①は当面使いません
朝、篠宮は八時五分に来た。俺がまだ鞄を肩から下ろしていないうちに、もう机の横に立っていた。窓際の一角はまだ三人しか集まっていない。
「あの」
「はい」
「②です」
俺は鞄を机に置いた。置く動作がやたらと長くなったのは、頭のほうが追いついていなかったからだ。
「おはようございます」
それが②だった。
俺は二秒くらい黙って、それから聞いた。
「それ、昨日までは①じゃなかったですか」
篠宮の肩が、わずかに上がって、下がった。
「繰り下げました」
「繰り下げ」
「①は、当面使いません」
当面、と言った。なくした、とも、やめた、とも言わなかった。この人は言葉を選ぶときに必ず退路を残す。
「……おはようございます」
俺が返すと、篠宮は頭を下げて、自分の席へ戻っていった。
席に着いて、鞄を置いて、椅子を引いて、背筋を伸ばした。三年間見てきた一連の動作で、今日もまったく同じだった。変わったところがあるとすれば、戻る途中で一度だけ歩幅が乱れたことくらいだ。
斜め前で坂内が振り返った。今日は椅子ごとだった。
「おはようって言われてたな」
「言われてた」
「返してたな」
「返した」
「進歩じゃん」
進歩という言葉を、俺はこの二週間で三回くらい考えた。全部この男に先に言われている。
一限が始まっても、俺は昨日のことを考えていた。見ていました、と言われた。毎日、と言われた。それを聞いた翌日に、人はどういう顔で同じ教室にいればいいのか。
昨日までは簡単だった。俺は見られていないと思っていて、実際に目は合わなかった。前提が一つしかなかったので、悩む余地がなかった。
今は違う。目が合わないことが、見ていないことの証明にならなくなった。
二限の途中で、俺は自分が窓際を見ていることに気づいて、やめた。やめてから、やめたことを向こうが見ているかもしれないと思って、それも考えないことにした。
こういうのを面倒くさいと言うのだと思う。三年間、俺はこの面倒を一度も背負わずに済んでいた。
昼休みに、坂内がパンを持って俺の机に来た。この男が自分から寄ってくるのは珍しい。
「聞いていい?」
「だめって言っても聞くだろ」
「おまえら、付き合ってんの?」
俺はパンを持ったまま止まった。
否定する言葉はいくつも浮かんだ。全部が、口に出した瞬間に嘘になる気がした。付き合っていないのは事実だが、事実だけを言うと、その周りにあるものが全部こぼれる。
「付き合ってない」
「歯切れ悪」
「悪いけど、本当だよ」
坂内は俺の顔をしばらく見て、それからパンをかじった。
「まあ、あんまり言わないようにするわ」
「何を」
「なんも。俺が言わないってだけ」
この男は、たぶん俺より先に何かに気づいている。そして気づいたことを言わないという選択を、この二週間で二回している。
五限は体育だった。男女別で、男子はグラウンド、女子は体育館。俺は昨日の外周コースの横を通って、グラウンドへ出た。
コースには誰もいなかった。昨日、俺が一周だけ歩いた地面が、そのままの色で残っている。
サッカーのミニゲームを四十分やった。俺は端のほうを守る係で、ボールは三回しか来なかった。三回とも無難に返した。
体育館の側の窓は開いていて、女子の声が時々こちらまで届いた。バレーらしい。誰かが点を取るたびに、同じ高さの歓声が上がる。
その中にあの人の声が混ざっているかどうかは、聞き分けられなかった。聞き分けようとしている自分に気づいて、俺はボールのほうを見た。
走らないわけではない。走るのは普通にする。ただ、速く走らない。速く走ると、速く走れることが分かってしまう。分かったところで誰も困らないのだが、俺が困る。
六限が終わって、掃除が終わった。俺が黒板消しを返して教室へ戻ると、窓際の一角はもう解散しかけていた。篠宮は鞄を持って立っている。
目が合った。
合ったというより、向こうが合わせてきた。昨日までなら逸らされていた。今日は逸らされなかった。
それだけのことで、俺は自分の足が勝手に一歩出ているのに気づいた。廊下へ出て、階段を下りて、昇降口を出るまで、俺たちは一言も喋らなかった。喋らないまま、二メートルの距離が保たれていた。
アーケードに入ったところで、俺が先に口を開いた。
「昨日の、②って」
「はい」
「本当は何だったんですか」
篠宮は少し歩いてから答えた。
「放課後は空いていますか、でした」
一週間前の話だ。番号がずっと同じまま持ち越されていたことに、俺はそこで初めて気づいた。
「じゃあ、今の②は」
「挨拶です」
「元の②は」
「③に下がりました」
「③は傘でしたよね」
「④に下がりました」
全部が一つずつ後ろへ動いていた。①を空けたままにするために。
空いた①には何も入れない。入れられるのは一つしかなくて、それがまだ言えないから、他の全部が一段ずつ席を詰めている。
俺はそれを、ずいぶん不合理な仕組みだと思った。思ってから、不合理だと思えるくらいには仕組みを理解しているのだと気づいた。
番号を一つ空けたまま運用するというのは、たぶん本人がいちばん面倒なはずだ。それでも消さないのは、いつか使う予定があるということになる。
予定がある、と考えたところで、俺は自分の足元を見た。
交差点に出た。右が俺の駅で、左が隣の駅だ。篠宮は左を見て、それから何も言わずに左へ曲がった。
俺は一拍だけ遅れて、ついていった。住宅街の道に入って、五十メートルほど歩いたところで、俺は気づいた。
言われていない。
一緒に帰るわけではありません、を今日はまだ言われていない。
「今日は、言わないんですね」
篠宮の歩幅が、ほんの少しだけ短くなった。
「……何をですか」
「一緒に帰るわけではありません、ってやつです」
風が正面から来て、フェンスの向こうの洗濯物が一斉に同じ方向を向いた。
「言っても」
篠宮は前を向いたまま言った。
「意味がないので」
俺は返す言葉を探して、見つからなかった。
橋までの道は、雨のあとで一度色が濃くなって、それがもう元に戻っている。二日で乾く程度の雨だったということだ。
昨日、この人は自分で一番言いたくないことを言った。その次の日に、一週間前から使っていた建前だけが残るはずがない。
崩れたのは建前のほうで、たぶん本体はまだ無傷だ。それでも、崩れた一枚ぶんだけ距離は近くなっている。
橋の上で、篠宮が立ち止まった。川を見ているのかと思ったが、違った。こちらを見ていた。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「昨日、どうして、明日も来てくださいと言ったんですか」
「理由は言いました」
「理由ではなく」
篠宮は言葉を探した。探すときに、両手を前で合わせる癖が出る。
「……損をすると分かっていて、それでも、というのが」
そこで止まった。
止まったが、逃げなかった。この人は昨日から、止まっても逃げなくなった。
「分かりません」
それが結びだった。
俺も分からなかった。分からないので、分からないなりに正確なことを言うことにした。
「俺も、理屈では分かってないです」
「そうですか」
「ただ、三年間なにも決めなかった人間が、一個だけ決めたんで」
言ってから、これも長かったなと思った。
篠宮は頷きもせず、否定もせず、また歩き出した。改札で別れるとき、頭を下げる角度がいつもより浅かった。浅いぶん、顔が見えた。
何か言おうとして、口の形だけ作って、やめた。
これで一回目だ。数え直しになる。




