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戻りません

 土曜と日曜で、俺は二日ぶん何もしなかった。


 土曜は昼まで寝て、起きてから洗濯物を取り込んだ。母が夜勤明けで寝ていたので、音を立てないように畳んだ。畳み方が雑だと言われたことがあるので、袖の合わせ目だけは揃えた。


 日曜は買い物に行った。卵と牛乳と、あとは適当に。レジで小銭を出すのに手間取って、後ろの人を待たせた。


 二日で、篠宮のことを考えなかった時間が何分あったかを数えようとして、やめた。数えるのはあの人の癖で、こちらがやると精度が出ない。


 月曜の朝、雨は上がっていた。グラウンドの白い線は消えていて、代わりに中央のあたりだけ土の色が濃かった。


 八時五分に、篠宮が入ってきた。窓側の通路を歩いて、自分の席へ行って、座った。


 三日目になる。三日目にもなると、手順が身体に入る。鞄を下ろして、椅子を引いて、座る。途中で止まるところはもうない。


 一限は現代文だった。教科書の随筆に、同じ道を三十年通った人の話が出てきた。


 三十年通うと道のほうが人を覚える、というようなことが書いてあった。教師はそこに線を引かせた。俺は線を引いて、それから引いた線を見ていた。


 二限と三限のあいだの休みに、相川が来た。この時間に来るのは珍しい。


 戸のところではなく、教室の中まで入ってきた。入ってきて、俺の机の横に立った。


「日野くん」


「うん」


「篠宮さん、朝、来てないよね」


 相川は三組で、うちの教室の朝を見ているわけではない。見ていないのに知っているということは、誰かが言っているということだった。


「来てない」


「なんで」


「言えない」


 相川は少しのあいだ黙った。この人は黙るのがうまくない。黙っているあいだ、指で机の角を二回叩いた。


「三年前もさ」


「うん」


「みんな、なんでかは知らないままだったよ」


 それだけ言って、相川は戻っていった。今日も振り返らなかった。


 昼休みに、坂内がパンを買ってきた。値上がりしたやつを二つ買って、一つを俺の机に置いた。


「なんで」


「十円ぶん、おごってやる」


「全額じゃないのかよ」


「全額はきつい」


 坂内は笑って、自分のを開けた。この男は理由を聞かない。聞かないかわりに、こういうものを置いていく。


 パンは思ったより甘かった。甘いものを食べたのは久しぶりで、そのせいか、午後はずっと喉が渇いていた。


 放課後、俺は昇降口を出て、右へ曲がらなかった。右は駅まで二分の道で、水曜からずっとそちらを使っている。


 曲がらなかった理由を、自分ではうまく言えない。足が左へ出て、出たあとで、出たことに気づいた。


 アーケードを抜けて、交差点で左へ曲がった。八百屋の前を通って、花屋の前を通って、住宅街へ入った。


 三軒目の猫はいなかった。塀の上が空いていて、日の当たる場所だけが乾いていた。


 橋に出た。


 篠宮は、欄干の手前に立っていた。


 鞄は足元に置いてあった。いつも両手で持っている人が、地面に置いている。置いたのはついさっきではなく、しばらく前だろうと思った。


 こちらを見ていた。俺が来ることを知っていたわけではないはずで、それでも、立っていた。


 俺は五歩ぶん手前で止まった。止まってから、この距離に覚えがあると気づいた。追いかけた日も、これくらいのところで向こうが自分から止まった。


「篠宮さん」


「はい」


 声が硬かった。硬いのは初めてではない。ただ、硬さの種類が違った。


「木曜に、聞きました」


「はい」


「答えていただけませんでした」


「はい」


 川の水は先週より多い。雨のぶんだけ増えて、真ん中だけでなく端のほうも動いていた。


「あなたは、私が三年前のあなたに聞いていない、と言いました」


 篠宮は言った。言い直さなかった。


「改札の前で、言いました。今回も聞いていないですよね、とも言いました」


「言いました」


「私は、聞きました」


 そこで一度、切れた。切れてから、続きが出てきた。


「聞いたのに、答えていただけませんでした」


