↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
25/29

言わないです

 木曜の朝、黒板は俺が来る前に消えていた。


 日直は一日で替わる。今日の当番は窓際の女子で、俺が教室へ入ったときには日誌をもう取ってきていた。職員室の棚から運ぶ役も、隣のクラスのを立て直す役も、今日はこの人のものだった。


 自分の席に着いて、鞄を下ろした。下ろしてから、手が止まった。


 昨日までは、下ろす前に机の横へ人が立っていた。立っている前提で動いていたので、立っていないと順番が狂う。


 八時五分に、篠宮が入ってきた。戸のところで一度止まって、それから窓側の通路を歩いた。あちらを通れば、俺の列の前を通らずに自分の席まで行ける。


 三年間、この人はその通路を使っていた。使わなくなったのは一か月前からで、今日また元に戻っている。


 八時十五分の予鈴が鳴った。


 五十秒だ、と思った。挨拶があって、用件があって、頭を下げるところまでで、だいたい五十秒。そのあいだ俺は毎朝、鞄を下ろす手を止めていた。


 止めなくていいと、朝が少し早く終わる。


 一限は英語だった。教科書の音読が回ってきて、自分の番のところを読んだ。読んでいるあいだは何も考えなくて済むので、こういう授業はありがたい。


 二限と三限のあいだの休みに、廊下側の三人が笑った。笑いはこちらと関係のない話で、誰かの兄が免許を落ちたという内容だった。


 視線は、たしかに減っている。減り方の順番は一昨日から変わっていない。最初に廊下側が抜けて、次に窓際が抜けて、後ろの一角だけが残る。


 残っている一角も、今日は俺のほうを見ていなかった。見る材料がなくなったからだと思う。朝に人が立たなくなれば、そこには何も起きていないのと変わらない。


 昼休みに、坂内が椅子を回した。


「日野」


「なに」


「パン、買いに行く?」


「行かない」


「そう」


 坂内は立ち上がって、二歩行って、戻ってきた。戻る理由はなかったはずなので、たぶん言うことを途中で足したのだと思う。


「なんかあんの?」


「何もない」


 言ってから、その言い方に覚えがあると気づいた。一昨日の朝、この教室で聞いている。何もありません、と言って戻っていった人がいた。


 あのとき俺は、用件がないという意味だと理解するのに二秒かかった。今の俺の返事も、たぶん同じ二秒ぶんの嘘を含んでいる。


「そう」


 坂内はそれ以上聞かずに出ていった。この男は引きどきを外さない。外さないことに、こちらが毎回助けられている。


 弁当を開けた。窓の外は今日も曇りで、グラウンドの白い線はまだ残っている。雨が降るまで消えないと五日前に思って、五日経ってもまだ降っていない。


 篠宮の席を見た。見ようと思う前に、首がそちらへ向いていた。


 弁当の包みは机の上になくて、本人もいなかった。昨日は包みだけが残っていたので、今日のほうが徹底している。


 五限と六限は、内容だけは入った。日誌を書く役目がないので、手が空いた。手が空くと、そのぶん余計なことを考える。


 考えたのは、この形があと何日続くかということだった。三年間と、あと何日かを、俺は一つの物差しで測ろうとしている。測れるわけがないと分かっていて、それでも測っていた。


 放課後、鞄を持って廊下へ出た。


 昇降口の手前で、篠宮が立っていた。壁側に寄って、鞄を両手で持っている。待っている姿勢だった。


 上履きのままだった。靴箱はすぐ横にあるので、履き替えてから待つこともできる。履き替えていないのは、待とうと決めてからここに立ったのではないからだと思う。


 通り過ぎることもできた。できたのに、足が止まった。


「あの」


 篠宮が言った。


 昨日、この人は話しかけませんと言った。言ったことを守る人だというのは、三年かけて証明されている。


「昨日の」


「はい」


「分かりました、は」


 そこで一度切れた。切ってから、続きが出てきた。


「どういう意味ですか」


 俺は答えなかった。答えを持っていなかったのではなく、持っているほうを出さないと決めていた。


 篠宮は待った。待つのがうまい人ではないのに、今日は待っていた。


「昨日、理由を聞きませんでした」


「はい」


「聞かないほうがいいと思いました。でも」


 言葉が止まった。止まったところから、別の言い方で出てきた。


「一晩、検算しました。合いませんでした」


 この人は自分の発言を一晩持ち帰って、翌朝に訂正して戻ってくる。前にも一度、そうやって謝りに来たことがある。


 今日は謝りに来たのではない。合わない計算を、こちらへ持ってきている。


「昨日、私が言い終えてから、あなたが分かりましたと言うまでに、四秒ありました」


「数えてたんですか」


「数えていました」


 この人は三年前のことを日付で覚えている。覚え方が数字なので、こういうときにも数字が出る。四秒を長いと見たのか短いと見たのかは、言わなかった。


「合わないところを言ってください」


 口が先に出ていた。聞けば答えが返ってきて、返ってきたものには返事が要る。


「あなたは、昨日、言いすぎたと言いました」


「言いました」


「一昨日のあれを、言いすぎだと思っていないはずです」


 窓の外で、部活の誰かが走っていた。走る音は、昇降口のほうまで届く。


「だから、意味が分かりません」


 篠宮の声は硬くなかった。硬くすると崩れると分かっている人の、崩さないための平らさだった。


「教えていただけませんか」


 三年間、この人はこちらへ何かを求めたことがない。求めないことで守っているつもりだったのだから、当然ではあった。


 その人が、今、押している。


「言わないです」


 俺は言った。


 篠宮の肩が、少しだけ下がった。下がってから、戻った。


「理由を聞いています」


「理由も言わないです」


「あなたは、聞かれたら答える人です」


「昨日までは」


「昨日まで、ですか」


「はい」


 自分の声が思ったより平らで、そのことに自分で驚いた。驚いたが、顔には出ていないはずだった。三年ぶん練習してきたのは、たぶんこの顔だけだ。


 篠宮は黙った。黙っているあいだ、鞄の持ち手を握り直す音がした。


「……分かりました」


 言われた。


 昨日、俺がこの人に言った言葉が、一日で戻ってきた。返ってくると、言葉の形がよく見える。中身を出さずに話を終わらせる道具として、これほど便利なものはない。


 篠宮は頭を下げた。角度は、いつもと変わらなかった。変わらない角度で下げて、上げて、それから昇降口のほうへ歩いていった。


 こちらが先に出ていれば、この人は待たなくて済んだ。そう考えかけて、やめた。やめた理由も、言わないことにした。


 外へ出ると、風が出ていた。アーケードの途中で、屋根に当たる音が少し鳴っていた。


 交差点で右へ曲がった。駅まで二分の道で、あの人が右へ曲がってから三度目になる。


 左は三年ぶんのほうだった。あちらには猫と、文房具屋と、片側だけ新しい護岸がある。三年間知らなかった道を、一か月かけて覚えて、覚えたところで使わなくなった。


 電車に乗って、窓にもたれた。夕方の下りは今日も空いていた。


 三年前、この人は俺に理由を言わなかった。俺は聞かなかった。聞かなかったので、何も渡されないまま三年が経った。


 今日は聞かれた。聞かれて、言わなかった。


 三年ぶん練習してきたのは、顔だけではなかったらしい。何を言わずに済ませるかも、そのあいだに覚えている。覚えたものを、今日は相手を決めて使った。


 聞かれずに黙るのと、聞かれて黙るのとでは、後のほうが重い。重いほうを自分で選んだ、という事実だけが手元に残る。


 窓の外で、線路沿いの家に明かりが入りはじめていた。


 明日も、俺は言わない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。