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慣れました

 月曜の教室は、先週の金曜と寸分違わなかった。


 窓際の一角は先週と変わらない顔ぶれで固まっていて、坂内は先週と変わらない角度で机に伏せている。黒板の隅の日直の名前だけが入れ替わっていた。


 土曜のことは、この部屋のどこにも痕跡がない。そば屋の品書きも、肩に当てられたメジャーの冷たさも、ここには持ち込まれていない。


 学校では、何も変わりません。


 言われたとおりになっていた。


 八時五分に、篠宮が来た。


「おはようございます」


「おはようございます」


「②です」


「挨拶ですね」


「はい」


 それで終わりだった。篠宮は自分の席へ戻り、俺は窓の外を見た。


 火曜も八時五分だった。水曜もそうで、木曜は八時四分だった。一分の差に気づいた自分に少し驚いた。それを数えられるほど正確に、俺はこの時刻を覚えていることになる。


 番号は毎朝くり返された。②は挨拶で固定されていて、③から下が日替わりになる。


 その週の③は、月曜が体育の持ち物、火曜が空欄、水曜が図書室の返却期限、木曜がまた空欄だった。


 空欄の日は「③はありません」とだけ言って帰っていく。用がないなら来なければいい、とは言わなかった。言えば、来なくなる気がした。


 言わずにいるうちに、俺は毎朝八時前から顔を上げるようになっていた。


 帰り道も形が決まってきて、教室を出るのは俺が先で、昇降口で少し遅くなって、アーケードの入り口あたりで追いつかれる。追いつかれてからは半歩ぶんうしろを歩く。一緒に帰るわけではないので、並ばない。


 商店街の中ほどで会話がなくなって、抜けたところで一つ増える。交差点で、向こうは左へ行く。


 この一連が五日のあいだ一度も崩れなかった。崩れないと、こちらの頭も働かなくなる。


 何を話すか考えなくてよくなり、考えないぶん、別のことが目に入るようになった。


 たとえば篠宮は、歩きながら鞄の持ち手を握り直す癖がある。三十歩に一度くらいの間隔で、右手だけが動く。


 たとえばアーケードの八百屋は水曜に大根が安く、放送が二種類あって、安い日だけ女の人の声になる。真ん中の花屋は五時になると店先の鉢を中へ入れ始める。


 俺たちが通るのはたいてい鉢が半分残っているころで、水曜だけは全部片づいていた。そういうことを一つずつ覚えていくのが、この五日間の中身だった。


 木曜の帰りに、傘のことを言ってみた。


「返しますよ、あれ」


「どれですか」


「借りたままのやつです」


「差し上げたものです」


「借りたつもりでした」


「返さなくていいと言いました」


 覚えていて言っているのか、条件反射なのか、判別がつかなかった。判別がつかないまま、話は次の角で終わった。


 紺色のあの傘は、玄関の傘立てに立ったままになっている。母が一度これ誰のと聞いて、俺が借りたと答えて、それきりだ。


 昼休みの教室では、篠宮の席のまわりに人がいる。三人か四人で、顔ぶれは日替わりで決まっていない。ノートを見せてくれと言いに来る者もいれば、用もなく寄っていくだけの者もいる。


 俺はそちらを見ないことにしている。見ないことにしているのに、声だけは届く。


 その声は、朝に俺へ向けられるものと違った。速くて、語尾が軽く上がって、言い直しがない。誰に対しても一定の速さで返している。


 教室のあの人は完成した受け答えをしていて、朝の五十秒のあいだだけ、番号を読み上げないと喋れない人になる。


 どちらが本当なのかは、考えても分からなかった。たぶん両方本当で、片方だけを渡されているのが俺なのだと思う。それが得なのか面倒なのかも、判断がつかない。


 噂は続いていた。続いてはいたが、その週は新しい材料が入らなかった。俺と篠宮が朝に五十秒喋って、帰りに商店街を縦に歩く。それだけの繰り返しでは、脚色のしようがない。