 俺は何も言わなかった。言えることが一つもなかったわけではない。言えば、そのぶん向こうの計算が合ってしまう。


「それは、私がしたことより悪いです」


「知ってます」


 言った瞬間に、篠宮の目が動いた。動いてから、正面からこちらを見た。


「知っていて、するんですか」


 声が大きくなった。大きいというほどではないが、この人の声としては大きかった。川の音より上に出た。


「はい」


 三年間、この人が声を上げるのを聞いたことがない。教室でも、廊下でも、職員室の前でも。上げないことで保っていたものが、今、一つ外れた。


 怒らない人なのだと思っていた。そうではなくて、怒る相手がいなかっただけらしい。


「理由を、言ってください」


「言わないです」


「言ってください」


 二度目だった。この人は言い直さない人で、二度言うのは言い直しではない。要求だった。


 俺は答えを持っていた。持っていたが、出すと崩れることも分かっていた。


「あなたが損をするからです」


 言った。言ってしまった。


 言わないと決めていたものは、口に出すと思ったより短かった。一行で済む。三年前にこの人が一人で持っていたのも、たぶんこの一行だった。


 篠宮は動かなかった。動かないまま、二秒あった。


「それは」


「俺がいなくなれば、元に戻ります」


「戻りません」


 即答だった。用意してきた答えの速さではなかった。用意していない答えの速さだった。


「戻ります。三年間、戻ってました」


 言った直後に、自分の言葉の中身が見えた。戻るというのは、こちら側から見た言い方だった。


 見えたときには、もう遅かった。


「戻っていません」


 篠宮は言った。


「三年間、私は一度も戻っていません。毎朝、あなたの席を見ていました。班分けのときも、体育の集合のときも、どこにいるかは全部分かっていました。目を合わせないというのは、見ないことではありません」


 息を継いだ。継いでから、続けた。


「それを戻ったと言うなら、あなたは何も見ていません」


 三年間、俺は自分を、いなくても回る側の人間だと思ってきた。回っていなかったと今そこで言われて、それが嬉しいのか苦しいのかを、その場で判定できなかった。


 川の下を、自転車が一台通った。ベルの音が一度鳴って、遠ざかった。


「番号は、もう書いていません」


 篠宮は鞄の口に手を入れて、途中でやめた。出さなかった。


「書く相手がいないと、書けないものでした」


 俺は、五歩ぶん手前に立ったままだった。五歩は、埋めようと思えば二秒で埋まる距離だった。


 近づけば、たぶんまだ届いた。届いたところで、こちらが言うことは決まっていて、決まっているから言わないと決めたのだった。


「じゃあ」


 俺が言った。


 篠宮は何も言わなかった。頭も下げなかった。


 角度をいつも一定に保っていた人だった。今日は、下げるところまで行かなかった。保っていたのは、渡すものがあったからだと思う。


 背中が、橋を渡っていった。渡った先は隣の駅で、三年前の駅とは反対の方角だった。


 橋の上には、俺のほかに誰もいなかった。下の道を人が二人通って、二人とも上を見なかった。俺は欄干に手を置いた。置いてから、手が冷たいのではなく欄干が冷たいのだと気づいた。


 川は動いていた。片側だけ新しい護岸の、古いほうの草が倒れていた。雨で倒れたのだと思う。


 しばらく立って、それから歩いた。立っていた時間は、たぶん自分で思っているより短い。


 駅までは、来た道を戻ることになる。戻る道のほうが、来た道より長く感じた。


 駅の手前で、傘を持っていることを思い出した。今日は要らない日だったので、出さないまま鞄に入っている。返す理由は、もう無くなっていた。


 電車に乗って、窓にもたれた。窓の外は暗くなりかけていて、自分の顔が薄く映っていた。


 どうせ、と思った。


 俺はずっと、いてもいなくても同じだと思っていた。今日、自分の手でそうした。


 思ったとおりになった。思ったとおりになると、手元には何も残らない。

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