがないぞ」
背後から急に割って入ってきた声に、当人よりも猫が鋭く反応する。黒猫が鋭く首を巡らせた。猫の目線を追って、保憲もそちらに顔を向けた。
晴明が五歩ほど離れた場に立っていた。
独り言を聞かれ、眉を曇らせた陰陽頭は困ったように笑う。
「保胤のことに気付いてやれなかったのは、救えなかったのはわたしの落ち度だ。保胤を徹底的に追いつめてしまったのは……、わたしの死だろうからな」
「保胤は大丈夫だ。俺よりも強いかも知れん。それに保章もついているからな。少し疎遠になってしまったって、あのたちだ。顔を見せる時は前とさして変わらんだろう。お前が気にしていたら、保胤の方が訪れにくい」
弟子はきっぱりとした口調でいう。猫を撫でながら聞いていた保憲は、ゆるりとうなづいてそうだな、とつぶやき、声の調子を変えた。
「晴明、遅いじゃないか。待ちくたびれたぞ」
「悪い。出がけにちょいと用事を思い出して、調いをしていたら遅くなってしまった」
晴明は練り絹の衣を寒そうに合わせる。
「それでどうした。寒風吹き荒ぶ中に呼び出して」
陰陽頭は黒猫を抱いたまま、手振りで社殿を示した。
「ここに社殿が建つ時、北野神社と名前をつけるように多治比どのに頼んだだろう。さらには師輔さまが社殿を建てて神殿とした。菅公を慰霊するため、藤原一門はこれからも寄進を続けていくだろう」
「十年ほど前に亡くなられた忠平さまは、結局、菅公を一度も恐れなかったけどな……。むしろ子の師輔さまの方が怖がってる始末。まぁ、お前と良源がおどしてるせいだろうが」
「……人聞きが悪いな」
保憲は迷惑そうに顔をしかめた。
「わたしはおどしてなどおらん。菅公を大切に祀れば、藤原一門にとっても、主上のためにもよいと話しただけだ。それに、……まだ祟りは続くだろうからな」
晴明はふいと師匠に背を向けると、神社の側に植えられている梅の木を軽く叩いた。
「金剋木の相剋だけではなく、木生火で相生したからな。だがそうしなければ、土師道敏が消え、菅公もこの地にいらっしゃらなかっただろう。……うむ、やはり、この周辺で火事が多いのは俺のせいか」
「お前の断じは正しかった。だが、土師道敏は怨みをもったままに火へと生じられてしまったからな。その怨みの炎はしばし荒れ狂うことになるだろう。これまで、陰陽寮や神祇官が焼けているからな、……内裏にまで害が及ばなければいいが」
「夜盗も多いし、やつらが火をつけたりすることもあるから、一概に土師道敏のせいにもできないがな。で、その長い前振りはどこに繋がるんだ? お前は相変わらず説明癖が抜けんな」
保憲は少し笑って、猫を撫でながらぽつりと口にした。
「北野天満宮」
「……なんの名前だ?」
「北野神社はこれから先、そう名乗ることになるだろう」
「お前の先見か」
「まぁ、そんなところだ。北野という名は必ず残る。そして北極星のある方位として、天という字が必要なんだ。北の天、そこにあらせられる北極星、そして……菅公を神となさった大神。もっとも、北野の天に満ちるものは、秘とされ、隠され続けるだろうが」
「暴かれたら困るだろう。菅公は荒ぶる御霊だった。そして、菅公が託宣を下し、北野の地が選ばれ、そこに神社が建てられた。これがこの神社の創建だ。それ以外の事実などない。あったとしても、語られるべきじゃない」
「そう、それでいい……。それでな、今日は一緒に参拝しようと思ったのだ。わたしは菅公に感謝してもしきれない恩がある。先見があったのにも、何か由があるんだろう」
口を閉じた保憲と晴明は、藤原師輔が建てたばかりの絢爛な社殿を眺めやった。
佇む二人の側を、人々が神殿に向かって通り過ぎていく。
この地はもともと、承和(八三六)に天神地祀を祀り、遣唐使の海路平安を願い、また元慶年間には藤原基経が雷神を祀るなど神聖な祭場でもあった。
その上、菅公が雷神であり、春雷――すなわち雨を呼ぶことや、藤原師輔が立派な社殿を建てたこともあって、今では人々が多く訪れる神社となっていた。
ついと保憲が身を翻して社殿に近づいていく。
