伝え忘れ
月曜の朝、篠宮は八時五分に来た。
「おはようございます」
「おはようございます」
「②です」
「知ってます」
言ってから、余計だったかと思った。篠宮は一瞬だけ黙って、それから頭を下げて戻っていった。
週末を挟んでも、番号は繰り上がらないし、繰り下がりもしない。②は挨拶のままで、①は空いたままだ。
体育祭は今週の土曜で、今週から、放課後にクラスの準備が入る。看板を描く係と、応援の並びを決める係と、用具を運ぶ係があって、俺は用具のほうに入っていた。
入っていた、というのは自分で手を挙げたという意味ではない。人数が足りない枠が最後に一つ残って、そこへ名前が入った。三年間、俺の名前はだいたいそうやって決まる。文句はない。運ぶだけの仕事は、俺には合っている。
昼休みに黒板を見た。右端の連絡欄に、担任の字で「放課後 一年三組教室」と書いてある。先週の木曜から書いてあるやつで、今日まで一度も消されていない。
俺は黒板当番なので、この面がいつ書かれていつ消されたかを、たいてい覚えている。覚えたくて覚えているわけではなく、毎日消しているとそうなる。
六限が終わって、掃除をして、四時十五分に教室を出た。
一年三組は一階の端にある。階段を下りて、渡り廊下を通って、いちばん奥まで歩いた。
戸は閉まっていた。窓から中を見ると、机が寄せてあって、床に模造紙が二枚だけ残っている。人はいない。
待った。五分待って、十分待った。
そのあいだに、一年生が二人、廊下を通った。二人とも俺を見て、見たまま通り過ぎた。この時間の一階に三年生が立っていれば、それは見る。
四時半に、俺は階段を上った。教室に戻ると、まだ何人か残っていた。廊下側で三人が喋っていて、そのうち一人がこちらを向いて、すぐに向き直った。向き直り方が速かった。
俺は自分の席へ行って、鞄を持った。持ってから、黒板を見た。
連絡欄の字が変わっていた。
「放課後 視聴覚室」
担任の字ではない。誰かが書き直したもので、下に消し残りがある。「一年三組」の「三」の下の線が、白く残っていた。
俺は黒板消しの跡を見た。横に三回動かして、上から一回。雑な消し方だ。俺なら縦に消す。
昼には一年三組だった。その後に書き換えられて、俺はそれを見ていない。書き換えた人間が誰かは分からないし、分かる必要もない。放課後の予定が変わることはあるし、変わったら誰かが書き直す。それは普通のことだ。
普通でないのは、俺が今日、この教室に四時十五分までいたということだった。
書き換えは昼から四時十五分のあいだに起きていて、そのあいだ俺はずっとここにいた。連絡欄は俺の席から見える。書き換えている人間が黒板の前に立てば、それも見える。
見ていない。つまり、俺が席を外していたあいだに書き換えられた。掃除のあと、黒板消しを用具入れへ返しに行った数分しかない。どちらにしても、戻ってきた俺に誰も言わなかった。
廊下側の三人は、まだ喋っていた。声の量は変わらない。ただ、俺が黒板の前に立っているあいだ、一度も笑わなかった。
俺は鞄を持って廊下へ出た。視聴覚室は三階の西側で、教室からは近い。二分もかからない。
三年間、こういうことは何度かあった。二年の四月に席替えのくじ引きの紙から俺の名前が抜けていたときも、去年の球技大会で立ち位置の指示が俺だけ隣のやつ経由で来たときも、俺は何も言わなかった。
言えば直る話だった。言わなかったのは、直したところで何も変わらないからだ。三十人の教室で、俺の指摘は三十一人目くらいの重さしかない。
それは卑屈ではなく観測結果で、観測結果には腹を立てても仕方がない。
今回もそれで済ませようとして、うまくいかなかった。
