番号が合わない
水曜の朝、篠宮はいつもの時刻に来た。
「おはようございます」
「おはようございます」
「②です」
「はい」
それで終わりだった。昨日の夕方に外周コースで話したことは、どちらも出さなかった。出さないという判断を、たぶん二人とも一晩かけて済ませている。
篠宮は自分の席へ戻って、背筋を伸ばして座った。三年間見てきた一連の動作で、今日もまったく同じだった。
同じなのに、こちらの見え方が変わっている。
三年前、この人は職員室の前に二回立った。部室の前に十九回立った。その二十一回のあいだ、俺は家と学校を往復していて、何が起きているかを一つも知らなかった。
知らないまま、三年が過ぎた。過ぎたあいだ、俺はこの人を「見てこない人」として処理していた。
処理の仕方が間違っていたと分かっても、三年ぶんの処理が消えるわけではない。俺の中には、見てこない人としての篠宮の記憶が、まだそのままの形で残っている。
一限は数学だった。黒板の数字を写しながら、俺は二十一という数を何度か思い出した。
昼休みに坂内が振り返った。今日は弁当を持ったままだった。
「日野、顔」
「顔?」
「ひどいよ」
鏡を見ていないので分からない。ただ、昨日の夜は二時くらいまで天井を見ていた。
「寝てない」
「勉強?」
「そういうことにしといて」
坂内は少し笑って、それから笑いを引っ込めた。この男は、引っ込めるのが年々うまくなっている。
「あのさ」
「うん」
「土曜、出るんだろ」
体育祭のことだった。俺は用具の係で、出場は玉入れと綱引きだけになっている。リレーは断った。
「出るよ。走らないけど」
「走れよ」
軽い口調だった。悪気はないし、意味も込められていない。ただ、昨日までなら聞き流せた一言が、今日は違うところに当たった。
走らないのは俺が決めたことだ、と三年間思ってきた。決めていなかったと分かった今、俺は走らない理由を持っていない。
持っていないのに、走る気にもならない。理由が消えても習慣は残る。
「考えとく」
俺が言うと、坂内は「珍しいな」と言って前を向いた。
珍しいのはこちらも同じだった。走れよ、と言われて考えとく、と返したのは三年で初めてだと思う。これまでは走らないんで、で終わらせていた。
終わらせる言葉を持っていると、話は短くて済む。短く済ませているあいだ、こちらは何も決めなくていい。
木曜の放課後は、視聴覚室で看板の仕上げだった。
用具の係は四人いる。体育館の倉庫から玉入れの籠と綱を出して、当日の朝に運べるところまで寄せておくのが仕事だった。
倉庫へ行くと、籠はもう出してあった。綱も、台車に載って壁際に寄せてあった。
誰かがやったということだ。四人のうち三人でやれば、それで済む。俺は台車の位置を少し直して、戻った。
戻る途中で、係のもう一人とすれ違った。一年生ではなく、うちのクラスの男子だ。目が合って、向こうが先に外した。
外し方が、廊下側の三人と似ていた。
俺は用具の確認で体育館と教室をあと二往復して、そのあいだに看板の前を二度通った。二度とも篠宮がいて、二度とも同じ姿勢で筆を持っていた。
背中しか見えないが、背中の角度でこの人がどのくらい集中しているかは、だいたい分かるようになっている。
分かるようになったのは、この一か月でだ。三年間まったく見えていなかったものが、一か月で見えるようになった。三年と一か月を比べると、どちらが本当なのか怪しくなる。
二度目に通ったとき、看板の白い部分が減っていた。三十分でそれだけ塗ったことになる。手を止めずに塗り続ける人と、話しながら塗る人とでは、進み方がまるで違う。
周りの三人は話しながら塗っていた。篠宮は返事だけをして、筆を止めなかった。
それを見て、俺は三年前の職員室の前を思い出した。この人は、やると決めたことを手を止めずにやる。それでも戻らなかったものがある。
金曜の朝、番号が崩れた。
「おはようございます」
「おはようございます」
「……③です」
篠宮が言った。
俺は鞄を持ったまま止まった。②が飛んでいる。
この人の番号は、②が挨拶で固定されている。二十一日前に繰り下げて以来、一度も動いていない。挨拶を飛ばして③から始まったことは、一度もなかった。
「②は」
言いかけて、やめた。指摘することじゃない気がした。
篠宮の指が、鞄の持ち手の上で止まっていた。握ってもいないし、離してもいない。中途半端な位置で止まっている。
「……すみません」
「いえ」
「もう一度、いいですか」
「どうぞ」
「おはようございます」
二度目の挨拶だった。俺は二度目の挨拶を返した。
教室の音が半分になっているのが分かった。廊下側の三人も、窓際の一角も、全員が別のことをしているふりをしている。ふりの精度は、この二週間でずいぶん上がった。
「③です」
「はい」
「明日は、雨は降りません」
それが③だった。
体育祭は予定どおり行われる、という意味だと解釈するのに、三秒かかった。この人は結論だけを置いていくことがある。
「そうですか」
「降水確率は十パーセントです」
「十なら、降りませんね」
「四十でなければ、傘は要りません」
言ってから、篠宮は自分の言ったことを検算する顔をした。三週間前の話を、この人はまだ番号のどこかに持っている。
俺は少し笑いそうになって、こらえた。こらえたのは、笑える場面かどうかの判断がつかなかったからだ。
篠宮は頭を下げて、自分の席へ戻っていった。戻る途中で、一度だけ歩幅が乱れた。
六限のあと、クラスは前日の準備で残った。机を寄せて、応援の並びを一度だけ通して、旗を数えた。
旗は十八本のままだった。数えたのは俺で、確認したのも俺だった。誰も二度目を数えない。
教室の空気は、前日にしては静かだった。明日の勝ち負けの話はほとんど出ず、代わりに、誰が誰と同じ組かという話が何度か出た。
その日の帰り道は、アーケードを抜けるまで一言もなかった。
俺たちは黙って歩くのに慣れている。慣れているはずなのに、今日の黙りは形が違った。平日の黙りには、聞けないことと言えないことがあった。今日は、聞いてしまったあとの黙りだった。
聞いてしまうと、次に何を話せばいいのかが分からなくなる。分からないまま歩くと、歩幅だけが微妙に合わなくなる。
商店街の花屋は、今日はもう鉢を全部片づけていた。金曜なので早いのかもしれないし、俺たちが通るのが遅いのかもしれない。
どちらなのかを確かめるには、明日も同じ時刻に通るしかない。明日は土曜で、この道は通らない。
交差点で、篠宮が立ち止まった。
「あの」
「はい」
「明日は、来ますか」
体育祭に来るか、という意味だった。全員参加の行事なので、聞く必要のない質問だ。
「行きます」
「そうですか」
「篠宮さんは」
「行きます」
それだけの会話だった。
それだけの会話を、この人はたぶん朝から準備していた。番号を一つ飛ばすくらいには。
篠宮は左へ曲がった。俺はその背中を、いつもより長く見ていた。
家に帰って、明日の体操着を出した。一年のときから使っているもので、胸のところに中学の名前を消した跡が残っている。
消しきれていないのは前から知っていた。直す理由がなかったので、そのままにしてある。三年前までは、この字を消す必要もなかった。
明日は体育祭だ。