晴明は慌てて師のあとを追った。
「幾度も来ているんだろう? 春先にも大春日と来てたじゃないか」
「付き合え。わたしの弟子だろう」
「……はいはい」
笑いながらの命令口調に、晴明は苦笑しながらうなづいた。
二人は肩を並べ、神殿にたどり着くと、社殿を感慨深げに眺めやる。
この奥には藤原師輔より寄進された、祭神、菅公の影像が祀ってあった。
ざわめきと冬風が通り過ぎる中、二人の耳に「父上!」と聞き慣れた声が届く。
晴明が弾かれたように振り返り、時を同じくして保憲が背後に目を向ける。
「父上!」
人々の狭間から駆けて来たのは、四、五歳の小さな童だった。晴明がしまったな、という顔でそちらに身を向ける。神殿の前から退き、手を差し伸べると、童は彼の懐に飛び込んだ。
「ひどいではありませんか! 約束を破るなんて!」
童はひどく立腹していた。父親である晴明をぱしりと叩いて、柔らかく白い頬をふくらませる。
それを見た保憲がくすくすと笑った。
その声が聞こえ、師匠に当惑の目を向けた晴明は、困り切った顔で己の息子に視線を落とした。
「どうしてここがわかったんだ? 一人でここまで来たのか?」
「いえ、あの人と一緒です。どこに行くのかと聞かれて、北野神社だといったら連れてきてくれました」
童が指さす先に、水干姿の少年が立っていた。晴明が面をそちらに向ければ、ゆるりと一礼する。
また童が晴明を叩いた。
「ひどいです、父上! 今日は式神を見せてくれると約束していたではありませんか!」
「……だから式神をおいておいただろう。お前を連れてきた彼が、式神なんだ。本当は鶏だったんだがな、お前のことを気にしてここまで来てくれたらしい」
「本当ですか?」
驚く息子にうなづき、晴明は子の背を式神に向かって押した。
「俺はもう少し、話をしなければならないから、彼と一緒にいなさい。聞けば話をしてくれる」
「わかりました」
怒っていた童はころりと機嫌をよくし、にこにことそちらに駆けていく。
童が水干姿の少年と話し始めたところで、保憲がぽんと晴明の肩を叩いた。
「嘘はいけないぞ」
「……あいつは怒ると長いんだ。しかし、俺の式神はどうしたんだろうな。俺の居場所だけ教えて、庭でこけこけと鳴いてるんじゃないだろうな」
「お前に似て怠けものなんだな。あれは……保遠の式神、か。貸しは高いぞ。誰に似たのか、保遠はちゃっかりしているからな」
「酒で手を打ってもらおう」
「まぁ、どうやらわたしが先約を無視させてしまったようだから、保遠にはわたしの方から礼をいっておくよ」
黒猫を抱きかえながら保憲は歩き出した。
「行こう」
晴明がふと、師の腕に抱かれた猫に目をやる。
「それ、お前の式神だろう。なんで連れて歩いているんだ?」
「今から能宣どののところに行くんだ。仲文どのもいるというから、ほら、彼はこいつを気に入っていただろう。だから遊んでもらおうと思ってね。それに、あたたかいから火櫃のかわりになる」
冬の風は身に染みる、と保憲がいえば、晴明はくいと意味ありげに目を細める。
「……お前、もしかして、能宣が神祇少祐なのにかこつけて、あいつに会いに行くからって陰陽寮を抜けてきたんじゃないだろうな」
保憲は丁寧に猫を撫で、顎をくすぐる。
「お前にしては鋭いな」
「おいおい、陰陽頭がそれでいいのか?」
「陰陽頭だから必要なんだ。仲文どのは東宮蔵人におられるから、宮中の話を聞くことができる。わたしが陰陽頭の間に、もう少しは陰陽寮の立場を強化しておきたいからな」
二人は晴明の子の傍らで足を止めた。童は水干姿の少年がすっかり気に入ったようで、何かを必死に話しかけている。
それを眺めやって、晴明が口端を歪めた。
「陰陽寮か。お前がそういったことに興味があるとは、驚きだな」
「……責任ある立場に立てば、お前もわかる。師輔さまに、北野神社の社殿を寄進するよう、説得したのはわたしと良源さまだ。だがそれは、良源さまが護持僧で、わたしには父上からの縁があったからに過ぎない。いくら凶事を予期したとしても、宮中に届かなければ意味がないんだ。凶事を防ぐためにも、もっと陰陽寮の立場を強めなければ」
