今度は言う
火曜の朝、篠宮はいつもの時刻に来た。
「おはようございます」
「おはようございます」
「②です」
③はなかった。空欄の日はこれで三度目になる。
昨日のことには触れなかった。触れないという判断を、たぶん向こうも一晩かけて検算したのだと思う。俺も触れなかったので、二人で同じ結論に着いたことになる。
一限から四限まで、普通に授業を受けた。廊下側の三人は普通に喋っていて、こちらを見る回数は昨日より減っていた。減っていることを数えている自分に気づいて、やめた。
昨日から、教室の見え方が変わっている。同じ机が同じ位置に並んでいるのに、そのあいだを通るとき、どこを通っても誰かの視界を横切る気がする。三年間、俺はこの部屋でいちばん邪魔にならない生き物だった。
邪魔にならないというのは、こちらが何もしていないからだと思っていた。何もしていないのに邪魔になる場合があるとは、考えたことがなかった。
昼休みに、教室の戸のところから名前を呼ばれた。
相川だった。今回は先に分かった。呼ばれるのは三度目で、三度とも同じ場所から呼ぶ。
廊下へ出ると、相川は階段のほうではなく、反対側を指した。
「今日、こっち」
こっちの先には視聴覚室と、その隣の空き教室がある。使われていない部屋で、昼はだいたい誰もいない。
俺たちは空き教室の前の廊下に立った。窓の外は中庭で、下で一年生が何人か弁当を食べている。
相川は壁にもたれなかった。今日は鞄の紐も袖口も触らない。両手を前で合わせて、それから下ろした。
「昨日、日野くん、連絡もらってなかったでしょ」
俺は少し驚いた。
「なんで知ってるの」
「聞いた。三組でも喋ってる」
クラスをまたいでいた。昨日の夕方から今日の昼までのあいだに、話は一クラス分を移動したことになる。
「べつに、伝え忘れだよ」
「日野くん、それ、何回言った?」
答えられなかった。
相川は俺の顔を見て、それから中庭のほうを見た。下の一年生が笑っている。
「あたし、決めてきた」
「なにを」
「今度は言う」
声の高さが、いつもと違った。低いのではなく、平らだった。
「三年前、あたし何も言わなかったの。変だと思ってたのに、誰にも聞かなかった。それでこの前、日野くんに言えることだけ言って、言えないことは黙ってた」
「言えないことがあったんだ」
「あった」
あっさり認めた。
「でも、昨日の話を聞いて、同じだなって思った。三年前も、みんな気づいてて、誰も言わなかった。それで日野くんが勝手にいなくなったことになった」
中庭で、一年生の一人が立ち上がってゴミを捨てに行った。
「だから言う」
俺は壁に背中をつけた。つけてから、聞く準備をしているみたいだと思って、姿勢を戻した。戻したところで準備はできていない。
「県大会のメンバー表、覚えてる?」
「……たぶん」
「部室の壁に貼ってあったやつ。九月の終わりに貼り替えるの」
覚えていた。模造紙に手書きで、種目ごとに名前が並んでいる。三年は最後の大会なので、たいてい全員が入る。
「日野くん、貼り替えたやつ、見た?」
「見てない」
見ていない。行かなくなったのは十月の頭で、貼り替えは九月の終わりだ。見ている時期のはずだが、記憶にない。
「そうだと思った」
相川はそこで一度、息を吸った。
「日野くんの名前、最初から入ってなかった」
中庭の声が遠くなった。
遠くなったのは音のほうではない。こちらの聞き方が変わっただけだと思う。
「……いつの話」
「九月の終わり。貼り替えた日」
「俺が行かなくなったのは十月だよ」
「うん。だから、先なの」
先。
俺は自分が十月の何日に部活へ行かなくなったかを、正確には覚えていない。覚えているのは、ある日から行く理由が見つからなくなった、という感覚のほうだ。
三人に言われたことも覚えている。おまえがいると面倒になる、という意味のことを、廊下で言われた。言い方はもっと短かった。
