サイズを測らせてください
金曜の帰り道に、③が出た。
「明日、時間はありますか」
橋の上だった。川はもうほとんど溝で、底の石が全部見えている。
「あります」
考える前に答えていた。考えてから答えると、たぶん違うことを言っていた。
「十時に、この駅で」
篠宮はそれだけ言って、改札を抜けた。用件は最後まで言わなかった。
木曜と金曜は、特に何も起きなかった。噂は静かに続いていて、静かに続くものは、続いているという以外に報告することがない。
土曜の朝、俺は九時五十分に隣の駅に着いた。土曜のこの駅は、平日の夕方とまったく違った。制服がいない。かわりに、買い物袋を持った人と、部活の遠征らしい他校の集団がいる。
改札の外のベンチに座って、十分待った。待つあいだ、俺は自分が何を着てきたかを二回確認した。
制服ではないことに、駅に着いてから気づいた。当たり前なのだが、平日のあいだずっと同じ服の相手を見ていると、そうでない可能性を計算に入れ忘れる。
鞄には紙袋を入れてきた。二週間、返せないまま持ち歩いていたやつだ。
九時五十八分に、篠宮が来た。白いシャツに、紺のスカート。それだけだった。装飾らしい装飾がなくて、制服から記章を外したような格好だった。
髪だけが違った。いつもは下ろしている前髪が、今日は片側だけ留めてある。
そのぶん、顔がよく見えた。
「おはようございます」
「おはようございます」
俺たちは十秒くらい、そこで突っ立っていた。
平日なら、ここから学校の話か番号の話になる。今日はどちらもない。会話の入り口が両方とも塞がっていると、人はこういう顔で立ち尽くすのだと知った。
「行きます」
篠宮が先に歩き出した。
電車に二駅乗った。土曜の午前の下りは空いていて、席は両端が埋まっているだけだった。俺たちは並んで座らず、扉の横に並んで立った。
空いているのに座らないのは、座ると向かい合うか、真横になるかのどちらかになるからだと思う。どちらも、今日のところは難しい。
並んで立つのは初めてだった。歩くときは半歩ぶん後ろにいることが多いので、止まったまま横にいた覚えがない。
窓の外を、知らない町が流れていった。
「どこへ行くんですか」
「店です」
「何の」
「制服の」
俺は鞄の紙袋のことを思い出した。思い出した瞬間に、今日の用件が全部分かった。
「返しに来たんですけど」
「返さなくていいと言いました」
「サイズが合わないので」
「だから、測ります」
この人は、二週間前から同じ結論へ向かって歩いている。途中で一度も方向を変えていない。方向を変えないまま、こちらの都合に合わせて経路だけを何度も引き直している。
駅を出て、五分ほど歩いたところに、その店はあった。うちの制服を扱う店は市内に二軒あるらしい。近いほうは学校の最寄りにあって、土曜の午前はうちの生徒でいっぱいになる。
この人は遠いほうを選んだ。
店の中は、同じ形の制服が同じ間隔で吊るされていた。奥に鏡があって、その手前に小さい台がある。
うちの学校のほかに、二校ぶんの制服も置いてあった。三校ぶんが並ぶと、どれも似たような紺色で、細部だけが違う。襟の線の数と、ボタンの色。毎日着ているものが、棚に並ぶと急に記号に見えた。
店員のおばさんが出てきた。
「サイズを測らせてください」
篠宮が言った。おばさんは俺たち二人を見て、それから何も聞かずにメジャーを持ってきた。
「肩、測りますね」
俺は台に上がった。
腕を横に広げさせられて、肩幅と、袖丈と、首まわりを測られた。三十秒くらいの作業だった。
「二つ下でいいと思いますよ」
おばさんが言った。
「二つ」
俺が聞き返すと、おばさんが続けた。
「今のが大きすぎるだけ」
肩に当てられたメジャーは、思っていたより冷たかった。