「まぁ、暦博士から陰陽頭になったお前だ。どうせ上手くやるんだろう」
「それは買いかぶりというものさ。案外、お前の方が得意かも知れない。真っ直ぐな気性で、人の心を捕らえてしまうからな。……ところで晴明、ちょいと面白い話を聞いたんだが」
猫を可愛がる師匠にちらりと上目遣いで見上げられて、晴明は嫌な予感を覚えた。
「なんだよ。昨日からそういう切り出し方をされて、いい話を聞いたことがない」
「これも悪い話かも知れん。――お前が五行相剋の図に、晴明桔梗印セーマンとも呼ばれる五芒星。と名付けたのは、梨花どのとの出会いに」
「ちょっと待った! なんでお前が知ってるんだ!」
慌てる晴明に、のどの奥で保憲は笑って、童に目を向ける。
「おかしいと思っていたんだ。花になど大して興味のないお前が、毎日のように桔梗を持って帰ってきていた。まさか、梨花どのとともに花を摘んでいたとはな」
「……保胤だな、保胤が話したんだな」
晴明が唸るように問うた。
さぁて、と保憲ははぐらかす。
「梨花どのが、お前が朱雀大路で助けた女人だとは聞いていたが、その時はすげなく応じたそうじゃないか。どこでふたたび知り合ったのか、少し気になっていたんだ。まさか、北野の様子を見に行ったところで、花を摘みに来ていた梨花どのと再会していたとは気付かなんだ。偶然にしてはできすぎだろう」
「保胤め……」
妻との出会いをからかう口調で語られて、晴明は顔を赤くしつつ空を睨んだ。
「あいつ……、絶対に話すなと口止めしていたのに。くそ、一緒に酒なんか飲むんじゃなかった」
「いい名だよ、晴明桔梗とは。それに桔梗の花は美しい。何も恥じることはないだろう」
恥じてなどない、と強がりでいうものの、晴明の顔は未だに赤い。
そこでふと、彼は師匠を見やった。
「お前こそ、どうやって若菜さまと知り合ったんだよ。俺は聞いてないぞ」
思わぬ逆襲にあった保憲はつと口を噤んだ。
陰陽頭の手はずっと黒猫の頭を撫でていたが、またもや猫の目が鋭くきょろりと動き、保憲も同じようにそちらへ目を向けた。
「あいつ、東宮の護持僧になってずいぶん経つのに、相変わらず腰が軽いみたいだな。供もつけずにまた一人か」
参拝客の中に鬼面をつけた僧を見出し、晴明が驚きながら小声でつぶやいた。
それが聞こえたわけでもないようだが、僧の方でも陰陽寮の二人に気付く。
いつもの足取りで近寄って来た。
「晴明、保憲、久しぶりだな。よくよくお前たちとは縁があるらしい。まぁ、ちょうどよかった。急に呼ばれたもんで、保遠にどう伝えようかと悩んでたんだ」
保憲が丁寧に頭を下げた。
「お久しぶりです。いつも保遠がお世話になっています」
「いや、世話なんぞしてない。たまにふらりと来て話をする程度だ。保遠は無邪気なせいか、誰にも好かれるようだからな。気難しい験者も保遠には負けるさ」
「あれは図々しいっていうんだよ。ま、誰にも好かれるってのはわかる気がするが。で――、急に呼ばれたって、また師輔さまにか? 藤原北家の繁栄でも修じに来たんじゃないだろうな」
嫌味な晴明の言葉に笑うだけ笑ってとりあわず、良源は己を不思議そうに見ている童に目を向けた。
「どちらの子だ?」
「俺の子だ。お前に会わせたことはなかったか?」
「そうだな、始めて見たぞ……。お前に似合わず可愛いじゃないか。あぁ、悪いがちょいと待っててくれないか。一緒に帰ろう」
睨む晴明に、良源はおどけながらそう言い置くと、社殿の方に歩いていった。見送った童がきょとんと目を瞬かせる。
可愛らしいその顔を見て、保憲がかすかに笑んだ。
彼には光栄の他に、光国や光子という子がいるが、すでに成人して久しい。やはり幼子はいいものだなと、その優しげな笑顔が物語る。
晴明が陰陽頭の視線に気付き、思わず口許をゆるめた。
ふと昔を思い出しながら声をかける。
「なぁ保憲、暇があったらうちに来いよ。うるさい女どもなんぞ放っておいて、幾晩でもいいからずっと、飲み明かさないか。彰行とか、なんだったら能宣や仲文も呼んで――」