あれで決めた、と思っていた。言われて、考えて、自分で行かないことにした。
だから三年間、俺はこれを自分の判断として持っていた。持っていられたから、誰にも説明しなくて済んだ。
説明しなくていい話には、根拠が要らない。要らないまま三年も持つと、根拠があったことになる。
「順番が」
声が掠れた。一度咳をして、もう一度言った。
「順番が、逆だったってこと」
「そう」
「言われたのは、決まったあと」
「あたしが見たのはそこまで。でも、貼り替えの日には、もう無かった」
俺は自分の手を見た。手のひらに何もない。何も持っていないのに、握っていた。
膝の裏が、勝手に反応した。バスケ部が外周を回る音を聞いたときに出るのと同じやつで、三年間、これが出るたびに俺は自分の判断を思い出すことにしていた。自分で決めてやめたのだから、体だけ反応するのはおかしい、と。
おかしくなかったことになる。体のほうが、三年間ずっと正確だった。
三年間、俺が持っていたのは「自分でやめた」という一文だった。その一文があれば、あとは全部説明がついた。走らないのも、部活に入らないのも、リレーを断るのも、全部その一文から出ている。
一文が先にあって、生活があとから合わせて組まれた。順番はそれで通っていた。
その一文が、いま、日付ひとつでひっくり返った。
「なんで俺の名前が」
「分かんない」
相川は即答した。今度も言い終わりは普通だった。
「ほんとに分かんない。顧問が決めたのか、誰かが言ったのか、あたしは見てない。見てたら、その場で聞いてた」
聞いていたかどうかは、分からないと思う。三年前の相川が、聞ける人だったかどうか。
ただ、それを今ここで言うのは違う。言えばこの人は黙る。黙られると、こちらは何も得ない。
「三人が来なかったのは、そのあと?」
「そのあと。十月の半ばくらい」
「篠宮さんが顧問と話してたのは」
「……たぶん、その前後」
相川はそこで初めて言い淀んだ。淀んだが、逃げなかった。
「あたし、篠宮さんのことは、ほんとに分かんないの。何をしたのかも、なんでなのかも」
中庭の一年生が全員いなくなっていた。誰もいない場所は、さっきより広く見える。
「それは本人に聞いて」
「聞ける気がしない」
「聞けるでしょ」
相川は俺を見た。見方が、中学のころの目つきに戻っていた。
「日野くん、昼休みに校門出たじゃん。あれ、うちのクラスでも喋ってたよ」
その話はここまで来ていたのか、と思った。届く範囲がどこまでなのか、俺はいまだに把握できていない。
「あれは、いい話じゃない」
「知ってる。でも、あの日野くんなら聞けるでしょ」
俺は返事をしなかった。
昼休みの終わりの予鈴が鳴った。中庭の向こうで、掃除用具を持った一年生が走っていく。走るなと言われている廊下を、みんな走る。
「ありがとう」
俺が言うと、相川は首を横に振った。
「お礼はいらない。三年遅いから」
言い終わりは、早くなかった。
相川は自分の教室のほうへ戻っていった。今日も振り返らなかった。
俺は空き教室の前に一人で残った。
五限が始まるまで、あと四分ある。四分で教室に戻れるのは分かっている。分かっているのに、足が動かなかった。
三年前の十月、俺は自分で決めたと思って部活をやめた。
九月の終わりには、決まっていた。
そのあいだの数日、俺は何も知らないまま、いつもどおり練習に出ていたことになる。出ていた自分が、いまここから見えない。どんな顔で走っていたのか、何本走ったのか、誰と一緒だったのか、何も出てこない。
覚えているのは、その時期のグラウンドが乾いていたことと、日が落ちるのが急に早くなったことだけだ。毎日測っていた記録の数字は、一つも残っていない。
思い出せないものを、三年間ずっと自分の選択として数えてきた。




