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推薦が出ています

 六限のホームルームで、俺の名前が呼ばれた。正確には、呼ばれなかった。


 体育祭の種目決めだった。九月の下旬にあるらしく、うちのクラスは全員がどれかに出ることになっている。黒板には種目が縦に並んでいて、ほとんどの欄はもう埋まっていた。


 残っていたのは、クラス対抗リレーの四人枠だった。


 リレーだけは事情が違う。全員が出る種目ではなく、出たい人間と、出せる人間が限られている。黒板のその行だけ、チョークの下に四本の横線が引いてあって、そこが空いているのが遠くからでも見えた。


 進行は篠宮がやっていた。誰が決めたわけでもなく、こういうときは自然とこの人が前に立つ。指示は正確で、順番が乱れない。三年間、俺はそれを後ろから見ている側だった。


 担任は教卓の横で出席簿を開いたまま、ほとんど何もしていない。この人はいつもそうで、任せておけば終わることには口を出さない。プリントを配り忘れる人でもある。


「四人枠に、推薦を受け付けます」


 何人かの名前が出た。バスケ部が二人と、去年も走ったやつが一人。三人まではすぐに埋まった。


 最後の一枠で、斜め前の手が上がった。


「日野」


 坂内だった。


 教室の音が、はっきりと落ちた。もう何度目か分からない落ち方だった。


「おまえ、こないだ校門んとこ走ってたじゃん。見たやつがいる」


 校門を出たところだ。昼休みにあそこを出る生徒はいないので、教室の窓からでも十分に目立つ。見られた自覚はあったが、記録として残るとは思っていなかった。


「速かったって」


「二十メートルだけだよ」


「二十メートルで速いやつは、百でも速いんだよ」


 この男の理屈は、時々ひどく正しい。


 黒板の前で、篠宮が止まっていた。止まり方に見覚えがあった。止まったのは一秒か二秒で、教室の誰も気にしていない長さだ。ただ、ここ二週間、この人の止まり方ばかり見ている人間には分かる。


 黒板の三人ぶんの名前は、どれも同じ大きさで、同じ間隔で並んでいた。四人目の位置には、まだ何も書かれていない。チョークの先が、その空白の少し手前で止まっている。


 名前を書けない。


 黒板にはチョークを持った手が上がりかけていて、そのまま下りた。


「……推薦が出ています」


 篠宮はそう言った。


 誰の推薦とも、誰への推薦とも言わなかった。教室にいる全員が誰のことか分かっていて、一人だけが言えない。


 俺は椅子に座ったまま、手を半分だけ上げた。


「やめときます」


「なんでだよ」


「走らないんで」


「走ってたじゃん」


「あれは走ったんじゃなくて、急いだんです」


 坂内が「同じだろ」と言って、何人かが笑った。笑いが起きたぶん、空気が少し戻った。


 俺はその戻り方に助けられた。助けられたことに、少しだけ腹が立った。


 笑いというのは、場を元へ戻す機能がある。戻すということは、そこで起きかけたことを無かったことにするということだ。今回は俺にとって都合がよかったが、いつも都合がいいとは限らない。


 黒板の前で、篠宮が動いた。


「分かりました」


 それだけだった。


 速かった。異様に速かった。普通なら、もう一度だけ確認する場面だ。この人はいつも、断られた案件を必ず一度は言い直す。先週も、傘のことで三回粘った。今日は一回も粘らなかった。


 最後の一枠は別のやつに決まって、ホームルームは十分ほどで終わった。掃除が始まって、俺は黒板を消した。


 四人ぶんの名前が並んだ行を、右から順に消していく。三人目まで消して、四人目の空白のところで、消すものがないので手が空いた。


 空白は消せない。当たり前だが、実際に黒板消しを持って目の前に立つと、そのことが妙に手応えとして来る。


 掃除のあいだ、俺はクリーナーの音を聞きながら、そのことを考えていた。粘られなかった。


 断る理由を、俺は一つも説明していない。説明していないのに、追及されなかった。この人は、聞かなくても分かる側にいる。


 掃除が終わって、教室を出た。昇降口で追いついたのか、追いつかれたのか、よく分からない形で並んだ。交差点までの十分、どちらも何も言わなかった。


 左へ曲がって、住宅街に入った。この道はもう七回目で、犬の散歩の人の顔をいくつか覚えてしまった。向こうも俺たちを覚えているらしく、すれ違うときに会釈する。制服二人の並びは、この時間のこの道では目立つ。


 目立つが、ここには学校の人間がいない。それが唯一の利点で、たぶん篠宮がこの道を選び続けている理由の一つでもある。


 三軒目の角の家では、今日も同じ場所に同じ猫がいた。近づいても逃げないし、通り過ぎても見送らない。


 橋の手前で、俺が先に口を開いた。


「聞かないんですね」


 篠宮の歩幅は変わらなかった。


「何をですか」


「リレー、断った理由」


 二歩ぶんの間があった。


「……聞いてもいいんですか」


 俺はそこで足が止まりそうになって、止めなかった。止めると、こっちが困っているのが分かってしまう。


 聞いてもいいか、というのは、聞き方として反則だと思う。聞いていいと答えれば、俺は説明しなければならない。だめだと答えれば、説明できないことがあると認めることになる。


 どちらにしても、この人は答えを手に入れる。


 たぶん、本人はそこまで計算していない。計算していないのに、この人の言い方はいつもそうなる。


「今は、やめときます」


 俺が言うと、篠宮は小さく頷いた。


「はい」


 それきりだった。


 橋を渡って、隣の駅の改札で別れた。頭を下げる角度は金曜と同じだった。俺は電車に乗らずに、一本見送った。


 定期の切れる駅とは違う駅で、毎日切符を買っている。そろそろ定期を買い直すのか、それとも毎日百五十円を払い続けるのか、決めていない。決めていないということは、続ける気があるということだ。


 理由はなかった。ホームのベンチに座って、向かいのホームを見ていた。向かいには誰もいなくて、時刻表の電光掲示だけが二分ごとに切り替わる。


 聞かないというのは、二通りある。興味がないから聞かない。これが普通のほうだ。


 もう一つは、答えを知っているから聞かない。


 あの人は三年前、部室の前に二十回立った。俺が来ていないことを、二十回確認した。来なくなった理由を、そのとき誰かに聞いた可能性はある。


 聞いたのかもしれないし、聞かなくても分かったのかもしれない。どちらにしても、俺が「走らないんで」と言ったとき、あの人の側には既に説明があった。


 そう考えると、今日のホームルームの一秒が説明できる。名前を書けなかったのは、呼べないからだ。粘らなかったのは、粘れないからだ。


 次の電車が来るというアナウンスが入った。俺は立ち上がって、そこで一度、足の裏の感覚を確かめた。


 ホームの端から端まで、たぶん八十メートルくらいある。走れば十秒ちょっとだ。中学のとき、俺はその十秒のために毎日二時間走っていた。


 足首が、勝手に一度だけ角度を作った。スタートの前に必ずやっていた形だった。


 やめろ、と思った。思うより先に、体のほうが元に戻った。


 電車が入ってきて、風が来た。乗り込んで、扉が閉まって、俺はつり革につかまった。


 窓に自分の顔が映っている。特に何も決めていない顔だった。


 明日もあの人は来るだろうし、②から始まるだろう。①は空いたままで、俺は走らないままだ。


 何も変わっていない。


 変わっていないのに、電車の中で、俺は自分の足首のことをずっと考えていた。

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