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用意してきませんでした

 火曜の朝、篠宮は来た。時刻はいつもどおりで、俺が鞄を下ろす前に机の横へ立っていた。


「おはようございます」


「おはようございます」


 そこで、止まった。


 ②が来ない。この人の番号は②が挨拶で固定されていて、挨拶のあとには③が続く。空欄の日でも、③はありません、とだけは言う。


 篠宮は鞄の持ち手を握ったまま、少し口を開いて、閉じた。


「今日は」


「はい」


「……何もありません」


 用件がない、という意味だと理解するのに二秒かかった。


「分かりました」


「はい」


 それだけで、篠宮は自分の席へ戻っていった。背筋は伸びていたし、歩幅も乱れていない。乱れていないのに、今のは何だったのかが分からなかった。


 昨日、改札の前で考えますと言った人が、翌朝に何もありませんと言って戻っていく。考えた結果が何もないということはない。考えている途中なので、渡すものがなかったのだと思う。


 一限の前に坂内が振り返った。今日はパンの話だった。


「日野、購買のパン、値上がりしたって知ってた」


「知らない」


「十円」


「へえ」


「十円って微妙じゃない? 悩む額じゃないけど、気づく額」


 この男が体育祭の話をしないのは、たぶん意識してのことだ。意識してやっているのに、口調はいつもどおりに聞こえる。そういうことが年々うまくなっている。


 教室の視線は、昨日よりさらに減っていた。減り方には順番があるらしい。最初に廊下側が減って、次に窓際が減って、後ろの一角が最後まで残る。


 人の関心は三日で形を変える。体育祭の翌々日には、別の学年の別の話がもう出回りはじめていた。俺のところまで届いたのは、二年三組の誰かが自転車で転んだという話だった。


 昼休みに、篠宮が来た。


 朝以外に来たのは、番号を繰り下げてからは初めてだった。俺は弁当の蓋を開けたところで、坂内は前の席に座ったままだった。


「あの」


「はい」


「午後、体育館の裏を通りますか」


「通らないです」


「そうですか」


 それだけ言って、戻っていった。坂内が俺の顔を見た。


「なに今の」


「分からない」


「分からないのかよ」


 本当に分からなかった。体育館の裏に何があるのかも知らない。考えても意味がないので、俺は弁当を食べた。


 五限の移動のときに、体育館の裏を通る用があるのは看板の係だと気づいた。倉庫の裏口が体育館側にあって、模造紙の余りはそこへ戻すことになっている。


 たぶんあの人は、それを一人で運ぶ予定を持っていた。運ぶところを見られたくなかったのか、見られてもいい相手を先に確かめたかったのかは分からない。


 聞けばよかったのだと思う。聞かなかったのは、聞けば答えが番号の形で返ってくる気がしたからだ。番号のない日の質問に、番号で答えさせるのは違う。


 六限は普通に進んだ。日直の当番表が書き換わって、明日から俺の番になっていた。


 放課後、昇降口へ行くと、篠宮が先に来ていた。昨日と変わらず、鞄を両手で持っている。


「帰りますか」


「帰ります」


 歩き出した先は、いつもの道だった。アーケードを抜けて、交差点で左へ曲がる。昨日の右ではなく、三年ぶんの左のほうだった。


 商店街の途中で、篠宮が足を止めた。文房具屋の前だった。


 店先のワゴンに筆が立ててある。看板に使う平筆と、細い面相筆が、太さの順に並んでいた。


 店は間口が狭くて、奥へ行くほど暗い。レジの横にノートが積んであって、上から二冊目だけ日に焼けている。三年前からこの並びなのだとしたら、この人は毎日その前を通って帰っていたことになる。


「一本、駄目にしました」


「看板のですか」


「はい。毛が割れました」


 篠宮は面相筆を一本取って、毛先を指で挟んだ。挟んで、戻した。それから隣の一本を取って、毛先をもう一度挟んだ。


「どっちがいいんですか」


「こちらです」


「違いが分からないです」


「戻り方が違います」


 曲げた毛が元へ戻る速さのことだと、言われてから分かった。この人は説明を短くしすぎる。短いのに、聞き返せば必ず答えるので、話は進む。


 筆は三百二十円だった。篠宮は財布から小銭を出して、店の人に渡した。店の人が袋を出しかけると、そのままでいいです、と言った。


 袋を断る人を、俺は初めて見た気がする。


 筆は鞄へ入れずに、そのまま手に持って歩きだした。持ち方は、書くときの角度のままだった。


「あの」


「はい」


「走るのは、いつからですか」


 番号のない質問だった。順番も前置きもなく、思いついた場所から出てきている。


「小四です」


「やめたのは」


「三年前です」


「また、走りますか」


 俺は少し考えた。考えるふりではなく、実際に答えを探した。


「分からないです」


 走れよ、と坂内に言われて、考えとく、と返してから六日経っている。六日考えて、何も決まっていない。


「分からないままでもいいと思います」


 篠宮が言った。


「私は、決めてしまうと、決めたとおりにしか動けません」


「経験ですか」


「はい」


 即答だった。硬い声ではなかった。


 住宅街を抜けて、橋に出た。三軒目の猫は今日もいて、塀の上からこちらを見ていた。篠宮が猫のほうを見て、一歩だけ近づいて、やめた。


「触らないんですか」


「逃げます」


「逃げますかね」


「逃げました。六月に」


 六月からこの猫の前を通っていたことになる。俺は三年間この道を知らなかったので、この人のほうが詳しい。


 川の水は少なくて、真ん中だけが動いていた。九月の終わりの五時半は、もう色が変わりはじめる時刻だった。


 護岸は片側だけ新しい。春に工事をしたらしく、新しいほうには草がなくて、古いほうは膝くらいまで生えている。一本の川なのに、片側だけ時間の進み方が違って見えた。


 篠宮は欄干の手前で足を止めた。


「今日は」


「はい」


「用意してきませんでした」


「分かってました」


「分かりましたか」


「②がなかったので」


 篠宮は少しだけ目を伏せて、それから上げた。


「準備をすると、言うことが決まります。決まると、私は決めたことしか言えません」


「昨日、俺が聞いたからですか」


「はい」


 三年前のあなたに聞いていない、と俺は昨日言った。この人はそれを一日かけて別の形にして持ってきている。準備をやめれば、決める前に相手の話が入る。入れてみた結果が、今日の一日だった。


 今日は何も起きていない。パンが十円上がって、筆が一本割れて、猫は塀の上にいた。それだけの日だった。


 それだけの日を、俺はたぶんこの三年で一番よかったと思っている。


「明日も、用意しないでください」


 言いすぎた、と分かるのが遅かった。


 篠宮は川のほうを見たまま、しばらく黙っていた。水の音は小さくて、下の道を自転車が一台通った。


「……明日は、用意します」


 声が硬くなった。昨日の改札の前と同じ硬さだった。


「そうですか」


「はい」


 それ以上は聞かなかった。聞けば、この人は今ここで言ってしまう。用意してから言うつもりのものを、準備なしで出させるのは、たぶん一番やってはいけないことだった。


 改札で別れた。頭を下げる角度は、いつもと同じだった。筆は最後まで手に持ったままだった。


 電車に乗って、窓の外を見た。家の明かりが、来たときより増えている。


 途中の駅で人が乗ってきて、俺は窓から少し離れた。離れてから、今日は一度も時計を見なかったことに気づいた。待つ予定も、確かめる予定もない日だったからだ。


 よかった、と思った。よかった、の次はもう分かっていた。


 よかったぶんだけ、明日が重い。重さは今日の分量で決まっていて、今日はずいぶん軽かった。

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