毎日
放課後、篠宮は俺を校舎の裏へ連れていった。
五限は二人とも遅れた。俺が先に戻って、篠宮はそのあとだった。担任は二人の名前を順に呼んで、出席簿に何か書いた。何を書いたかは見えなかった。
六限のあと、担任に呼ばれた。用件は昼のことで、守衛室から話が上がっていた。次はない、と言われた。二人ぶんの名前が出ていたが、篠宮のことは聞かれなかったので、俺も言わなかった。
廊下を歩くと、視線の量は昨日の倍だった。
掃除が終わるのを待って、俺たちは昇降口で合流した。合流というより、俺が立っていたら向こうが来た。
「こちらです」
篠宮はそれだけ言って歩き出した。
道順に見覚えがあった。体育館の脇を通って、裏へ回る。入学してから、ほとんど通らない道だ。通らないのは道が悪いからではない。
一年のときに一度だけ、掃除の用具を運ぶために通りかけたことがある。そのとき外周を回る足音が聞こえてきて、俺は用具ごと引き返した。誰にも見られていないので、誰にも説明していない。
説明していないことを、この人は知らないはずだった。歩きながら、俺は自分に予防線を張っていた。
どうせ、たいしたことは聞けないだろう。一昨日は答えられないと言われた。今日もそうなる。行きたい場所があると言われたから来ただけで、期待はしていない。
三年間、俺はこの言い方で自分を守ってきた。先に諦めておけば、外れたときに減るものがない。
体育館の裏に出た。外周のコースがある。土のトラックではなく、校舎とフェンスのあいだの、ただの通路だ。バスケ部が走っているのはここで、一周でだいたい三百メートルある。
今日は誰もいなかった。バスケ部はミーティングらしく、体育館の中から声だけが漏れている。
「ここです」
篠宮が立ち止まった。
俺はコースを見た。地面は固くて、ところどころ白い線の名残がある。誰かが引いた線ではなく、毎日同じところを踏まれて土が締まった跡だ。内側のほうが色が濃い。走る人間は内側を走る。
フェンスの向こうは民家の裏で、物干し竿に何も干していない。角のところに水たまりがあって、何日か前の雨が残っていた。
「なんでここなんですか」
「……ここで話したかったので」
答えになっていなかった。答えになっていないことは、向こうも分かっている顔だった。
篠宮は鞄を足元に置いた。置いてから、何も出さなかった。
「今日は、書いてきませんでした」
「番号ですか」
「……そうです」
俺は少し驚いた。この人は準備をしないと言えない人だ。本人がそう言った。
「書くと、言えることしか書かないので」
そう言って、篠宮は両手を前で合わせた。合わせてから、ほどいた。
「私が近くにいると、あなたが損をします」
最初の一文はそれだった。
「それは、思っているんですか。知っているんですか」
「……知っています」
「三年前に、何かあったんですね」
「はい」
「何が」
「それは、言えません」
やっぱりそこで止まるのか、と思った。思ったが、さっきまでと違って、俺は腹が立たなかった。
この人は「答えられません」と言った。言いたくないのではなく、言うと困るからだと言った。困るのは誰なのかを、俺はまだ聞いていない。
「言うと、誰が困りますか」
篠宮の肩が動いた。
「……あなたです」
「俺が」
「はい」
「俺が困るかどうかは、俺が決めるんじゃないですか」
言ってから、自分でも驚いた。この三年で一番厚かましいことを言った気がする。
篠宮は何か言おうとして、口の形だけ作って、やめた。アーケードの日から数えて五回目くらいの動きだった。
体育館の中で、誰かが笑った。声だけが壁を抜けて、俺たちのところまで来て、消えた。
「じゃあ、別のことを聞きます」
俺はコースのほうを向いた。向いたほうが言いやすかった。
「近づかないのは分かりました。損をさせないためだって言うなら、まあ、筋は通ってます」
「そのつもりでした」
「でも、見ないのは別でしょう」
風が吹いて、フェンスが少し鳴った。
「三年間、目も合いませんでした。廊下ですれ違っても、俺の肩の上を通ってました。班分けのときは俺以外の全員に指示を出しました」
言いながら、自分の声が思っていたより平らなことに気づいた。怒っていないわけではない。三年かけて、怒り方を忘れただけだ。
「近づかないだけなら、見てもよかったはずです」
篠宮は答えなかった。
答えないまま、一度だけ深く息を吸った。吸って、吐いた。
「見ていました」
最初、意味が入ってこなかった。
「……は?」
「見ていました。毎日」
篠宮はこちらを向いていた。俺の肩の上ではなく、俺を。
目が合うだけなら、この十日で何度もあった。まっすぐ見られたのは二度目だ。一度目は十日前の、アーケードの下だった。
「目を合わせないだけです」
俺は何も言えなかった。
「目が合うと、次に話しかけたくなります。話しかけると、隣に立ちます。隣に立つと──」
そこで止まった。
止まったが、今度は逃げなかった。言葉を探している顔のまま、そこに立っていた。
「──あなたが、損をします」
フェンスの向こうで、誰かが洗濯物を取り込み始めた。かごを置く音がして、竿が鳴った。
俺はコースの地面を見ていた。三年間、俺は自分がいてもいなくても同じだと思っていた。それは卑屈ではなく観測結果で、二年の四月に俺の名前だけくじ引きの紙になかったときも、それで説明がついた。
説明がついたから、俺はそこで考えるのをやめた。やめているあいだ、俺は毎日、誰かの計算の中に入っていたことになる。
見ないという努力は、見るより難しい。どこにいるかを知らないと、避けられない。
俺がいてもいなくても同じだったら、その作業は一日で終わる。
終わらなかった。
誰にも知られないまま、毎日続いた作業だった。
「……もう、来ません」
篠宮が言った。
「言うつもりはありませんでした。言ったので、もう来ません」
「それは、俺のためですか」
「……分かりません」
初めて聞く言い方だった。この人はいつも、答えるか、答えられないと言うかのどちらかだった。
「三年間、これが最善だと思っていました」
篠宮は鞄の持ち手に手をかけた。
「今は、思っていません」
鞄を持ち上げようとした。
「篠宮さん」
俺の声は、自分でも意外なくらい普通だった。
「明日も来てください」
「……来ると、」
「損をするんでしょう。それは聞きました」
「はい」
「それでも来てください」
篠宮は鞄の持ち手を握ったまま動かなかった。握り方は十日前から変わっていない。
「理由を、聞いてもいいですか」
「三年間、俺がここにいることを、いちばん正確に知ってたのはあなただからです」
言ってから、これは長すぎたなと思った。俺はこういう言い方をする人間ではない。
篠宮は長いこと黙っていた。体育館の中の声が一度大きくなって、また小さくなった。西日がフェンスの影をコースの上に落として、その影が少しずつ伸びていた。
「……①は、まだ無理です」
やっと出たのがそれだった。
「②からでいいです」
「……はい」
小さく、はっきりと言った。
それから頭を下げて、篠宮は校舎のほうへ歩いていった。歩き方は普通だった。曲がるところで一度足が止まって、今日は、振り返った。
振り返っただけで、何も言わなかった。それでも三年で初めてのことだった。
俺は一人でコースに残った。どうせ、と今朝も思った。今日もそうなると思っていた。
外れた。
三年間、一度も外れなかったものが、今日は外れた。俺はコースを一周だけ歩いた。三百メートルを、走らずに。
歩いても、足の裏は地面の固さを覚えていた。内側の色の濃いところを、俺は自然に選んで歩いていた。
一周して、元のところに戻った。誰もいない。体育館の声はもう聞こえない。
明日、②から聞く。




