面白くありません
体育祭の朝は、七時半に登校だった。
用具の係は八時までにグラウンドへ籠と綱を出す。四人でやれば十五分で終わる仕事で、実際には三人で来て、十五分で終わった。俺は台車の片方を押して、戻ってきて、テントの脚を押さえた。空は篠宮の言ったとおりで、雲はあるが、どれも高いところで動いていない。
九時の開会式で、全校が学年ごとに並んだ。うちのクラスは青の鉢巻きで、隣が黄色だった。前後の間隔は腕一本ぶんと決まっているのに、俺の前だけ一歩半空いていた。
前のやつが詰めなかっただけだ。詰めない理由を探すと、たいてい見つかってしまう。探さないことにした。
午前の競技は淡々と進んだ。玉入れは三十秒で終わり、うちのクラスは二位だった。俺は籠の下で十四個入れて、そのうち三個は誰かの投げたものが跳ね返ってきたやつだった。
綱引きは一回戦で負けた。負けたあと、みんなで手を叩いて、次の準備に移った。
競技のあいだ、俺はずっと用具のことを考えていた。玉を集める袋の口が一つ破れている。綱の端のテープが剥がれかけている。そういうものを見ていると、時間は普通に進む。
午後の最初が、クラス対抗リレーだった。各クラス四人ずつで、二年は六クラスある。うちからは三人が走って、四人目は最後の一枠に入ったやつだった。
応援席はトラックの内側に作られていて、クラスごとに固まって座る。俺は端から三番目に座った。
スタートの合図があって、第一走者が出た。声が一斉に上がる。この種目だけは全校が見るので、音の量が他と違う。名前を呼ぶ声が、あちこちから飛んだ。
うちのクラスは三位でバトンを渡した。二人目で二位に上がって、三人目でまた三位に落ちた。
落ちた瞬間に、後ろのほうで誰かが言った。
「日野が走れよー」
軽い声だった。悪意という感じではない。負けそうなときに出る、場を持たせるための一言だった。
笑いが起きた。大きくはない。うちのクラスの応援席の、後ろ半分くらいが笑った。
俺は前を向いたままでいた。前を向いていれば、誰が笑ったかは分からない。分からないほうがいいことがある。この一か月で学んだのは、笑いが場を元へ戻す機能を持っているということだった。笑えば、そこで起きかけたことが無かったことになる。
無かったことにしてもらえるなら、それでいい。俺は籠の数を数えることにした。四つある。
一つ数えたところで、応援席の前のほうで、誰かが立ち上がった。
篠宮だった。
この人は看板の係で、応援席では前から二列目にいた。立ち上がる理由はどこにもない。競技は続いているし、アンカーはまだ走っている。
立ち上がって、後ろを向いた。トラックのほうではなく、笑った側を向いた。
「今の」
声は大きくなかった。ただ、この人の声は教室で三年間聞いてきたとおりで、通る。
「面白くありません」
俺はそのとき、この人の背中しか見ていない。前から二列目の、紺のジャージの背中と、伸びた背筋だけが見えた。
三年間、俺はこの人の背中を後ろから見てきた。教室でも、廊下でも、帰り道でも、こちらが後ろにいる形だった。
今日は、前にいる。前にいて、こちらを守る向きで立っている。
応援席の音が、半分になった。
半分になってから、四分の一になった。アンカーが走っている足音が、急にはっきり聞こえた。
誰も何も言わなかった。言えなかった、のほうが近いと思う。笑った側は、自分が誰に何を言われているのかを理解するのに数秒かかったらしい。
篠宮は言い直さなかった。付け足しもしなかった。二秒だけそのまま立って、それから座った。
言い直す人ではある。三年間、この人は言葉を選び直し、番号を振り直し、翌朝に訂正してきた。
その人が、今日は一度で終えた。用意してきたのではなく、用意する時間がなかったのだと思う。座り方だけは、いつもどおり背筋が伸びていた。
アンカーがゴールして、うちのクラスは四位だった。拍手が起きた。拍手の量は、他のクラスと変わらなかった。変わらなかったので、表向きは何も起きていない。
俺は籠の数を数え直した。やはり四つだった。
午後の残りの競技は普通に進んだが、俺のところへ来る視線の量は、午前と明らかに違っていた。用具を運んでいるとき、テントの下を通るとき、水を飲みに行くとき、そのたびに誰かがこちらを見て、目が合う前に外した。外し方は、この二週間で見慣れたやつだった。
閉会式のあと、片付けがあった。籠を倉庫へ戻して、綱を巻いて、テントを畳む。人数は足りていて、俺の仕事は最後まで残らなかった。
倉庫の前で、相川とすれ違った。向こうは三組の係で、両手にコーンを持っていた。すれ違いざまに足を止めて、周りを一度見てから言った。
「篠宮さん、すごかったね」
「うん」
「あれ、三組でももう喋ってる」
閉会式から十五分も経っていない。
「なんて」
「言わないほうがいい?」
「言って」
相川はコーンを持ち直した。
「篠宮が日野を庇った、って形になってる」
形になってる、という言い方が正確だった。事実はそうだが、そう言われると別のものになる。
「庇われるようなことされてないんだけどな」
「されてたよ」
相川は即答した。
「あたし、笑わなかったけど、止めもしなかった。止めたのは篠宮さんだけ」
それだけ言って、相川はコーンを持って行ってしまった。今日も振り返らなかった。
倉庫の戸を閉めて、俺はグラウンドを見た。
テントはもう半分畳まれていて、白い線だけが残っていた。石灰の線は雨が降るまで消えない。明日も明後日も、たぶん同じ場所に残る。
止めようとすると、燃える。
三年前、この人は職員室へ二回行った。事実を言えば直ると思っていた。直らなかったうえに、状況が動いた。
今日も同じ形をしている。あの人は正確なことを言った。正確だったぶん、話は速く広がる。
昇降口で、篠宮と会った。鞄を持っていて、もう帰るところだった。俺を見て、足が止まった。
「あの」
「はい」
篠宮は何か言おうとして、口の形だけ作って、やめた。
やめてから、もう一度開いた。
「……増えましたか」
視線のことだと分かった。
「増えました」
「そうですか」
篠宮はそれ以上聞かなかった。聞かないのは、答えを持っているからだ。
三年前に一度、同じ計算をしている。事実を言った。相手は止まらなかった。止まらないどころか、こちらの動いたぶんだけ、向こうの材料が増えた。この人は今日、それを二度目にやった。
「明日は日曜です」
篠宮が言った。番号の外の言葉だった。
「そうですね」
「月曜は、来ます」
それが結びだった。来ます、と言い切ったのは久しぶりだった。はじめの何日かは毎朝そう言っていたが、いつからか言わなくなっていた。言わなくても来るからだ。
言い切ったということは、言い切らないと来られないところまで来ているということだ。
篠宮は頭を下げて、左へ歩いていった。
俺は昇降口を出て、もう一度グラウンドを見た。夕方の光が低いところから入って、白い線の片側にだけ影ができている。
二百メートルのトラックだった。中学のときに毎日走っていたのは四百で、こっちは半分しかない。
半分でも、線は線だった。線が引いてあると、体はどこを走ればいいかを勝手に見る。
見てから、俺は目を逸らした。




