覚えていない
五限と六限は、内容をほとんど覚えていない。板書は写したので、ノートを見れば何をやったかは分かる。分かるだけで、頭には何も残っていなかった。
放課後の準備は視聴覚室だった。今日は連絡欄が書き換わっていない。俺は用具の係として、体育祭で使う旗の本数を数えて、木箱に入れた。数えるのは得意だ。十八本あった。
作業は四時半に終わった。篠宮は看板の前で、模造紙の端を押さえていた。周りに三人いて、そのうち一人が何か言って、全員が笑った。篠宮も口の端だけ動かした。
俺は片付けを終えて、廊下で待った。待つと決めたのは五限の途中で、決めてから二時間、そのことばかり考えていて、考えた内容はほとんど進んでいない。
五分ほどして、篠宮が出てきた。俺を見て、足が止まった。
「あの」
「聞きたいことがあります」
先に言った。言わないと、この人は自分の番号の順番で喋り出す。
篠宮は廊下の向こうを見た。視聴覚室からはまだ人が出てくる。
「……場所を」
「校舎の裏でいいですか」
篠宮の指が、鞄の持ち手の上で一度動いた。
「はい」
外周コースには誰もいなかった。体育祭が近いので、部活は今週いっぱい休みらしい。
九月の四時四十分は、もう影が長い。フェンスの向こうの物干し竿に、今日は洗濯物が出ていた。
俺はコースの内側の、土が締まっているところに立った。前にここへ来たとき、俺は一周だけ歩いた。歩いたのは、走れなかったからだ。
篠宮は二メートル離れて立った。前にここで話したときも、このくらいだった。
「三年前、俺が陸上部を辞めたときのことです」
篠宮の肩が動いた。動いて、止まった。
「県大会のメンバー表に、俺の名前が入っていなかったそうです。九月の終わりに貼り替えた時点で」
「……はい」
「知ってたんですか」
「知っていました」
即答だった。声の硬さは取れていなかった。
「なんで知ってたんですか」
そこで初めて、篠宮が言葉を探す顔をした。探して、それから諦めたみたいに口を開いた。
「見ました。部室の前の、掲示のところで」
「なんで部室に」
「あなたが来ていないと聞いたので」
順番がおかしい、と思った。おかしいのはこちらの理解のほうで、この人の中では順番が通っている。
「もう一度いいですか。俺が来なくなったのは十月です。メンバー表は九月です」
「はい」
「九月の時点で、あなたはもう部室に行ってたってことですか」
篠宮は答えなかった。答えないまま、フェンスのほうを向いた。
「……九月の、二十六日です」
日付が出た。この人は日付で覚えている。俺が感覚で覚えているものを、この人は数字で持っている。
「何があったんですか、その日」
「その三日前に、廊下で」
篠宮の声が、少しだけ低くなった。
「三人が、私のことを話していました。話の中身は、言いません」
「言わなくていいです」
「あなたが、通りがかりました」
俺は自分の記憶を探した。三年前の九月、廊下、三人。何も出てこなかった。
「そこで、一言だけ言いました」
「何て」
「『聞こえてる』と」
知らない話だった。俺はそれを言った覚えがない。言いそうなことではあると思う。長い台詞は言わないし、注意もしない。聞こえてる、で済ませて通り過ぎるのは、たぶん俺のやり方だ。
やり方には覚えがあるのに、その日の記憶だけがない。探す場所を間違えているのかもしれないと思って、もう一度探した。やはり無かった。
「……覚えてないです」
言うと、篠宮がこちらを見た。
ひどい顔だった。もっと悪いものを見た顔、というのをアーケードで倒れた日にも見ているが、今日のはそれより深い。
「覚えていない、ですか」
「はい」
「一度もですか」
「たぶん、一度も」
篠宮は目を伏せた。伏せて、しばらくそのままだった。
フェンスの向こうで、洗濯物を取り込む音がした。かごを置いて、竿を鳴らして、また置く。三年前もこんな音だったとは限らないのに、そういう音を聞くと時間の区別がつかなくなる。
「三日後に、メンバー表から名前が消えました」
篠宮は顔を上げないまま続けた。
「私は、掲示を見てから職員室へ行きました。二回行きました。一回目は、話を聞いてもらえませんでした。二回目は、聞いてもらえました」
「何て言ったんですか」
「事実だけ言いました。三人が何を話していたか。あなたが何と言ったか。それだけです」
それで三人が一週間か十日来なくなった。相川が見た「顧問が何か言った」は、たぶんそこだ。
順番が全部つながった。つながったところで、結果は何も動かない。
「俺の名前は、戻らなかった」
「戻りませんでした」
「なんで」
「分かりません」
分かりません、が出た。この人がこれを使うのは、計算が合わなくなったときだけだ。
「私は、戻ると思っていました」
篠宮の声が、初めて少しだけ揺れた。
「事実を言えば、間違いは直ると思っていました。直りませんでした。直らなかったうえに、あなたが部へ来なくなりました」
「それは、俺が」
「十九回、行きました」
遮られた。この人が人の話を遮るのを、俺は初めて見た。
「部室の前に、十九回です。十月と十一月で。中には入りませんでした。出てきた人に、来ていますかとだけ聞きました」
相川は十回か二十回と言った。本人は十九回と言う。
数えていたということだ。三年経っても数字が出るということは、あのころ数えながら通っていた。
「毎回、来ていないと言われました」
風が一度、コースの土を薄く動かした。
「十九回目の帰りに、決めました」
そこで篠宮は、初めてまっすぐこちらを向いた。
「私が動いたことで、あなたは失いました。私が近づくと、あなたが損をします。それが結論でした」
「それは──」
「三年間、その結論で通しました」
俺は何も言えなかった。
言えることはいくつもあった。三人が悪い。顧問が悪い。あなたのせいじゃない。どれも言えたし、たぶん半分は本当だ。
半分本当のことを言っても、この人の三年間は一日も減らない。減らないものを軽くしようとするのは、こちらが楽になりたいだけだ。
「一つだけ、いいですか」
「はい」
「俺は、あなたに無視されていた三年間のことを、けっこう覚えてます」
篠宮の顔から、表情が抜けた。
「廊下で目が合わなかったことも、班分けで飛ばされたことも、全部覚えてます。忘れたことにはなってません」
「……はい」
「でも、あなたを助けた日のことは覚えてなかった」
言ってから、順番が逆だなと思った。
「助けたつもりもなかったです。聞こえてる、って言っただけなんで」
「それが、あなたです」
篠宮は言った。硬いままの声で、言い直しもせずに。
「覚えていないことを、してしまう人です」
それは褒め言葉の形をしていたが、この人の口から出ると別のものに聞こえた。
俺が覚えていない一言で、この人の三年間が決まった。俺の三年間も決まった。決めたのは俺ではなくて、決まったことを俺は知らなかった。
いてもいなくても同じだと思っていた。実際は、いたせいで全部動いていた。どちらがましなのかは、分からない。
帰り道は、どちらも一言も喋らなかった。アーケードを抜けて、交差点で左へ曲がって、住宅街を抜けた。三軒目の猫は今日もいた。
橋の上で、篠宮が一度だけ足を止めた。止めて、何か言おうとして、やめた。
改札で別れた。頭を下げる角度は、いつもと同じだった。
電車に乗って、窓にもたれて、俺は自分の膝を見ていた。
どうせ、と思った。これから何をしても、この人の三年間は戻らない。俺の三年間も戻らない。
今度は、外れなかった。




