分かりました
水曜の朝は、日直だった。
七時五十分に教室へ入って、黒板を消して、日誌を取りに行く。日直の仕事は三つしかない。黒板と、日誌と、号令だ。
黒板には昨日の数学が残っていた。消した順は右からで、左端の日付だけ最後に消した。日付を消すと、前の日が終わる感じがする。
日誌は職員室の棚から取ってくる。棚はクラス順で、うちのは上から二段目の右端にあった。取るときに隣のクラスのが倒れるので、そのたびに立て直す。立て直す役は、たぶんどのクラスの日直もやっている。
八時五分に、篠宮が教室へ入ってきた。自分の席へ行って、鞄から教科書を出して、座った。動きに乱れはない。
俺は日誌を机に置いて、座って、待った。
八時十分になった。教室の音は、朝でいちばん多い時間帯のものだった。誰かが宿題を写していて、別のところで昨日のテレビの話が出ている。その音の中で、篠宮の席のあたりだけが静かだった。
八時十五分の予鈴が鳴った。篠宮は教科書を開いて、指で行を追っていた。予習をしている姿勢だった。
この形には覚えがある。三年間、毎朝こうだった。同じ教室にいて、目が合わず、何も渡されない。渡されないことを、こちらは待ちもしなかった。
待つようになったのは、この一か月でだ。一か月で身についたものは、たぶん一か月で剥がれる。剥がれる途中というのが、今日の状態なのだと思う。
一限は現代文だった。日誌の時間割の欄に、現代文と書いた。欄は一行につき一科目で、六限ぶん並んでいる。埋めていくと、一日が六個の単語になる。
二限と三限のあいだの休みに、篠宮が席を立った。廊下へ出て、五分ほどして戻ってきた。戻るときに一度こちらを見て、目が合う前に外した。
外し方は、この三週間で見慣れたやつだった。ただし、やっているのは廊下側の三人ではない。
昼休みに、相川が来た。呼びに来たのは四度目で、今日は名前を呼ばなかった。戸のところで俺を見つけて、手だけで廊下を指した。
「ちょっといい」
「うん」
廊下へ出た。窓の外は曇りで、グラウンドの白い線はまだ残っている。雨が降るまで消えないと四日前に思って、四日経ってもまだ降っていない。
相川は窓の桟に手を置いて、一度グラウンドのほうを見た。言い出すまでに三秒あった。この人が三秒使うのは珍しい。
「篠宮さん、今日、うちの教室に来た」
「三組に」
「うん。三組の子と喋ってた」
相川は三組で、去年も三組だった。誰が誰と喋るかは、たぶん俺より見えている。
「前は、来なかったの」
「見たことない」
それだけなら、何でもない話だった。相川はそこで一度切って、切ってから続けた。
「あとさ」
「うん」
「看板の三人、今日は篠宮さんと別で食べてた」
俺は何も言わなかった。言うことが思いつかなかったのではなく、思いついたものを全部やめた。
「それ、確かなの」
「見た」
相川は言い直さなかった。この人は確かなことしか言わないし、確かでないときは知らないと言う。
「言うか迷った」
「言ってくれてよかった」
「そう」
相川は少しだけこちらを見て、それから戻っていった。今日も振り返らなかった。
教室へ戻ると、篠宮の席は空いていた。机の上に弁当の包みが置いてあって、本人はいない。
包みは結んだままだった。この人は弁当を布で包んできて、食べ終わると元の形に結び直す。
結び直したものと、まだ開けていないものは、遠目には区別がつかない。近くまで行って確かめて、それから自分の席へ戻った。
五限と六限は、内容だけは頭に入った。日誌の欄を埋めなければいけないので、科目と単元をその都度書き取った。書いているあいだは、ほかのことを考えなくて済む。
所感の欄は三行ある。たいてい一行で済ませる。
今日は特にありません、と書いた。
放課後、俺は日誌を持って教室に残った。職員室へ出しに行く前に、もう一度だけ書き足そうかと思って、やめた。
放課後の教室は、水曜なので人が少ない。委員会のある曜日で、残っていたのは三人だけだった。窓の外では吹奏楽部が四小節を繰り返している。
顔を上げると、篠宮がまだ席にいた。
鞄はもう肩にかかっている。立つ途中でやめた人の姿勢だった。
たぶん、俺が日誌を書き終えるのを待っていた。待っていたのなら、朝に来なかったのは時間の問題ではない。
「篠宮さん」
「……はい」
「今日、朝、来なかったですね」
「はい」
「なんでですか」
篠宮は鞄の口に手を入れて、折った紙を一枚出した。出したが、開かない。手に持ったままだった。
「用意してきました」
「はい」
「朝は、言えませんでした。順番を間違えると、言えなくなります」
昨日、用意しないでくださいと俺は言った。この人はそれを一晩持ち帰って、用意して戻ってきている。用意したということは、答えが出たということだ。決めてしまうと決めたとおりにしか動けない、と昨日この人は言った。その状態で来ている。
紙は四つに折ってあった。折り目は、一度も開いた跡がないくらいまっすぐだった。書いたのは昨日の夜で、今朝は読み返していないのだと思う。読み返すと、言えなくなる。
「明日から、話しかけません」
篠宮は言った。硬い声ではなかった。硬くしなくても言えるところまで、準備してきたのだと思う。
俺は、昼に聞いたものを並べた。三組の教室。別で食べていた三人。結んだままの包み。
三年間、俺はこの形に慣れている。慣れるのに何年かかったかは覚えていないが、かかったぶんだけ、今は平気になっている。
この人は慣れていない。今日が一日目で、一日目でもう教室にいられなくなっている。
昨日、俺は明日も用意しないでくださいと言った。あれを通したら、この人はあと何日か、結んだままの包みを持ち歩くことになる。
「分かりました」
言うと、篠宮の肩が動いた。
「……はい?」
この人が聞き返したのを、俺は初めて聞いた。
「分かりました、って言いました」
「昨日は」
「昨日は、言いすぎました」
教室の音が遠かった。吹奏楽部の四小節が、また頭から始まっている。
篠宮は紙を持ったまま、こちらを見ていた。開かなかった紙に何が書いてあるのかは、たぶんもう関係がない。
聞くことは一つしかなかった。
「今日の昼、どこで食べたんですか」
篠宮は答えなかった。答えないまま、紙を鞄へ戻した。
「……教室では、ありません」
「そうですか」
それで足りた。足りてしまった、と言ったほうが近い。
俺は日誌を持って立ち上がった。
「じゃあ」
篠宮が口を開いた。開いて、何か言おうとして、言葉の頭のところで止まった。
俺は待たなかった。待てば、この人は言う。言われると、こちらが決めたことが崩れる。
日誌を持って、戸のところまで歩いた。歩くあいだ、後ろで椅子の動く音はしなかった。
職員室へ日誌を出して、昇降口を出た。今日は橋を通らない。駅までは右へ行けば二分で、この道は、あの人が右へ曲がった日から数えて二度目だった。
電車に乗って、窓にもたれた。夕方の下りは空いていて、向かいの席には誰も座っていない。
相手が損をするから、離れる。相手の意見は聞かない。聞くと、離れられなくなる。
昨日、俺はこれを三年前の形だと言った。言った本人が、一日で同じところに立っている。
違うところがあるとすれば、こちらは自分で気づいている点だけだった。三年前のこの人は、気づかないまま三年使った。こちらは初日に分かっている。
分かっているほうが、たちが悪いのかもしれない。
気づいていて、取り消さなかった。




