逃げ切れない
昼休み、俺は自分の席を立った。立っただけでは何も起きない。歩き出しても、三歩くらいまでは誰も気づかない。四歩目で、教室の音が落ちた。
窓際の一角までは、十二歩だった。数えたわけではないが、あとから思い返すと十二歩だったと思う。三年間、俺が一度も歩いたことのない十二歩だ。
一角の五人がこちらを見た。見てから、どういう顔をすればいいのか分からない顔になった。
一人が弁当の蓋を閉めた。閉めてから、閉める必要はなかったと気づいた顔をした。教室の後ろのほうでは、誰かが椅子を鳴らして、そのあと妙に静かになった。
真ん中の一人だけが、こちらを見なかった。
「篠宮さん」
俺が名前を呼んだのは、たぶん三年ぶりだった。前に呼んだのがいつかは思い出せない。
篠宮の肩が動いた。動いてから、止まった。
「話がしたいんですけど」
返事はなかった。代わりに、椅子が引かれる音がした。
篠宮は立ち上がって、俺の横を通って、教室を出ていった。速かった。逃げるという速さではなく、予定があってそこへ向かう人の速さだった。ただし、予定がある人は、弁当を机に置いたまま出ていかない。
俺は追った。
廊下へ出たとき、篠宮はもう階段の手前にいた。上履きの音が聞こえない。この人は歩くのが速いのに音がしない。三年間、それで俺の視界から消え続けていたわけだ。
昼休みの廊下は、立ち止まっている人間のほうが多い。壁にもたれて喋っている集団を、篠宮は一度も減速せずに抜けていった。抜けるときに誰かが道を空けるのを、俺は後ろから見ていた。
道を空けられる人と、空けられない人がいる。俺は肩が二回当たった。
俺も走らなかった。校舎の中で走ると、それだけで話が一つ増える。
早歩きで階段を下りた。踊り場で一度だけ足が滑りかけて、手すりを掴んだ。掴んだ手すりは、八日前にこの人が触ったのと同じ手すりだった。
一階の廊下は昼休みで混んでいて、制服の色が同じぶん、探すのに時間がかかる。購買の前の列が廊下の半分を埋めていて、その列の全員が、早足で抜けていく俺を見た。
見つけたのは昇降口だった。篠宮は靴を履き替えているところで、俺が来たのに気づいて、片方だけ履いた状態で顔を上げた。
「あの」
篠宮が言った。この状況でもそこから始まるのか、と思った。
「昼休みは、あと二十分あります」
「知ってます」
「授業に、遅れます」
「遅れたら遅れたときです」
言ってから、自分がずいぶん違うことを言っているなと思った。高校に入ってから、俺は遅れたことも早く来たこともない。何もしなければ何も起きないので、何もしてこなかった。
篠宮はもう片方の靴を履いた。履いて、立ち上がって、外へ出た。
俺も履き替えて、出た。九月の午後の光が、一度に目に入った。校門までの道は日陰がなくて、アスファルトの照り返しが足首のあたりに来る。
昼のこの時間に校門を出る生徒はいない。守衛のおじさんが顔を上げて、おい、と言った。
篠宮は止まらなかった。俺も止まらなかった。呼び止められて聞こえなかったことにしたのは、高校に入ってから初めてだった。
篠宮は校門を出て、右へ曲がった。右は駅のほうで、つまりこの人の帰り道ではない。ここから右へ行っても、この人には何もない。
篠宮は走らなかった。走れば離せる距離なのに、歩いたままだった。
俺は走った。
走るのは十日ぶりだった。十日前も、この人のために走っている。そのときは前を見ていない自転車のためで、今日は前を見ない本人のためだ。
最初の三歩はやっぱり落ちるような感覚で、四歩目で顔が上がった。
そこから先は、体のほうが先に思い出す。腕の振りが勝手に小さくなって、足の着き方が変わる。中学のときに毎日やらされたことは、三年サボっても抜けていなかった。
抜けていないなら、なぜ三年もやらなかったのか。走りながら考えることではなかったので、考えなかった。
制服の背中が大きくなる。今日はスマホも持っていないし、こちらも押し倒すつもりはない。
