右へ曲がった
月曜の朝、篠宮は来た。土曜に来ると言い切ったとおりだった。
時刻はいつもより二分早かった。俺が鞄を下ろす前に、もう机の横に立っていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
「②です」
「はい」
番号は元に戻っていた。金曜に飛んだ②が、今日はきちんと出ている。
直したということだ。この人は土日のあいだに、崩れたものを検算して並べ直した。
「③です」
「はい」
「放課後、少し時間をもらえますか」
③は放課後の予定の枠だった。この枠に予定が入るのは、繰り下げてから二度目になる。
「あります」
「では、昇降口で」
それだけ言って、篠宮は戻っていった。
背筋も歩幅も、いつもどおりだった。いつもどおりすぎて、かえって引っかかった。
土曜にあれだけのことがあって、月曜にここまで整うのは早い。整えるためにどれだけの時間を使ったのかを考えると、日曜のこの人の部屋が見える気がした。
教室の空気は、金曜とは違っていた。視線の量は土曜より減っている。ただ、減り方が前と違った。前は目が合う前に外れた。今日は、こちらを見てから外れる。見たことを隠さなくなっている。
一限の前に、坂内が振り返った。
「土曜のあれ」
「うん」
「篠宮、すごかったな」
「うん」
「でもさ」
坂内はそこで一度切った。切ってから、今日は続けた。
「あれ、余計に燃えると思う」
この男の言うことは、たいてい半分当たっている。今回は、たぶん全部当たっている。
午後の授業のあいだ、俺は昇降口のことを考えていた。放課後に時間をもらえますか、という言い方を、この人は前にも一度使っている。制服の店へ行った土曜の、前の日だった。あのときの③は「明日、時間はありますか」だった。
用件は最後まで言わなかった。今日も言っていない。
六限が終わって、掃除をして、四時十分に昇降口へ行った。掃除の分担は今日も窓側で、雑巾を絞る順番は最後に回ってきた。
篠宮は先に来ていた。鞄を両手で持って立っている。片手ではなく両手だったのは、初めて見た気がする。
「行きましょう」
歩き出した先は、いつもの道だった。アーケードを抜けて、駅前の交差点まで。
商店街は月曜の夕方で、水曜より人が少ない。八百屋の平台は半分空いていて、放送は男の人の声だった。
道の途中で、篠宮は一度も口を開かなかった。俺も聞かなかった。聞けば、この人は交差点まで持たないと思った。
アーケードを抜けた。交差点の信号は赤で、俺たちは並んで止まった。左は住宅街と橋と、隣の駅。右は歩道橋の下をくぐって、二分で駅に着く。
三年間、この人は左を選んできた。毎日十五分を余分に歩いて。
信号が青になった。
篠宮は右へ曲がった。
俺は一歩遅れた。遅れてから追いついて、半歩うしろにつけた。この位置に慣れているのが、こういうときは役に立つ。
「篠宮さん」
返事はなかった。歩く速度は変わらない。歩道橋の影が、足元を横切った。
右の道はうちの制服だらけだった。この時間の駅前は、三校ぶんの帰宅の流れが重なる。誰かがこちらを見て、誰かが誰かに何か言った。
篠宮は止まらなかった。見られているのに気づかないはずがないのに、歩幅が一つも変わらない。
駅の改札の手前まで来て、そこでやっと足を止めた。人の流れの端で、柱の横だった。
「ここです」
「え」
「三年間、通らなかった場所です」
俺は改札を見た。自動改札が四通路と、券売機が三台。壁の路線図は色が褪せていて、右下に工事のお知らせが貼ってある。お知らせの日付は先月のものだった。
どこにでもある駅前だった。三年ぶんの理由が置いてあるようには、どう見ても見えない。
「ここ、中学の最寄りですよね」
「はい」
「だから通らなかったんですか」
「場所の問題ではありません」
篠宮は改札のほうを向いたまま言った。
「三年前の十一月に、ここで、あなたを見ました」
風が改札のほうから吹いてきた。券売機の上の紙が一枚、端だけ動いた。
「部室の前に十九回行って、二十回目は行きませんでした。その帰りに、ここで見ました」
「俺を」
「はい。券売機の、いちばん右の前に立っていました」
俺はその券売機を見た。三台のうち、いちばん右。三年経っても位置は変わっていない。たぶん機械そのものも同じだ。
その日のことは覚えていない。覚えていないのは、三年前の俺にとって、券売機の前に立つのは毎日のことだったからだ。
「声をかけようとしました」
「かけられなかった」
「番号を、書いていませんでした」
思わず、何か言いそうになった。言わずに飲み込んだ。
この人は準備をしないと言えない。あの日、準備がなかった。準備をして出直せばよかったのかもしれないが、出直す前に結論のほうが出た。
「その場で決めました。近づかないと」
「十九回目の帰りに決めた、って言ってませんでしたか」
「決めたのは十九回目です。ここで、決めたことが正しいと確かめました」
訂正の仕方まで正確だった。
「それ以来、この道を通っていません。通ると、確かめた日のことを思い出します」
三年間の遠回りは、十五分ぶんの記憶避けだった。一日十五分を、平日だけ数えてもどれほどになるのか。数えられると分かった時点で、俺は数えるのをやめた。
「なんで今日、通ったんですか」
聞いた。聞く前から、答えはたぶん分かっていた。
篠宮はそこで初めてこちらを向いた。
「終わりにするからです」
改札の音が続いていた。誰かが通るたびに短い電子音が鳴って、そのたびに一人ぶん人が減る。
「土曜に、私は間違えました」
「間違えてないです」
「三年前と同じことをしました。事実を言えば直ると思って、直らなかった。今度は、あなたの周りが増えました」
増えた、というのは視線の量のことだった。今朝、俺も同じことを観測している。
「私が関わると、あなたが損をします。三年前に確かめて、今日、二度目を確かめました」
「二度で法則にするのは、早くないですか」
「二度で足ります」
即答だった。用意してきた答えの速さだった。
「三度目を待つと、あなたが失うものが増えます」
俺は何か言おうとして、言葉を探した。探しているあいだ、この人が言っていることの形が見えた。三年前とまったく同じ形だった。相手が損をするから離れる。相手の意見は聞かない。聞くと、離れられなくなる。
三年間、俺はこの人のその判断の下で生きてきた。それがどういうものかを、こちらは一番よく知っている。
「待ってください」
俺が言うと、篠宮の肩が動いた。
「それ、三年前にあなたが一人で決めたやつと、同じ形です」
「……はい」
「同じ形だって、分かってて言ってますか」
「分かっています」
「じゃあ、一つだけ」
俺は改札を指した。
「その券売機の前に立ってた俺は、あのとき、声をかけられたら嬉しかったと思います」
篠宮の目が、少し開いた。
「三年前の俺に聞いてないですよね」
「……聞いていません」
「今回も、聞いてないですよね」
返事はなかった。
改札の電子音が三回鳴った。三人ぶん、人が減った。
「考えます」
やっと出たのがそれだった。
考えます、は初めて聞く言い方だった。答えますでも、答えられませんでも、分かりませんでもない。この人が自分の結論を保留にしたのは、たぶん三年で初めてだ。
「じゃあ、明日も来てください」
「……来ます」
篠宮は改札を通らなかった。柱の横から出て、来た道を戻っていった。
左へ行くためには、交差点まで戻らないといけない。戻る背中を、俺は見ていた。
三年間の遠回りは、今日は逆向きに使われた。