「晴明さま」
「ようやっと、顔を見ることができたわ」
急に背後で女声が上がって、晴明はぎょっと振り返った。よく知った妻の声と若菜の声が絡み合っていたのだ。
彼の反応を見、保憲がゆるく肩を竦める。
その師匠を弟子が睨み付けた。
「保憲、お前……」
「わたしは一人で来るつもりだったんだ。そうしたら、若菜がお前に会いたいといってな、梨花どのも連れてきたのだよ。わたしのせいではない」
「あのなぁ……」
「晴明、そんなに嫌がらなくてもいいじゃない」
「久方ぶりです」
練り絹の衣に身を包み、笠を被った二人がゆっくりと近寄って来た。と、そこで梨花が己の子に気付き、目を丸くする。童も母に見つかって、びっくりしながら素早く保憲の後ろに隠れた。
盾となった保憲が、身をよじって弟子の息子を覗き込んだ。
「もしかして……、晴明に会うのは秘密だったのか?」
「……はい、そうです。式神のことは内緒に」
蚊の鳴くような声で童が答える。
「晴明さま」
幸いというべきか、怒りを含んだ梨花の視線は童ではなく夫に向いた。
晴明は渋い顔で顎を撫でつつ、冬の空を見上げている。
「また一条の邸にこの子を呼んだのですね。一人歩きはまだ危ないというのに」
「俺がこれくらいの時には、一人で遊び回っていたからな」
梨花は晴明と知り合う切っ掛けとなった一件で、陰陽道に関わるものをどちらかといえば避けていた。
そのため、子が式神を見たがったのだ、というわけにもいかず、晴明は苦しい弁解をするしかない。
怪しい、と梨花は探るような顔で童と夫を交互に見やった。
夫は妻の視線から逃れるよう、すっとぼけてあらぬ方に顔を向ける。
保憲が苦笑しながら黒猫を降ろし、弟子の子を抱き上げた。
「お前の父上は急に無口になったな……。いつもあぁならば、もっと早く天文生になれたのに」
「そんなに式神を見たかったの?」
ついっと夫に近寄り、若菜が問いながら童の顔を覗き込んだ。彼女はすでに娘という歳ではないのだが、玲瓏とした声の響きと相まって、不思議と若々しく見えた。
すべてを見抜かれ、童が心なしか身を縮める。
「だって……、父上はあまり見せてくれないから。それに母上は式神を怖がって、そういう話は駄目だっていうのです」
「ずいぶんと賑やかになったな」
そこに良源が戻ってきた。
彼は現れた女性陣に一礼し、ふと保憲に抱かれた童に目を留める。間近で見た鬼面に怯えたのか、童が保憲の身に抱きつき、母と父に縋るような視線を向けた。だが梨花はくすくすと笑うばかり、晴明に至ってはそっぽを向いたままだった。
「そんなに俺が怖いか」
良源が巫山戯ながら童に顔を近づける。
一瞬、身を縮めた童だったが、急に手を伸ばして鬼面に触れた。かと思えばぎゅっとふちを握りしめる。面を剥ぎ取られそうになった良源が慌てて身を引いた。
「やっぱり晴明の子だな。意外なことをする」
「良源さまが驚かすからですよ」
保憲が笑いながら子の手を捕らえ、僧を示しながら紹介を始めた。
「この人は比叡山、延暦寺の僧侶なんだ。わたしやあなたの父、晴明の古い古い友人なのだよ。名を良源さまという――」
「……子どもの威力は絶大だな」
その傍らに立って、蚊帳の外に放り出された晴明は小さくつぶやき、所在なく腕を組んだ。
冬風を嫌って細めた目で、この京で、もっとも親しいものたちを眺めやる。
鬼面の下で良源は微笑んでいるようだった。
師匠である保憲は、優しげな声音で一言一句、子がわかっていることを確かめながら語を重ねていく。
童はぎこちなくうなづきながら、真摯な顔でその声に聞き入っていた。
その童を見つめる二人の女人は、とても和らいだ光を瞳に浮かべている。
時折、女人たちは小声で会話を交わしながら、さも楽しげに笑った。
――晴明はふっと目を瞠った。
どこにでもある風景。
端から見れば、平生とさして変わらぬ光景であったかも知れなかった。
けれど、晴明は、己が満たされていることを感じた。