二十メートルで並びかけた。並びかけたところで、篠宮が横断歩道の手前で止まった。信号が赤だった。
車が三台通った。
俺は息を整えながら、一メートル横に立った。声が出ないので、整うまで何も言わなかった。
「……速いですね」
篠宮が前を向いたまま言った。
「三年サボってても、二十メートルなら何とかなります」
「そうですか」
「そっちも速いです」
「……走ってはいません」
やはり歩いていた。歩いて逃げ切れると思っていたのだと思う。実際、三年間それで逃げ切っていた。
信号が青になった。篠宮は渡らなかった。
渡らずに、一度だけこちらを見た。
「どうして追いかけるんですか」
「聞きたいことがあるからです」
「一昨日、答えました」
「答えられない、って答えただけです」
それは答えていない、と言うつもりだった。言う前に、篠宮が歩き出した。
青のうちに渡って、そのまま商店街のアーケードへ入っていく。俺もついていった。
昼のアーケードは夕方より人が少ない。八百屋の平台は出ていて、水を打った跡が黒く残っている。その上を二人ぶんの足音が抜けていった。
俺たちは一度も並ばなかった。俺が追いつくと、あの人は少し速くなる。俺が諦めて速度を落とすと、向こうも落ちる。三メートルくらいの距離が、アーケードの端から端まで保たれた。
後ろから見たら、ずいぶん悪い絵だと思う。女子が前を歩いていて、男子が三メートル後ろをついていく。それだけで説明のつく話ではない。
承知したうえで、俺はついていった。承知していることが免罪になるわけでもない。
保たれているということは、向こうも俺の位置を測っているということだ。振り返りもせずに測れるものなのか、と思ったが、この人は鞄の厚みで傘の有無を当てる。足音の間隔くらいは数えているのだろう。
抜けたところの交差点で、篠宮は左へ曲がった。昼の一時前に、住宅街を通って隣の駅へ向かう理由は、どう考えても一つしかない。家へ帰るつもりだ。
俺は追った。今度は走らなかった。走れば追いつくが、追いついたところで足は止められない。
一度、足を止めた。ここで引き返せば、今日のことは全部なかったことにできる。三年間そうしてきたので、やり方は知っている。
前の背中も止まっていた。振り返らないまま、同じ場所で止まっていた。
俺はまた歩き出した。
橋が見えたところで、篠宮の歩幅が変わった。変わって、遅くなった。遅くなって、橋の真ん中で止まった。
止まる理由は何もなかった。まだ百メートルは差をつけられる。隣の駅まで行けば電車があるし、電車に乗ってしまえばそれで終わりだ。
それでも止まった。
俺は追いついて、二メートル手前で立ち止まった。川は昨日より澄んでいて、底の石が見えた。上流の小学生は今日もいない。橋の欄干は塗り直したばかりらしく、一箇所だけ色が違っていた。
昼の川は、夕方とは音が違う。水の音より、上を通る風のほうが大きい。遠くで工事の音がしていて、それも一定の間隔だった。
こんな時間にこの橋にいる高校生は、たぶん県内でも俺たち二人くらいだと思う。
篠宮は川のほうを向いていた。背中しか見えない。
「逃げ切れないと思いました」
そう言った。
「昨日までは、逃げ切れると思っていました」
「何かありましたか」
「……待つ、と言われました」
俺は一昨日の自分を思い出した。困ってください、とまで言った気がする。
「待たれると、計算が合わなくなります」
「計算」
「三年間、合っていたんです」
声が少しだけ震えた。震えたのは一音だけで、すぐ元に戻った。
俺は何を言えばいいのか分からなくて、川を見た。
「ここでは、話せません」
やがて、篠宮が言った。
「じゃあ、どこなら話せますか」
返ってくるまでに、川の水が二回、石の上で折れた。
「……今日の放課後に」
篠宮は振り返らずに続けた。
「行きたい場所があります」




