知ってるのはそこまで
朝、教室に入ったら、話が止まった。止まったというより、切り替わった。俺が戸を開ける前と後で、同じ人たちが同じ音量で別の話をしている。先週までは、俺が入っても何も起きなかった。
鞄を置いて、椅子を引いた。窓際の一角に篠宮はいた。中心に座って、いつもどおり動かない。
ただ、一角の人数が一人増えていた。増えた一人は隣のクラスのやつで、朝からうちの教室にいる理由はない。理由がなくてもいる程度には、この件は広がっている。
一度だけ、こちらを向きかけた。向きかけて、やめた。
それで今日は来ないんだな、と分かった。分かってから、自分が朝の八時十分に予定を組んでいることに気づいた。この一週間で、俺の生活はずいぶん行儀よく崩されている。
一限の前に坂内が振り返った。今日は椅子ごとではなく、首だけだった。
「なあ、日野」
「うん」
「気ぃ悪くしないで聞いてほしいんだけど」
前置きをする坂内は初めてだった。
「おまえ、篠宮のこと追いかけてる、みたいな話になってる」
俺は教科書を開く手を止めた。
「追いかけて」
「いや、俺は違うと思ってるよ。毎回向こうから来てるし。でもさ、見てないやつからすると、そう見えるらしい」
「見てないやつが、なんで見えるんだよ」
「見てないから見えるんだろ」
坂内は言うだけ言って前を向いた。この男の言うことは半分くらい当たっているので、今のも半分は当たっているのだと思う。
俺は自分が昨日、隣の駅まで歩いたことを思い出した。先週の金曜も歩いた。歩いた回数だけを並べれば、たしかに追いかけている。
誰かが数えていたわけではない。数えていなくても、同じ方向へ二人で歩けば、二回で十分らしい。
否定する方法を考えて、すぐにやめた。否定したところで、否定したという話がもう一つ増えるだけだ。
昼休みに、教室の戸のところから名前を呼ばれた。今度は最初から分かった。相川だった。廊下へ出ると、相川は昨日と同じ場所に立っていて、昨日と同じように鞄の紐を持ち直した。
「昨日のこと」
「うん」
「やっぱり、言う」
言ってから、相川は自分でうなずいた。夜のあいだに決めてきた人の顔だった。
俺たちは階段の踊り場まで移動した。この一週間で、俺はこの場所をずいぶん使っている。
「あたし、あのころ部室にいたから」
「うん」
「日野くんが来なくなったあと、しばらくしてから、篠宮さんが部室の前に来るようになったの」
俺は自分の耳を疑ったが、疑ったところで相川の口は動き続けた。
「毎日じゃない。週に一回か二回くらい。放課後の、練習が始まる前」
「何しに」
「入ってこないの。入り口の外に立ってて、誰か出てくるのを待ってる」
部室は体育館の裏で、外から中は見えない。窓は高いところに一つしかなくて、そこもだいたい曇っている。中にいる人間には、外に誰が立っているか分からない。立っているほうからも、中は見えない。
相川は少し言葉を選んだ。選んだが、さっきのようには止まらなかった。
「それで、聞くの。名前は言わないの。ただ『来てますか』って。誰のことかは、みんな分かってた」
踊り場の窓の外で、風が一度強く吹いた。木の枝が窓枠に当たって、それきり静かになった。
「……三年前だよな」
「三年前」
「俺はもう辞めてた」
「うん。だから、みんな『来てないよ』って答えてた。そしたら『そうですか』って言って、帰る。それだけ」
それだけ、と相川は言った。俺にはそれだけがどのくらいの量なのか分からなかった。
「何回くらい」
「覚えてない。秋のあいだずっとだったから、十回か、二十回か」
二十回。二十回、あの人は部室の前に立って、俺が来ていないことを確認して帰った。
そのあいだ、俺は家にいた。何をしていたかもよく覚えていない。覚えているのは、十月に入って急に日が短くなったことと、母が何も聞かなかったことくらいだ。
あのころ、俺は自分が辞めたのだと思っていた。今でもそう思っている。
「なんでそんなことしてたのか、聞かなかったの」
「聞いたよ」
「なんて」
「『すみません』って言われた」
俺は笑いそうになって、笑えなかった。三年経っても語彙が同じだった。
「それで、あたしが知ってるのはそこまで」
相川はそう言って、髪を耳にかけた。かけてから、かけた手をそのまま下ろした。
「ほんとに、そこまで?」
「……そこまで」
言い終わりが早かった。
最近、俺はこの判定ができるようになってしまった。できるようになったせいで、目の前の人が自分に嘘をつく瞬間が分かる。分かったところで、詰め寄る権利があるわけでもない。
「言えないことがあるなら、いいよ」
「ごめん」
「謝らなくていい」
「ごめん」
二回言った。一回でいいことを二回言う人は、たいてい自分に言っている。この人も、篠宮も、同じ癖を持っている。
相川は戻っていった。戻り際に一度だけ振り返って、何か言おうとして、やめた。今週はこの動きを見てばかりだ。
午後の授業のあいだ、俺は二十回のことを考えていた。
部室の入り口の高さを、まだ覚えていた。鴨居が低くて、背の高い先輩は必ず一度かがむ。外に立っていれば、中の声も、スパイクの底を叩く音も聞こえる。
あの前に、秋のあいだ二十回。立っていた時間の長さのほうが、先に体へ来た。
嫌われている、とは思っていなかった。嫌うにはまず認識しないといけないからだ。だから俺は、見えていないんだと思っていた。
どちらも違った。
見えていないなら、部室の前には来ない。来る必要がない。
あの人は俺を見ていなかったんじゃない。見ないことにしていた。見ないことにするためには、まずどこにいるかを知っていなければならない。
教室を見た。窓際の一角は、昼と同じ人数で同じ話をしている。中心にいる人は、こちらを一度も見ない。
三年間ずっとそうだった。ずっとそうだったということは、三年間ずっと、見ないための努力が続いていたということになる。努力というのは、一日でも気を抜けば途切れるものだ。途切れなかったということは、毎日やっていたということだ。
六限が終わって、掃除が始まった。俺は黒板消しをクリーナーにかけながら、聞くことを決めた。
昨日は「どうして三年間、俺を見なかったんですか」と聞いた。答えは出なかった。今日は順番を変える。
掃除が終わって顔を上げたとき、窓際の一角にはもう誰もいなかった。
机の上は片付いていて、椅子はきちんと入れてある。この人は帰るときに椅子を必ず入れる。三年間見ていて、それだけは知っていた。
俺は鞄を持って走り出した──ということもなく、普通に廊下へ出た。走る理由が思いつかなかったし、走ると決めたわけでもなかった。
昇降口を出て、アーケードへ入って、交差点まで行った。右にも左にも、あの背中はなかった。
俺は交差点で三十秒ほど立っていた。信号が二回変わった。二回目の青で、左へ渡った。
誰もいない道を、十五分歩いた。ゴミの日ではない住宅街は、朝より静かだった。犬の散歩の人ともすれ違わない。橋の上で一度立ち止まって、上流と下流を両方見た。水は昨日より減っている。
橋の上にも、隣の駅のホームにも、制服はいくらでもいて、探している一人だけがいなかった。電車に乗ってから、俺は明日のことを考えた。
明日、あの人が来なかったら、こっちから行く。
三年間、俺はこの手の決心をしたことが一度もない。することがなかったからだが、しなかったのも事実だ。決心には相手がいる。相手のいない三年間は、その意味でずいぶん楽だった。