こういうふうに他人に測られるのは、中学の部活の身体測定以来だ。あのときは秒数と距離ばかり測っていて、肩幅を測られた記憶はほとんどない。
俺は鏡の中の篠宮を見た。
篠宮は鏡の中でこちらを見ていた。目が合った。合ってから、向こうが下を向いた。
「……一つ上を買いました」
「聞きました」
「三つ、外していました」
「外したのは二つです」
「三つです。大きいほうが安全だと思ったこと自体が、一つ目です」
おばさんが手を止めて、少し笑った。
笑われたことに気づいた篠宮が、耳まで赤くなった。教室ではまず見ない色だった。
会計のところで、俺は千円札を出そうとした。
「弁償なので」
「半分出します」
「弁償です」
「半分で弁償になりませんか」
「なりません」
おばさんが、レジの向こうで完全に笑っていた。
俺は折れた。三回目だ。この人は理屈で来るので、こちらが理屈をやめるまで終わらない。理屈をやめると、今度は何も言えなくなる。
鞄から紙袋を出して、篠宮に渡した。二週間持ち歩いたものが、やっと手を離れた。篠宮は受け取って、自分の鞄へ入れた。今度は断らなかった。
入れ替わりに、店の人が新しいほうの袋を出した。受け取って、空いたところへ入れた。
店を出て、少し歩いた。土曜の商店街は、平日より人が多くて、平日より歩くのが遅い。誰も急いでいないので、こちらも急げない。
角のところで、俺は足を止めた。
「じゃあ、昼飯おごります」
篠宮が止まった。
止まり方が、今までのどれとも違った。言葉を選んでいる止まり方でも、言えないことを言おうとしている止まり方でもない。
単純に、想定していなかった顔だった。
「……それは、何ですか」
「何でしょうね」
「弁償ではありませんよね」
「ではないです」
「お礼でも、ないですよね」
「ないです」
篠宮は自分の鞄の持ち手を握った。握って、離して、また握った。二週間前と同じ手だ。
「名前が、ありません」
「名前がないと、だめですか」
風が一度、二人のあいだを通った。
この人は名前の付いていない状態に名前を付けないと歩けない。一緒に帰るわけではありません、同じ方向に歩いているだけです、それは別のことです。そうやって全部に札を貼ってきた。
今日は貼れない札を差し出している。
篠宮は長いこと黙っていた。店の前の呼び込みの声が二回繰り返されて、三回目の途中で、口を開いた。
「……そばでもいいですか」
「いいです」
それが返事だった。
商店街の端の立ち食いではないほうのそば屋に入った。土曜の昼前で、客は四人しかいなかった。
篠宮は天ぷらそばを頼んで、俺はかけそばを頼んだ。
「天ぷら、食べるんですね」
「食べます」
「意外です」
「なぜですか」
「なんとなく、食べないと思ってました」
「食べます」
二回言った。今回は自分に言っているわけではなく、たぶん本当に主張していた。
そばが来るまでのあいだ、俺たちは黙っていた。黙っていても、平日の黙りとは種類が違った。
平日の黙りには理由がある。聞けないこと、言えないこと、周りの目。今日はそのどれもなくて、ただ、そばを待っているだけの黙りだった。
壁の品書きは半分が手書きで、値段のところだけ紙が貼り直してある。テレビはついていて、誰も見ていない。
窓の外を、うちの制服が一人も通らない。
それが今日のいちばん大きなことだったかもしれない。誰も見ていないところで、俺たちは二時間ばかり、ただの二人だった。
食べ終わって、駅まで戻って、改札で別れた。
頭を下げる角度は、平日より浅かった。
「月曜から、どうなりますか」
俺が聞くと、篠宮は少し考えた。
「たぶん、何も変わりません」
「そうですか」
「学校では、何も変わりません」
学校では、と言った。
その三文字を、俺は電車の中でずっと転がしていた。




