あたしは何も言わなかった
朝、篠宮は来た。昨日は来なかったので、来るかどうかは五分五分だと思っていた。八時七分に、いつもの位置に立った。
「あの」
「はい」
「②です」
「どうぞ」
「昨日のことを、謝らせてください」
俺は鞄を持ったまま止まった。
②は挨拶だったはずだ。番号の中身は日替わりらしい。この人の仕組みは、外から見ているぶんには一向に安定しない。
「何を謝るんですか」
「近づかないほうがいい、と言いました」
「方法の話だって、自分で言ってましたけど」
「言いました。それでも、あの場面で言う言葉ではありませんでした」
篠宮は一度だけ息を吸って、続けた。
「打つ手がないと言った人に、いちばん簡単な手を教えました。親切ではありませんでした」
俺は返す言葉を探して、見つからないまま「はい」と言った。
謝られたことより、この人が昨日の自分の一言を一晩かけて検算していたことのほうが、頭に残った。篠宮は頭を下げて、自分の席へ戻っていった。
一限が始まるころには、教室の低い音は昨日より少しだけ減っていた。減ったのは、たぶん新しい材料が入らなかったからだ。噂は育つが、餌がなければ育つ速度は落ちる。落ちるだけで、減りはしない。
昼休みに、俺は自分から廊下へ出た。三組の教室は、うちの隣にある。戸のところで中を覗くのは、高校に入ってから一度もやったことがない動作だった。やってみると、思っていたより勇気がいらなかった。
いらなかったのは、たぶん、ここ二週間で似たようなことを何度もやったからだ。教室を十二歩横切ったり、昼休みに校門を出たり、知らない男子に振り返って声をかけたりした。
一つずつは小さい。小さいのが十個たまると、十一個目の敷居が下がる。
相川はすぐに見つかった。窓側の前から三番目で、弁当を食べていた。
目が合った。向こうが先に気づいて、箸を置いて、それから少し困った顔をした。
三組は、うちのクラスより少しだけ声が大きい。担任が違うと、教室の音の量まで違うらしい。
廊下へ出てきた相川は、俺より先に口を開いた。
「日野くんから来るとは思わなかった」
「俺も思わなかった」
「なんか、あった?」
「あったというか」
俺は言い方を探した。探しているあいだに、相川のほうが先に階段のほうへ歩き出した。踊り場までの十歩で、こちらの用件を察したらしい。
踊り場に着いて、相川は鞄の紐の代わりに、今日はカーディガンの袖口を触った。
「この前の続き?」
「うん」
「あたしが知ってるのはそこまでって言ったんだけど」
「言い終わりが早かった」
相川が俺を見た。
「なにそれ」
「嘘つくとき、言い終わりが早くなる人がいるんだよ」
「それ、あたしのこと?」
「今のところ二人いる」
相川は口を開けて、閉じた。それから、諦めたみたいに壁にもたれた。
「……こわ」
「ごめん」
「いいけど」
窓の外で、風が木の枝を一度だけ動かした。三組の教室のほうから、昼休みの音がまとめて流れてくる。
この踊り場は、ここ二週間で俺がいちばん長くいた場所かもしれない。三年間、階段は上り下りするだけの場所だった。
「言えることだけ言う」
相川はそう前置きした。前置きする人は、たいてい線を引いてから喋る。
「日野くんが来なくなったあと、部活、ちょっと変だったの」
「変」
「同じ学年のやつが三人、しばらく来なかった。一週間か十日くらい」
俺はそれを知らなかった。知らないのは当然で、俺はそのとき部室に近づいてもいなかった。
あのころの俺は、家と学校の往復しかしていない。授業が終わると真っ直ぐ帰って、夕方のニュースが始まる前に家に着いた。母は何も聞かなかったし、俺も何も言わなかった。
自分で辞めたのだから、説明することが何もない。そう思っていた。
「なんで来なかったの」
「分かんない。顧問が何か言ったって話は聞いた」
「言った内容は」
「分かんない」
分からない、が二回続いた。どちらも言い終わりは普通だった。本当に知らないらしい。
「もう一個ある」
相川は俺を見ないまま言った。
「篠宮さん、陸上部じゃないのに、あの時期、顧問と話してた」
俺は踊り場の窓枠に手を置いた。置いてから、置く必要がなかったと気づいた。
「どこで」
「職員室の前。二回見た」
「何を話してたの」
「分かんない。近づける感じじゃなかったし」
三つ目の分からない、だった。
断片が三つ増えた。増えたのに、形が見えない。
三人が来なかった。顧問が何か言った。篠宮が顧問と話していた。三つとも同じ時期に起きている。同じ時期に起きたというだけで、繋がっているとは限らない。
限らないのに、俺の頭の中では勝手に線が引かれ始めていた。線を引くと、その線に合う断片だけが目に入るようになる。そういうやり方をすると、たいてい間違える。
「ありがとう」
俺が言うと、相川は首を横に振った。
それから、しばらく黙った。
「あのさ」
「うん」
「あたし、あのとき何も言わなかったから」
言い終わりが早くなかった。
「変だなって思ってたのに、誰にも聞かなかった。日野くんにも連絡しなかった。だってあたし、そこまで仲よくなかったし」
「うん」
「今も、そこまで仲よくないんだけど」
そこで少しだけ笑った。笑いを最後まで出さずに引っ込めるのは、この人の癖らしい。
「なのに、三年経ってから急に、言わなきゃよかったんじゃなくて、言えばよかったって思うんだよね」
俺は何も言えなかった。
この人は三年間、自分の側の話をずっと持っていた。俺はそれを一度も聞いたことがない。聞いたことがないのは、俺が誰にも何も聞かない人間だったからだ。
「またね」
相川は戻っていった。今日は振り返らなかった。
午後の授業は、頭に入らなかった。頭に入らないのは今週で四回目くらいで、そろそろ成績のほうが心配になる。
窓の外では、体育の授業がグラウンドを使っていた。誰かが走って、誰かが数えている。五十メートル走らしい。
タイムを読み上げる声が時々ここまで届いた。七秒台の数字が続いて、一度だけ六秒台が出て、そのとき少し歓声が上がった。
六秒台がどのくらいかは、体が覚えている。
六限が終わって、掃除が終わって、昇降口で篠宮と並んだ。交差点を左へ曲がって、住宅街を抜けて、橋を渡るまで、俺は相川の話を一言も出さなかった。
出せなかった。
出せば、この人は答えるか、答えないかのどちらかを選ばされる。どちらを選んでも、この人の側が減る。
住宅街の道は、今日は西日が真っ直ぐ差し込んでいた。この時間のこの向きだと、影が二つ、前へ長く伸びる。半歩ぶんの差が、影だと一メートルくらいに見える。
三軒目の猫は戻っていた。同じ場所で、同じ向きで丸くなっている。
三年前に何かがあった、というのが昨日までの俺の理解だった。今日からは、三年前に、俺の周りで何かがあった、になった。
主語が変わっただけだ。変わっただけなのに、こちらの立ち位置がずいぶん動いた気がする。
橋の上で、篠宮が一度だけ川を見た。見ただけで、何も言わなかった。
改札の前で、篠宮が振り返った。
「今日は、静かでしたね」
「そうですか」
「はい」
それだけ言って、階段を上っていった。
全体像は、まだ何も見えていない。