 視線は減った、と思う。教室に入ったときに一斉に上がる顔の数が、明らかに少なくなっていた。廊下で名前が聞こえることもほとんどない。


 飽きたんだろう、と俺は思った。どんな話題も十日続けば古くなる。古くなったものを持ち続けるほど、みんな暇ではない。


 ただ、減り方に妙なところはあった。以前は目が合うと向こうが笑った。面白いものを見ている顔だった。


 今は合う前に外れる。こちらが見るより先に、向こうが下を向いている。


 飽きたのなら、そもそも顔を上げない。顔を上げてから外すのは、飽きたのとは少し違う気がした。気がしただけで、深く考えるほどの材料はない。


 金曜の昼、坂内が斜め前から振り返った。


「なあ」


「なに」


「最近さ」


 そこで坂内は一度切って、弁当の蓋を閉めた。


「なんでもない」


「なんだそれ」


「言うほどのことじゃない」


 坂内はそれきり前を向いた。


 この男が言葉を飲み込むのは、めずらしいことではない。ただ、俺の周りで言いかけてやめる人間が、このところ増えている。


 何度目かを数えようとして、やめた。数えると、数えるだけの理由があることになる。


 金曜の帰り道は人が多かった。アーケードを抜けると空がいきなり広くなって、駅へ向かう流れと商店街へ入ってくる流れが、交差点の手前でぶつかって渋滞する。


 週末の匂いがした。誰も急いでいないのに、みんな少し早く歩いている。


 篠宮はその流れの外側へ一歩出て、先に口を開いた。


「今週は、静かでした」


「そうですね」


「あの」


 篠宮が立ち止まった。


 立ち止まり方が、いつもの言えないことを言おうとしている形ではなかった。言うことは決まっていて、言っていいかどうかを迷っている形だった。


「先週まで、毎朝、机の横まで来るのに少し勇気が要りました」


「そうなんですか」


「はい」


「今週は」


「要りませんでした」


 篠宮は自分の言ったことを検算するみたいに、二秒ほど黙った。黙っているあいだ、鞄の持ち手を握って、離した。歩いているときと手つきが違う。


「慣れました」


 風が交差点のほうから吹いてきて、ビニールの庇が鳴った。俺は何か言おうとして、言うことがないことに気づいた。


 こういうとき、この人はいつも札を貼る。一緒に帰るわけではありません、これは弁償です、名前がありません。そうやって関係に名前を付けてきた。


 慣れました、には名前がない。名前がないまま、向こうはそれを口に出した。


「それは、いいことですか」


 聞いてから、我ながらひどい聞き方だと思った。


 篠宮は少し考えた。


「分かりません」


 答えでも拒否でもない、あの言い方だった。自分の計算が崩れたときにだけ出てくる。


 交差点の信号が変わって、向こうは左へ歩き出した。歩き出してから、一度だけ振り返った。


「来週も、同じ時刻に行きます」


「待ってます」


 言ってしまってから、待ってます、と言うのは二度目だと気づいた。一度目は傘の日で、待っていたのは別のものだった。


 篠宮は何も返さなかった。返さないまま、橋のほうへ歩いていく。前髪は下りていて、片側だけ留めてはいない。土曜のあれは、やはり土曜のものだったらしい。


 家に帰って、玄関の傘立てに紺色があるのを確かめた。確かめる必要はなかった。あることは知っている。


 夕飯のとき、母が、最近よく喋るねと言った。誰とも喋っていないつもりだったので返事に困った。喋る量が増えたのは学校ではなく、この家でだったらしい。


 中学の終わりからこっち、俺がこの台所で一日に使う言葉は、たぶん五十を超えていなかった。


 その夜、俺は久しぶりに次の月曜のことを考えていた。何も起きない一週間が終わって、次も何も起きないのだろうと思った。


 そう思えること自体が、三年間なかったことだった。

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