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否定すると続きます

 朝、教室の空気が変わっていた。変わったというより、種類が変わった。今までは面白がる音だった。今日は、それより少し低い。


 鞄を置いて椅子を引いたとき、窓際の一角の誰かが俺を見て、目が合う前に外した。その外し方に見覚えがあった。三年前、俺が部活へ行かなくなってからの二週間、周りがずっとそういう外し方をしていた。


 面白がるときの視線は、外れるのが遅い。見ていたことを隠す必要がないからだ。低いほうの視線は速い。見ていたと思われたくない側の速さで外れる。


 今日は速いほうだった。坂内が振り返った。今日は椅子ごとでも首だけでもなく、机ごと少し寄せてきた。


「言っとくけど、俺じゃないから」


「何が」


「話が、ちょっと変な方に行ってる」


 俺は教科書を出す手を止めた。


「どう変なんだよ」


 坂内は一度だけ後ろを見て、声を落とした。


「篠宮がおまえを推薦させて、断らせて、恥かかせたって言ってるやつがいる」


 それは俺の知らない物語だった。


 推薦したのは坂内で、断ったのは俺で、篠宮は黒板の前で名前を書けずに立っていただけだ。関わった三人が全員そう知っているのに、その三人以外のところで別の話が完成している。


「誰が言ってんの」


「分かんない。聞いたやつも、聞いたって言ってる」


 出どころがない。出どころがないものは、誰に言っても止まらない。


 俺は教科書を開いて、開いたまま一限を過ごした。腹が立たないわけではなかった。腹の立て方が分からなかった。三年間、俺は誰かに何かを言われる立場にいなかったので、言われたときの手順を持っていない。


 一限が終わって、二限が終わって、俺は何もしなかった。昼休みに、廊下で知らない男子二人とすれ違った。片方が何か言って、片方が笑った。内容は聞こえなかった。


 聞こえなかったのに、俺は振り返った。


「なんか言いました?」


 言ってから、自分の声が思ったより低いことに気づいた。二人が立ち止まって、顔を見合わせた。


「いや、別に」


「篠宮さんの話じゃないんで」


 俺は黙って教室へ戻った。


 戻る途中で、自分が何をしたかを整理した。俺は、篠宮の話ではないと言われる前に、篠宮の話だと思って振り返った。二人はそれを見た。見たことは、たぶん夕方までに三人くらいへ渡る。


 否定したのではない。否定する構えを見せただけで、こちらの手札が全部見えた。


 五限の途中で、俺は自分の失敗の大きさを数え始めて、途中でやめた。数えたところで減らない。


 黒板では数学の証明が進んでいた。仮定があって、そこから順に一行ずつ導かれて、最後に示したいものが出る。


 噂には仮定がない。最初の一行がどこにもないのに、結論だけがある。数学より先に完成しているという点で、あれは証明より強い。


 六限が終わって、掃除が終わった。篠宮は今日、一度も俺の席へ来なかった。②も③もなかった。来なかったことを、俺は三回確認した。


 教室を出るとき、窓際の一角はもう解散していた。篠宮は一人で鞄を持っていた。


 昇降口で追いついた。


「今日、来ませんでしたね」


「……はい」


「理由、聞いていいですか」


 篠宮は靴を履き替える手を止めなかった。


「今日は、行かないほうがいいと思いました」


 外へ出た。九月の初めで、四時を過ぎると光の色が変わる。校門を出るまで、どちらも何も言わなかった。


 アーケードに入ったところで、俺のほうが先に切り出した。


「変な話になってるの、知ってますか」


「知っています」


「誰から」


「言われました。直接」


 俺は足が止まりそうになった。


「何て」


「私が、あなたに恥をかかせたと」


 言い方が平らだった。この人は自分の被害を報告するときだけ、極端に事務的になる。


「否定したんですか」


「していません」


「なんでですか」


 篠宮は少し歩いてから答えた。


「否定すると、続きます」


 俺はそこで、今日の昼の自分を思い出した。


 振り返って、なんか言いましたかと聞いた。あれは否定ですらなかった。否定の手前で、こちらが気にしているという情報だけを渡した。


 この人は、それを最初から知っている。


「経験で言ってますか」


「はい」


 それ以上は聞けなかった。聞けば、たぶん三年前の話になる。三年前の話は、この人がまだ渡さないと決めている場所にある。


 交差点を左へ曲がった。住宅街は今日も静かで、三軒目の猫は今日はいなかった。


 いないと、その場所が急に広く見える。いつも同じ場所に同じものがあるというのは、それだけで景色を小さくまとめている。


 二人の距離は、昨日までと同じ半歩ぶんだった。同じなのに、今日は遠く感じた。距離が同じで感じ方が違うなら、変わったのは距離ではない。


 橋の手前で、俺は聞いてはいけないことを聞いた。


「俺のせいですか」


 篠宮の歩幅が止まった。完全に止まった。


「違います」


 言い終わりが、早かった。


 俺は川のほうを見た。見ないと、たぶん顔に出る。


 この判定ができるようになってから、まだ十日ほどしか経っていない。その十日で、俺はこの人の嘘を三回見つけた。見つけるたびに、見つけないほうがよかったと思う。


 嘘だと分かるということは、本当のことを言っているときも分かるということだ。便利ではある。便利なのに、この人に関してだけは、使うたびに損をしている気がする。


「じゃあ、誰のせいですか」


「……誰のせいでもありません」


 これは本当だった。言い終わりが普通だった。


 誰のせいでもない。それが一番困る。


 誰かのせいなら、その誰かに言えばいい。止められる。俺は三年間、誰にも何も言わないことで生きてきたが、言えば止まる相手なら言う覚悟くらいはある。


 言う相手がいない。


 橋の上で、風が下流から来た。川の水は先週の雨から順調に減っていて、底の石がほとんど見えている。


 水が減ると、川はただの溝に近くなる。増えているときのほうが川らしいのに、実際には減っているときのほうが中身がよく見える。欄干の塗り直したところは、一週間でもう周りと馴染み始めていた。


「打つ手がないんですね」


 俺が言うと、篠宮は小さく頷いた。


「はい」


「あなたは、それを三年間やってたんですか」


 頷かなかった。否定もしなかった。


 その代わり、こちらを向いて足を止めた。


「打つ手がないときに、できることが一つだけあります」


「何ですか」


「近づかないことです」


 俺は何も言えなかった。


 それは、この人が三年間やってきたことの名前だった。そして、今日から先も選べる選択肢として、まだそこにある。


 言ってから、篠宮は自分の言葉に気づいた顔をした。


「……今のは」


「分かってます」


「違います。今のは、方法の話であって」


「分かってます」


 二回言った。一回でいいことを二回言うのは、たいてい自分に言っている。


 今日は俺のほうがそれをやっていた。


 改札で別れた。頭を下げる角度は、昨日より深かった。深いほうが距離は遠い。


 ホームで一本見送った。今日は座らずに、端まで歩いて戻ってきた。電車の中で、俺は吊り革につかまったまま、打つ手のことを考えていた。


 相手がいない。出どころがない。否定すれば燃える。何もしなければ、勝手に育つ。


 これは人ではない。


 人ではないものを、俺は初めて敵だと思った。

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