あれほど足りないと思っていたものが、今はしっかりと己の中に根付いている。それを強く感じた。欲して欲して、手に入らぬかと絶望もしていた、何か。
――生きていく由。
口許がつと綻んだ。
満面に笑みを浮かべそうになって、晴明は三人から視線を外して冬の空を見上げた。
――お前はやはり、平生には生きられぬな……。
師匠の苦笑が目蓋の裏に浮かんだ。
あの言葉の通り、人を外れた力は、鬼に近しいといわれた力は、晴明を幾度も泥沼に叩き落とした。保憲が呪詛を止めた今でも、すべての迷いを吹っ切ってはいない。けれど、この光景を守るためならば、己はなんでもするだろう。このものたちを守るためならば……。
――わたしも己が生まれたこの京を守りたいと思っています。
保憲がいつか、能宣にいった言葉。
いつの間にか晴明も同じように考えるようになっていた。この京を、大切な人たちがいる京を守りたい。
そればかりではない。京にいる人々にも、また大切な人たちがいるのだろう。その命を、ひいては人の命を守りたいと思う――。それを為せるだけの、力が己には与えられている。
これが、俺に足りなかったものか……。
晴明は腕を組みながら目を伏せ、微笑を頬に刻んだ。
胸の奥がとても、あたたかい。
目を閉じた。
冬の風が吹き荒んでいる。
だが、少しも寒いとは思わなかった。
「……うえ、父上」
考え込んでいた晴明は顔を上げる。師匠に抱かれたままの子が、直衣の袂を掴んで引っ張っていた。
「父上、そろそろ帰りましょう。……いつか必ず式神を見せて下さい。約束ですよ」
そっと小声で童が付け足して、にこりと笑った。
父子の会話を聞いてしまった保憲がくすくすと笑う。
「さてさて、鶏はまだ庭で鳴いているかな」
「……止めてくれって。な、保憲。そろそろ帰らないか? 用は終わったのだろう」
はいはい、と保憲が笑って、良源と話をしている若菜に声をかけた。
晴明は師の腕から我が子を抱き取ると、妻の梨花と肩を並べ、ゆっくりと京に向かい歩き出した。
永延元年(九八七)、北野神社で始めて勅祭が行われ、この時の宣命に基づき、北野神社は「北野天満宮大神」と称号されるに至った。また、菅公は正暦四年(九九三)に正一位・右大臣、重ねて太政大臣の位を贈られている。
そして寛弘元年(一〇〇四)には一条帝が北野祭を官祭とし、行幸奉幣なされ、北野天満宮はのちに後朱雀帝や後冷泉帝など多くの帝が行幸なさる、押しも押されもせぬ神社となった。
終わり
この長い物語に付き合っていただきまして、本当に有り難うございました。
登場人物たちとともに御礼申し上げます。
また、感想などいただけましたら、大変有り難いです。
よろしくお願いいたします。
◆主な参考文献(他にもたくさんあるけれど、主といえばこれくらい)
ブックス・エソテリカシリーズ 学研「密教の本」「神道の本」「陰陽道の本」「修験道の本」「真言密教の本」「天台密教の本」「天皇の本」「日本の神々」
平凡社ライブラリー 「日本陰陽道史話」 村山修一著 平凡社
中公文庫 「日本の歴史4 平安京」 北山茂夫著 中央公論新書
講談社選書メチエ 「陰陽道 呪術と鬼神の世界」 鈴木一馨著 講談社
「呪術・巨大古墳と天皇陵」 斉藤至輝著 雄山閣出版
「図説 日本呪術全書」 豊島泰国著 原書房
人物叢書 新装版 「良源」 平林盛得 日本歴史学会編集 吉川弘文館
「図説 日本仏教の歴史 平安時代」 速水侑編 佼成出版社
集英社新書 「妖怪と怨霊の日本史」 田中聡 集英社
「日本の神社がわかる本」 菅田正昭 日文新書
「陰陽五行と日本の民族」 吉野裕子 人文書院
「暦の百科事典」 暦の会編 新人物往来社
「広辞苑 第五版」 岩波書店(電子辞書)
「平安時代史事典」角田文衛監修 (財)古代学研究・古代学研究所編 角川書店
「国史大事典」 国史大事典編集委員会編 吉川弘文館
「平安時代の宗教文化と陰陽道」 山下克明著 岩田書院
「月刊 しにか」2002年3月号 大修館書店
他にもインターネットにお世話になりました。