言わないです
木曜の朝、黒板は俺が来る前に消えていた。
日直は一日で替わる。今日の当番は窓際の女子で、俺が教室へ入ったときには日誌をもう取ってきていた。職員室の棚から運ぶ役も、隣のクラスのを立て直す役も、今日はこの人のものだった。
自分の席に着いて、鞄を下ろした。下ろしてから、手が止まった。
昨日までは、下ろす前に机の横へ人が立っていた。立っている前提で動いていたので、立っていないと順番が狂う。
八時五分に、篠宮が入ってきた。戸のところで一度止まって、それから窓側の通路を歩いた。あちらを通れば、俺の列の前を通らずに自分の席まで行ける。
三年間、この人はその通路を使っていた。使わなくなったのは一か月前からで、今日また元に戻っている。
八時十五分の予鈴が鳴った。
五十秒だ、と思った。挨拶があって、用件があって、頭を下げるところまでで、だいたい五十秒。そのあいだ俺は毎朝、鞄を下ろす手を止めていた。
止めなくていいと、朝が少し早く終わる。
一限は英語だった。教科書の音読が回ってきて、自分の番のところを読んだ。読んでいるあいだは何も考えなくて済むので、こういう授業はありがたい。
二限と三限のあいだの休みに、廊下側の三人が笑った。笑いはこちらと関係のない話で、誰かの兄が免許を落ちたという内容だった。
視線は、たしかに減っている。減り方の順番は一昨日から変わっていない。最初に廊下側が抜けて、次に窓際が抜けて、後ろの一角だけが残る。
残っている一角も、今日は俺のほうを見ていなかった。見る材料がなくなったからだと思う。朝に人が立たなくなれば、そこには何も起きていないのと変わらない。
昼休みに、坂内が椅子を回した。
「日野」
「なに」
「パン、買いに行く?」
「行かない」
「そう」
坂内は立ち上がって、二歩行って、戻ってきた。戻る理由はなかったはずなので、たぶん言うことを途中で足したのだと思う。
「なんかあんの?」
「何もない」
言ってから、その言い方に覚えがあると気づいた。一昨日の朝、この教室で聞いている。何もありません、と言って戻っていった人がいた。
あのとき俺は、用件がないという意味だと理解するのに二秒かかった。今の俺の返事も、たぶん同じ二秒ぶんの嘘を含んでいる。
「そう」
坂内はそれ以上聞かずに出ていった。この男は引きどきを外さない。外さないことに、こちらが毎回助けられている。
弁当を開けた。窓の外は今日も曇りで、グラウンドの白い線はまだ残っている。雨が降るまで消えないと五日前に思って、五日経ってもまだ降っていない。
篠宮の席を見た。見ようと思う前に、首がそちらへ向いていた。
弁当の包みは机の上になくて、本人もいなかった。昨日は包みだけが残っていたので、今日のほうが徹底している。
五限と六限は、内容だけは入った。日誌を書く役目がないので、手が空いた。手が空くと、そのぶん余計なことを考える。
考えたのは、この形があと何日続くかということだった。三年間と、あと何日かを、俺は一つの物差しで測ろうとしている。測れるわけがないと分かっていて、それでも測っていた。
放課後、鞄を持って廊下へ出た。
昇降口の手前で、篠宮が立っていた。壁側に寄って、鞄を両手で持っている。待っている姿勢だった。
上履きのままだった。靴箱はすぐ横にあるので、履き替えてから待つこともできる。履き替えていないのは、待とうと決めてからここに立ったのではないからだと思う。
通り過ぎることもできた。できたのに、足が止まった。
「あの」
篠宮が言った。
昨日、この人は話しかけませんと言った。言ったことを守る人だというのは、三年かけて証明されている。
「昨日の」
「はい」
「分かりました、は」
そこで一度切れた。切ってから、続きが出てきた。
「どういう意味ですか」
俺は答えなかった。答えを持っていなかったのではなく、持っているほうを出さないと決めていた。
篠宮は待った。待つのがうまい人ではないのに、今日は待っていた。
「昨日、理由を聞きませんでした」
「はい」
「聞かないほうがいいと思いました。でも」
言葉が止まった。止まったところから、別の言い方で出てきた。
「一晩、検算しました。合いませんでした」
この人は自分の発言を一晩持ち帰って、翌朝に訂正して戻ってくる。前にも一度、そうやって謝りに来たことがある。
今日は謝りに来たのではない。合わない計算を、こちらへ持ってきている。
「昨日、私が言い終えてから、あなたが分かりましたと言うまでに、四秒ありました」
「数えてたんですか」
「数えていました」
この人は三年前のことを日付で覚えている。覚え方が数字なので、こういうときにも数字が出る。四秒を長いと見たのか短いと見たのかは、言わなかった。
「合わないところを言ってください」
口が先に出ていた。聞けば答えが返ってきて、返ってきたものには返事が要る。
「あなたは、昨日、言いすぎたと言いました」
「言いました」
「一昨日のあれを、言いすぎだと思っていないはずです」
窓の外で、部活の誰かが走っていた。走る音は、昇降口のほうまで届く。
「だから、意味が分かりません」
篠宮の声は硬くなかった。硬くすると崩れると分かっている人の、崩さないための平らさだった。
「教えていただけませんか」
三年間、この人はこちらへ何かを求めたことがない。求めないことで守っているつもりだったのだから、当然ではあった。
その人が、今、押している。
「言わないです」
俺は言った。
篠宮の肩が、少しだけ下がった。下がってから、戻った。
「理由を聞いています」
「理由も言わないです」
「あなたは、聞かれたら答える人です」
「昨日までは」
「昨日まで、ですか」
「はい」
自分の声が思ったより平らで、そのことに自分で驚いた。驚いたが、顔には出ていないはずだった。三年ぶん練習してきたのは、たぶんこの顔だけだ。
篠宮は黙った。黙っているあいだ、鞄の持ち手を握り直す音がした。
「……分かりました」
言われた。
昨日、俺がこの人に言った言葉が、一日で戻ってきた。返ってくると、言葉の形がよく見える。中身を出さずに話を終わらせる道具として、これほど便利なものはない。
篠宮は頭を下げた。角度は、いつもと変わらなかった。変わらない角度で下げて、上げて、それから昇降口のほうへ歩いていった。
こちらが先に出ていれば、この人は待たなくて済んだ。そう考えかけて、やめた。やめた理由も、言わないことにした。
外へ出ると、風が出ていた。アーケードの途中で、屋根に当たる音が少し鳴っていた。
交差点で右へ曲がった。駅まで二分の道で、あの人が右へ曲がってから三度目になる。
左は三年ぶんのほうだった。あちらには猫と、文房具屋と、片側だけ新しい護岸がある。三年間知らなかった道を、一か月かけて覚えて、覚えたところで使わなくなった。
電車に乗って、窓にもたれた。夕方の下りは今日も空いていた。
三年前、この人は俺に理由を言わなかった。俺は聞かなかった。聞かなかったので、何も渡されないまま三年が経った。
今日は聞かれた。聞かれて、言わなかった。
三年ぶん練習してきたのは、顔だけではなかったらしい。何を言わずに済ませるかも、そのあいだに覚えている。覚えたものを、今日は相手を決めて使った。
聞かれずに黙るのと、聞かれて黙るのとでは、後のほうが重い。重いほうを自分で選んだ、という事実だけが手元に残る。
窓の外で、線路沿いの家に明かりが入りはじめていた。
明日も、俺は言わない。