うまくいかない理由は、はっきりしていた。今までは、誰も気づいていなかった。くじ引きの紙を書いたやつは書き忘れに気づいていないし、球技大会で伝言を挟んだやつも、自分が伝言を挟んでいる自覚がなかった。
今日は違う。
廊下側の三人は、俺が黒板の前に立っているのを見ていた。見て、何も言わなかった。言わないという判断を、あの三人はしている。判断が要るということは、気づいているということだ。
三階の廊下は西日が強い。突き当たりの窓が全部開いていて、カーテンが同じ角度で膨らんでいた。
視聴覚室の戸は半分開いていて、中から声がした。十人以上いる。模造紙を広げる音と、誰かが笑う声。
俺は戸の手前で足を止めた。入れば、遅れてきたやつとして扱われる。
理由を聞かれれば、一年三組にいましたと答えることになる。答えれば、誰かが「あ、変わったんだ、ごめん」と言う。それで終わる。
終わったあと、誰が何を思うかは、俺には制御できない。
戸の横の壁に背中をつけて、俺は自分の鞄の持ち手を握っていた。握ってから、これは誰かの癖だなと思った。
「あの」
顔を上げると、篠宮が廊下に立っていた。手に模造紙の筒を持っている。中から出てきたのではなく、階段のほうから来たらしい。
この人は看板の係だったはずだ。だとすれば、中にいるべき人間が、なぜ廊下にいるのか。
「……います」
俺が言うと、篠宮は中を見た。見てから、俺を見た。
「一年三組へ行きましたか」
聞かれるとは思っていなかった。俺が一年三組へ行ったことを知っている人間は、この学校に一人もいないはずだった。
「……行きました」
「そうですか」
篠宮は模造紙の筒を持ち替えた。持ち替えてから、壁のほうを向いた。中の声は続いている。
「連絡が、回っていませんでした」
「伝え忘れでしょう」
俺は言った。三年間で一番使ってきた言い方だった。
「違います」
即答だった。この人が即答するときは、声の硬さが取れる。今日は取れていなかった。硬いまま、速かった。
「知っていました」
西日がカーテンの隙間から入って、廊下の床に細い帯を作っている。帯は二人のあいだを横切っていて、どちらも踏んでいなかった。
「掃除のあとに、書き換わっているのを見ました」
「……見たんですか」
「見ました」
「なんで言わなかったんですか」
聞いてから、これは責める言い方になったと思った。
篠宮は黙らなかった。
「言おうとしました。それで、やめました」
「なんで」
「私が言うと、私が言ったことになります」
意味を取るのに二秒かかった。この人が俺に連絡を伝えると、それ自体が新しい材料になる。篠宮が日野に教えた、という話が一つ増える。増えれば、また誰かが何かを書き換える。
「だから、言いませんでした」
篠宮の声は平らだった。平らなのに、最後の一音だけ落ちた。
「そのほうがいいと思いました。思って、今日、あなたが一年三組の前に立っているのを想像しました」
俺は何も言えなかった。
「想像して、それでも言いませんでした」
中で誰かが笑った。何の話かは分からない。模造紙を広げる音が続いている。
「こうなることは、分かっていました」
篠宮はそう言って、こちらを向いた。
「三年前に、一度ありました。今度は、分かっていて近づきました」
その言い方で、俺はやっと気づいた。
この人はいま、謝っていない。謝ってもいないし、言い訳もしていない。分かっていてやった、と言っている。それは説明ではなく、申告だった。
「……戻ります」
篠宮は模造紙の筒を持ち直して、視聴覚室へ入っていった。入るときに戸を大きく開けたので、中の声が一度こちらまで届いて、すぐに戻った。
俺は廊下に残された。西日の帯が、さっきより少し長くなっていた。踏まないまま、しばらくそこに立っていた。
連絡が回らなかったのは、今日が初めてではない。
初めてなのは、回らなかった理由に人の意思が入っていたことだ。




