肩の少し上
金曜の朝、俺は視線の高さを決めた。
八時五分に篠宮が入ってくる。戸のところで一度止まって、窓側の通路を歩く。昨日と同じ順番だった。
通路を歩くとき、この人は必ず一度だけこちらの列のほうを見る。見るというより、目が通る。通るだけなので、合わない。
合わないようにするには、こちらも高さを決めておけばいい。相手の目より少し上、肩から頭一つぶんくらいのところに焦点を置いておく。そこに置いておけば、人が通っても視界の中を移動しているだけになる。
三年間、この人は俺の肩の少し上を見ていた。透明人間というのは案外こういう感じなのかもしれないと、あのころ俺は思っていた。
やってみると、一日もかからなかった。二日で覚えた。正確には、昨日の放課後から今朝までのあいだで覚えた。三年かかるようなことではない。
予鈴が鳴った。一限は数学で、黒板に書かれた式を写した。
式を写すのは楽だった。手が動いているあいだ、目は黒板にある。黒板には人がいない。
二限は世界史で、三限は化学だった。化学は実験室へ移動する。移動のときに列ができて、列の中で人の位置が入れ替わる。
廊下で一度、すれ違った。こちらの視線は決めた高さにあった。向こうがどこを見ていたかは、だから分からない。分からないようにしてあるので、分からないのが正しい。
すれ違ったあとで、指先だけが冷たくなっていた。
四限の途中で、窓の外に雨が来た。六日待っていた雨で、グラウンドの白い線はこれで消える。消えるところを見たかったが、席から見えるのは校舎の壁だけだった。
昼休みに、坂内が椅子を回した。
「雨、来たな」
「来た」
「体育、中止?」
「体育館じゃないの」
「バレーか。バレーは嫌いじゃない」
坂内は普通に喋って、普通に前を向いた。俺も普通に返していた。
返せることが、少し引っかかった。喋れないのではなく、喋らないと決めた相手が一人いるだけで、ほかは何も変わらない。変わらないまま一日が進む。
雨の日は外へ出る人が減るので、廊下に人が溜まる。
階段の下で、模造紙の筒を持った篠宮が止まっていた。
筒は長い。体育祭の看板に使った余りで、倉庫へ戻す決まりになっている。一昨日、本人が体育館の裏を通るかと聞いてきたのは、この用のためだった。
筒は三本あった。三本を横に抱えると、階段の手すりに当たる。当たらないように持ち替えると、今度は前が見えなくなる。
俺は階段の上にいた。三段下りれば手が届く。
三段は、下りるのに二秒もかからない。声をかける必要もなくて、手を出して一本受け取れば、それで済む。
済んでしまうことが問題だった。済ませたあとに、こちらは何と言うことになるのか。運びますとも、手伝いますとも、昨日までなら言えた。言わないと決めたのは、俺のほうだった。
下りなかった。
持ち替えるところを、決めた高さから見ていた。高さを決めてあると、人の形は見えるのに、顔のあたりだけがぼやける。ぼやけたままで、筒が壁に当たる音だけがよく聞こえた。
二度目の持ち替えで、一本が落ちた。落ちた筒は転がって、階段の下の壁で止まった。篠宮は残りの二本を抱えたまま、少しのあいだ動かなかった。
拾いに行こうとして、残り二本の置き場を探して、置き場がないので抱えたままかがんだ。かがみ方は丁寧だった。丁寧にやらないと、残りも落ちる。
誰かが先に拾った。三組の女子で、拾って渡して、そのまま行ってしまった。
篠宮は頭を下げた。角度は、いつもと変わらなかった。
頭を上げたあと、この人は一度だけ階段の上を見た。
見たのかもしれない、という言い方のほうが正確だった。こちらの視線は決めた高さにあって、顔のあたりはぼやけている。ぼやけたものが上を向いたかどうかは、こちらの側の問題になる。
三年間、俺はこれと反対側に立っていた。向こうが見ているかどうかを、一度も確かめられなかった。確かめる方法がないというのは、こういうことだったらしい。
俺は階段を下りた。下りる途中で、向きだけ変えて、渡り廊下のほうへ曲がった。曲がる理由は何もなかった。
渡り廊下は雨で濡れていた。屋根はあるが、横から入ってくる。
立っていると、上履きの先が濡れてきた。濡れるのが分かっていて、しばらく立っていた。
雨は屋根の端から筋になって落ちていた。落ちた先のコンクリートに、黒い線が一本できている。
線は雨が止めば消える。グラウンドの白い線も、たぶんもう消えている。消えるところを見に行こうとして、渡り廊下で止まっているのが今の状態だった。
五限は体育で、雨なので体育館だった。バレーの試合形式で、俺は後衛にいた。ボールは三回来て、三回とも返した。
返せることと、返したいことは別だった。体が勝手に動くのは走るときだけだと思っていたが、そうでもないらしい。
六限が終わって、掃除があった。金曜は机を全部下げて床を拭く。
机を下げるときに、篠宮の机も下げた。列が同じなので、自分のを下げれば流れで動かすことになる。動かして、位置を戻して、それだけだった。
机の中に教科書はなかった。毎日そっくり持ち帰る人なのだと、今になって知った。
知ったところで使い道がない。使い道のない情報ばかりが、こういう日にはよく集まる。
掃除のあいだ、教室に篠宮はいた。窓の桟を拭いていて、拭き終わると雑巾をたたんで、次の窓へ移っていた。
一度も、こちらを見なかった。
見ていないことが分かるのは、こちらが見ているからだった。決めた高さの話は、あれは一日のうち何度かしか成り立たない。
放課後、俺は先に教室を出た。出るときに、戸のところで一度止まった。止まったが、振り返らなかった。振り返らないと決めていたのではなく、振り返ったら終わると思った。
昇降口で靴を履き替えた。雨脚は強くなっていて、傘を持っていない人が何人か立っていた。
俺は傘を持っていた。自分で買ったものではない。
一か月前の夕方、昇降口で押し問答をして、結局こちらが折れた。折れて受け取って、それきり玄関の傘立てに立っていた。雨が降らなかったので、出す機会がなかった。今朝だけ、鞄へ入れて出てきた。六日ぶん空を見ていれば、降るかどうかくらいは分かる。
開くときに、骨の一本が固い。受け取った日も歩きながら二回、下から押し上げた。今日も二回押し上げて、開いた。
歩きだした。アーケードに入れば、屋根がある。屋根の下では傘は要らない。要らないのに畳まなかったのは、畳むと後ろが見えるからだった。
交差点で右へ曲がった。四度目になる。駅までの二分で、いくつか数えた。今日、俺が視線の高さを決めていた時間。筒が壁に当たった回数。階段の三段。
数えるのは、この人の癖だった。数えると、気持ちが数字のほうへ移る。
電車に乗った。窓が曇っていて、外は見えなかった。
三年間、あの人はこれを毎日やっていた。毎日、俺の肩の少し上に目を置いて、教室を横切って、何も渡さずに帰っていた。
一日でできた。二日目には、階段の上から見ていられた。
できることと、続けられることは別だった。
続けられないのは、量の問題ではないと思う。三年ぶんを二日に詰めたからでもない。
向こうが一度もこちらを恨まなかったことを、俺は知っている。知っていてこれをやると、逃げ場がどこにも残らない。
明日は土曜で、明後日は日曜だった。二日ある。
二日あると分かったとき、俺は少しだけ息をついた。
息をついたことが、答えだった。




